車窓からの桜並木が鮮やかだった都電「番町線」 1964年東京五輪で真っ先に消えた顛末

車窓からの桜並木が鮮やかだった都電「番町線」 1964年東京五輪で真っ先に消えた顛末

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  • 更新日:2022/01/15
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靖国神社の石鳥居を背景に番町線から九段線に右折合流する10系統須田町行きの都電。ビューゲルの左横の架線にトロリーコンタクターが写っている。九段坂上 (撮影/諸河久:1963年7月6日)

1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は1964年の東京オリンピック工事に関連した都電迂回運転で、真っ先に廃止された番町線を巡る都電の話題を紹介しよう。

【当時の番町線の写真など、50年以上前の貴重な写真はこちら】*  *  *

都電が地下鉄へと移行した昭和の高度経済成長期。地下に潜ったことで移動時間の短縮などに大きな利点をもたらしたが、一方で心寂しくなったこともある。車窓から東京の景観が失われたことだ。

人いきれの都心部ながら、そこかしこにある桜の名所。車窓から春を感じられる路線はいくつもあり、東京の美しさを堪能することができた。

靖国神社で著名な九段上と半蔵門を結ぶ番町線もその一つ。山手と下町を繋ぐ10系統(渋谷駅前~須田町)が通う東京市街鉄道以来の伝統路線で、番町線が敷設された青葉通り(内堀通り)の沿道は桜並木が続き、桜花爛漫の頃には都電の車窓から花見と洒落(しゃれ)込んだことだろう。

風光明媚な番町沿線で花見が楽しめたのは1963年の春までだった。東京オリンピック工事の一環だった千鳥ヶ淵畔の首都高速道路環状線の建設が進捗し、1963年9月30日限りで番町線はいの一番に廃止されてしまったからだ。同時に青山線(三宅坂~渋谷駅前)のうち三宅坂~赤坂見附~青山一丁目間も線路が撤去され、10系統は青山一丁目から四谷三丁目、四谷見附、市ケ谷見附に迂回し,九段上に達することになった。

■雑踏の九段上交差点で九段線に合流する番町線

冒頭の写真は、番町線九段上停留所で発車待ちする10系統須田町行きの都電。背景は1933年に建立された靖国神社の石鳥居で、交差点で合流する九段線(小川町~九段上)が敷設された靖国通りは自動車の雑踏だった。

画面中央の交通信号機には路面電車専用の黄色矢印信号が点灯している。集電装置のビューゲル弓部の上部が架線上のトロリーコンタクターに接触すると、電車が交差点を右左折する信号が制御器に送信され、自動的に分岐器を転轍し、矢印信号を現示する装置だ。このシステムの採用により、信号機の左隣に屋根だけ写っている信号塔内の信号士は不要となり、無人化による合理化が図れた。なお、1960年の記録では76箇所の信号塔のうち、33箇所が自動化されている。

番町線は九段線と半蔵門線を結ぶ1200mの短絡路線で、九段上停留所から三番町停留所にかけて上りの「九段富士見坂」と下りの「裏三番町坂」、三番町停留所から半蔵門停留所にかけて下りの「表三番町坂」と上りの「青葉切通坂」が続き、起伏の激しい路線だった。

次のカットは九段上から最急36パーミルの九段富士見坂を上る10系統渋谷駅前行きの都電。青葉通りの両脇には見事な桜並木が連なっているが、翌年の満開時に都電の姿は消えていた。画面右側の建物が1877年10月に開校した二松学舎大学の旧校舎だ。

■1905年の開業から1930年まで旧線を走った番町線

九段上と半蔵門の中間に位置するのが写真の三番町停留所だ。画面右奥が九段上方向で、三番町停留所を発車して最急40パーミルの裏三番町坂に挑む10系統須田町行きの都電が写っている。三番町界隈は隣接する九段上や半蔵門の雑踏と比べると交通量が少ない閑静な街で、画面左端に昭和の佇まいを見せる「三番町ホテル」は1970年代まで盛業していた。

余談であるが、江戸に限らず、仙台、岡山、松山などの城下町には「番町」という地名がある。番町は城下のお膝元に位置して、大番組の宅地が置かれていたところで、城郭防衛の最重要地帯であった。江戸城の場合は一番組から六番組まで置かれていたので、一番町から六番町までの地名となった。

ところで、1905年番町線開業時の三番町停留所は五番町を名乗っていた(改称は1933年)。当時の番町線は、この画面手前を右手に折れ、名勝「千鳥ヶ淵」に沿った街路を北上して富士見町停留所に至る旧線を使用していた。

掲載の路線図は「東京市内電車案内図」からの抜粋で、五番町から右に折れて千鳥ヶ淵畔を回って富士見町に至る旧路線が判読できる。この路線図が東京鉄道会社から発行されたのは1907年3月で、九段線の九段坂下(1930年に九段下に改称)と富士見町は開業予定線になっていた。九段坂の急勾配で電車が登坂できず、内濠側に勾配緩和線を構築し、開業に漕ぎ着けたのは1907年7月だった。

最後の写真は番町旧線も接続していた九段線の九段坂勾配緩和区間を走る路面電車の絵葉書で、関田克孝氏のコレクションを拝借した。開業当初の九段坂の専用軌道と路面電車が鮮明に記録されている貴重な資料だ。

九段坂を上るのは東京鉄道会社の251型600号で、東京市街鉄道(街鉄)の旧1型でヨシ(ヨ=四輪単車/シ=街鉄引継車)と呼ばれていた。1903年から1906年にかけて499両が量産された全長7.576m、定員40名(座席定員16名)の木造四輪単車。車体は日本車輛他三社による国産で、台車は米国製ペックハムB8型を使用。

この絵葉書を観察すると、方向幕に右書きで「志んじく」と掲示されている。当時の新宿行きは九段坂を上った富士見町(1908年頃に九段上に改称)を左折して番町線に入り、半蔵門を右折して新宿に向かっていた。画面左側には田安門に通じる土塁と新たに架橋された跨線橋が写っている。

1923年に起こった関東大震災後の復興道路工事で、靖国通りが拡幅・勾配緩和されることとなり、1930年4月に九段下~九段上の勾配緩和専用軌道が九段坂の道路上に移設された。同時に九段線と接続する番町旧線も九段上から五番町に向かう新線に切替えられ、千鳥ヶ淵畔の旧ルートは廃止された。ちなみに、新線に移行しても九段坂の最急勾配は60.6パーミルの特別坂路に数えられる難所だった。

■撮影:1963年7月6日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの軽便鉄道」(イカロス出版)など。2021年12月に「モノクロームの私鉄電気機関車(共著)」をイカロス出版から上梓した。

※AERAオンライン限定記事

諸河久

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