哲学者が『鬼滅の刃』3巻24話から考える「物事を正しく理解する仕方」

哲学者が『鬼滅の刃』3巻24話から考える「物事を正しく理解する仕方」

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/11/22
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早くに価値判断してはならない

ついこのあいだ拙著『哲学トレーニングブック』(平凡社)を公刊し、それが機縁となって「現代ビジネス」へ寄稿することになった。以下では、漫画・哲学書・人生を順に論じていくが、三つの話題を通じて一貫した事柄が語られるだろう。

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吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)の『鬼滅の刃』(集英社)が自分にとって面白くなってきたのは「頑張れ 炭次郎 頑張れ!!」と主人公・竈門炭治郎(かまど・たんじろう)が自らを鼓舞するコマあたりからである(第24話、単行本3巻収録)。

連載開始時からジャンプで読んでいたのだが、最初の二十数回は《暗い漫画だなあ・・・・・・》という印象だけであった。だが、雷の隊士・我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)の登場したあたりから私の受け取り方は徐々に変化し、「頑張れ 炭次郎 頑張れ!」という言葉のあとには毎週次の回を待ち遠しく感じるようになった。

――こうしたことを語ることで何が言えるのかと言うと、それは連載漫画の読み方についての一般的注意である。これは大半の漫画読みにとって「釈迦に説法」の話だろうが、言語化しておく価値もあると思う。

週刊連載などを読むさいに肝に銘じておくべき事柄は《あまり早くに作品の価値を判断してはならない》ということだ。漫画の或る箇所の意味合いは、後のストーリーの進み方からも影響を受ける。それゆえ、連載が始まったばかりの内容がつまらなく感じられても、その後の展開次第では初めの箇所もまた面白く読める可能性がある。

じっさい、「頑張れ 炭次郎 頑張れ!!」のシーンに出会ったあと、私はジャンプのバックナンバーを引っ張りだし『鬼滅』を初回から読み返してみた――そして《これはたんに暗い漫画ではないぞ》という感想を抱いた。それほど面白く感じられなかった初めの数回が、たいへん楽しめるものになったのである。

漫画はいわば「回をまたいで構造化されている」ので、特定の回(とりわけはじめの数回)の印象だけで作品全体の価値を決めるわけにはいかない。そして当初の印象は塗りかえられる可能性がある。いまや『鬼滅の刃』は私にとって初回からつねに面白い漫画になっている。

以上のような点を考慮すれば、連載途中で作品の質を評価することはなかなか難しいと言わざるをえない(ひょっとしたら不可能かもしれない)。例えば横田卓馬の『背すじをピン!と』(集英社)という作品がある。私はこれを連載開始時からジャンプで楽しんでいたが、作中の或る人間関係(部長と副部長の関係)がギクシャクし始めたあたりから読み続けるのがつらくなった――心が痛かったのである。

とはいえ、後のストーリー展開はそうしたギクシャクもいわば「回収」し、作品全体はまったく爽快に読めるものに仕上がっている。中途の印象もまた当てにならない、ということだ。

かくして、かつてお気に入りだった作品が現在の連載においてつまらなくなっている、というひとがいるとすれば、しばらくの辛抱をお勧めする。というのも、それはまた面白くなる可能性があるし、その場合には、いま「つまらない」と感じているシーンすらも面白く感じられるかもしれないからである。

連載という公表形態は、良きにつけ悪しきにつけ、作品を「断片化」する。それだからこそ、連載漫画を読むさいには、《作品評価は全体論的(holistic)であるべきだ》というマキシム(格率)を心のどこかに留めておきたい。

哲学書の読み方

似たようなことは哲学書を読むさいにも生じる。この文章を読まれる皆さんのなかには、かつて哲学書を読もうとしたが、冒頭でただちに内容を追えなくなって、わずか数ページで放り出してしまったという経験があるひとがいるかもしれない。じつを言えば、これは哲学書にかんして或る意味で「自然に起こりうる」ことなのである。

私はすでに20年以上も哲学をまなんでいるが、今でも初めて読む哲学書の出だしが何を言いたいのか分からないというのはよくある。例えば20世紀前半の批評家ヴァルター・ベンヤミンの哲学的著作である「運命と性格」は「運命と性格はふつう因果的に結ばれたものと見なされており、性格が運命のひとつの因子になると思われている」という一文で始まるが(野村修編訳『暴力批判論 他十篇』、岩波文庫、1994年所収、13頁)、これだけ読んでも読者の反応は「お、おう……」であろう。

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たしかに、いま引いた文には意味不明なテクニカルタームは用いられておらず、〈運命〉と〈性格〉について語られていることは分かる。とはいえ《この文はどういう意図で書かれているか》と問われれば答えに困ってしまう。

じつに、漫画が回をまたいで構造化されているのと同じく、哲学の書き物もまた文章全体の筋によっていわば「立体化」されている。すなわち、たしかに先立つ文は後続する文を準備するのだが、前者の言いたいことの核心を掴むためには後者がどう展開するかを知っておく必要がある。

それゆえ哲学の文章を読むさいには、一般に、著作の諸部分を前後に行ったり来たりせねばならない。出だしの文から締めの文まで真っすぐ「単線的に」読むというやり方では歯が立たない、ということだ。

先に紹介したベンヤミンの論文についても数ページ読み進めると「運命概念を手に入れようとすれば、この概念は性格概念から純粋に分離されねばならない」(前掲、16頁)というくだりに出会う。ここに至るとこの批評家の言いたいことがはっきりする。すなわちベンヤミンは、〈性格〉と〈運命〉はしばしば互いに結びついた概念と考えられるが、じっさいにはこれらは分けて理解されねばならない、と言いたいのである。

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ベンヤミン〔PHOTO〕WikimediaCommons

けっきょく、うえで引いた出だしの文は《運命と性格は互いに結びついたものだ》という従来的な見方(すなわちベンヤミンの批判したい見方)を紹介する意図で書かれているわけだ。このように、後続する文から逆照射して先立つ文の意図が分かる、というのは哲学書を読むさいに頻繁に生じることである。

だから哲学書についても、もし出だしでつまずき放り出してしまった本があるならば、《もう少し先のほうまで進んでみては》と提案させていただきたい。なぜなら、読み進めていく過程でその作品の「精神」を表現するような文に出会えるかもしれないし、そうした精神を掴んだ後ではその本のどの文章もピンとくるようになるからである。

かくして哲学書を読んで理解することは〈暗い山林の茂みをかき分け進んでいくと急に見晴らしのよい峰や頂に出る〉という体験に似ている。そこから振り返れば自分の踏み越えたものがますますよく見える、ということだ。

拙著『哲学トレーニングブック』はいろいろな哲学著作の読み方を指南する本でもあるのだが、私がこの本を書いた動機のひとつは《哲学書は前から読んでも簡単には分からない》という事実にある。世の中には読む価値のある哲学著作がたくさんあるにもかかわらず、特有の難しさのために敬遠されている。これはもったいないことだ。同時に私は、一定のコツさえつかめば哲学書の理解力が格段に高まる、とも考えている。

そうしたコツのひとつは――同書でも繰り返し実践していることだが――論文や書物の最終的な結論をできるだけ早く把握するというものだ。哲学の作品はひとつの結論に向かって組み立てられているので、細部を見るより先にいわゆる「画龍点睛」を押さえておけば、そこを焦点として他のすべての部分の位置価も定まる。哲学著作には作品全体の構造を決定するような点睛(すなわち究極的主張)がある、と知っておくことは読解力向上のための重要な一歩である。

母の経験

以上で漫画および哲学書について語ってきたが、もう少しお付き合い願いたい。これまで論じてきたことは「人生」というものにも関連する。いささか硬い話が続いたので、ギアを替えて私の母のことを書こう。

岡山県の玉野市という自然豊かな土地で母は生まれ育った。小さい頃から勉強がよくできたらしく、高校も進学校に行った。言ってみれば「田舎の秀才」であろう。三人姉妹の長女であり、比較的真面目なところがある。

大学は岡山大学が第一志望だった。学費の相対的な安さのため「国立大学に入るのは親孝行だ」と言われることがあるが、母もそうしたカルチャーの中を生きていたのかもしれない。日ごろから成績のよかった母は、自分はおそらく受かると考えていた。

とはいえ母の大学受験は激動の年のそれだった。学生運動の混乱の結果、その年の東京大学の入試が中止になった。するとテストに強い受験生がいわば「上のほうから」受験校を替えていき、玉突きのような現象が生じた。例えば東京大学を受ける予定だったひとが京都大学や一橋大学を受けることにし、その副作用として京都大や一橋大を受ける予定だったひとの一部が受験校を替え……という具合である。かくしてその年の岡山大学は例年よりも高い学力の人間が受けることになった。そして母は落ちた。

けっきょく母は神戸市の私立の女子大に入学することになる。これは学力に自信のあった母にとって悔しい出来事であったにちがいない。入学後のしばらくのあいだは鬱々としていただろう。自分はここにいるはずの人間でない、と考えていたかもしれない。

ここから話はどう進むか。神戸で大学生活を過ごしていた母は、あるとき、三宮か元町あたりの古本屋に行った。中身を見てみたい本があったが、函(はこ)から出ない――本と函がジャストフィットだったのである。本を取り出そうと格闘する母を大柄な男性がたまたま見ていた――彼は小柄な女性を手伝う。けっきょく本は取り出すことができたのだが(それを購入したかどうかは聞いていない)、本屋をあとにして街を歩く母はふたたびさっきの男性と出会った。これが後に私の父になる。

人生の出来事の「意味」はどう決まるか

私がいま存在する視点から母の受験の失敗という出来事を眺めれば、そこに当時の母が決して付与しなかったであろう意味を見て取ることができる。じつに、母が岡山大を落ちて神戸で暮らしていたからこそ、私はいま存在しているのだ。

こうしたことを考えると自分の存在の不確かさに戦慄してしまうが、同時に次の点も指摘できる。すなわち、人生における出来事の意味合いもその後何が生じるかによって変わりうる、と。これは母にとってもそうであろう。志望校に落ちて間もない母と、父と出会った後あるいは私を生んだ後で人生を振り返る母とでは、大学受験の失敗に関する意味づけは大きく異なるはずだ。

私は必ずしも《岡山大を落ちたことは母にとって幸福なことだった》と言うつもりはない。もしかすれば受かっていたほうが幸福な人生を送れたかもしれないし、そもそもふたつの人生に含まれる幸福の量を単純に比較することなどできない。ここではむしろ出来事の「意味」が問題になっている。

或る出来事が人生においてどのような意味をもつかは、その出来事だけを切り取っても分からない。それはむしろ人生の大きな流れの中で決まってくる。人生の出来事の意味もまた「全体論的に」理解せねばならないのである。

だから私は、今まさに苦難の最中にいるひとと、次の考えを共有したい。ひとはときにどん底へ落ちる。そこで体験される苦しみは正真正銘の苦痛であり、ひたすら耐えるしかない。とはいえその出来事の意味は、苦しみの最中においてはまだ分からない。生き抜いて、地べたを這うように進み、ようやく一息ついて膝立ちに振り返るとき、やっとその意味は見えてくる――意味とはそのようなものだ。

たしかにそこに積極的な意味合いが見出される保証はないだろう。とはいえ、現在の苦難が何かしら意味のあることに繋がる瞬間である可能性は、十分にあるのである。

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