
若き日の家康が見せる意外な姿とは?(画像:NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト)
NHK大河ドラマ『どうする家康』第10回では家康の側室選びがテーマでしたが、その裏では、今川義元を失った今川家の領土を切り取るための動きが進んでいました。それを象徴するかのように第11回「信玄との密約」予告では、阿部寛さん演じる武田信玄の目にも鮮やかな赤い甲冑姿が披露されています。この信玄と家康、そして信長の関係について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者、眞邊明人氏が解説します。
武田信玄による駿河侵攻とは
1568年12月、武田信玄は満を持して駿河侵攻を開始します。
この前年、駿河侵攻に反対した嫡男・義信を幽閉し、その妻であり今川義元の娘でもある嶺松院を駿河に送り返しました。なおかつ四男・勝頼の正室に織田信長の娘(養女)を迎え入れ、駿河侵攻の手はずを整えます。
信玄は、さらに徳川家康にも同盟を申し入れ、東と西から今川家を挟み撃ちにする策に。まさに戦国最強の名にふさわしい、水も漏らさぬ侵攻作戦です。
駿河を守る今川氏真は、この武田勢を迎え撃つべく薩埵峠まで出陣しますが、重臣たちの多くはすでに武田方への内通を決めていたため、氏真はやむなく駿府の今川館に退却します。
武田方は、その機を逃さず一気に駿府へとなだれ込みました。氏真は抵抗することもままならず、妻とともに朝比奈泰朝のいる掛川城へと脱出します。これが北条家を刺激することとなり、北条家は今川家を支援し武田との交戦を開始。北条の参戦は、信玄の計算を狂わせました。やむなく信玄は制圧間際の駿府を一度諦め、本国へ撤退します。
さらに同盟を結んでいた徳川との間にも問題が生じました。武田の今川侵攻別動隊である秋山虎繁が、徳川方の侵攻地である遠江に干渉したのです。このことで家康は態度を硬化。氏真の立て籠もる掛川城を攻めていた家康は氏真と和睦し、さらに北条とも和睦します。そして北条は上杉と同盟を締結。信玄は一気に不利な状況へと追い込まれます。

阿部寛さん演じる武田信玄と家康はどう渡り合っていくのか(画像:NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト)
しかし信玄は、この状況下でも実力を発揮しました。
まず翌年の7月に駿河の重要拠点だった大宮城を攻め落とすと、北条の領地である小田原に侵攻。北条が本国に撤兵すると、11月には駿河に攻め入ります。そして難攻不落と名高い蒲原城を攻め落とし、ついには氏真の退去後も今川館を守っていた岡部正綱を降伏させ、駿河を手中に収めました。
信玄にとっては、嫡男を死に追いやってまで望んだ駿河侵攻を成功させたのです。
信玄のやり口にキレた家康
一方の家康ですが、このとき26歳。家康は三河を手中に収め、三河一向一揆の危機を乗り越えて、今川領である遠江簒奪の野心を抱いていました。尾張の織田信長は1565年に婚姻関係を通じ信玄と同盟を結んでいましたが、家康は今川領を巡って利害関係があるため信玄とは同盟を結んでいませんでした。信玄が駿河侵攻をスムーズに進めるには三河の家康と手を結ぶのが得策と考え、駿河侵攻直前に同盟を呼びかけ、これを成立させます。
このときの細かい取り決めをした約定書のようなものは見つかっていないため、定かではありませんが、のちに起こったことを鑑みれば、今川領に関するお互いの取り分について合意がなされたものと思われます。
しかし前述したとおり秋山虎繁が遠江に侵攻したことで、この同盟はこじれます。家康は信玄に抗議しました。
意外なことに信玄は、この抗議を受け入れて謝罪し、秋山をすぐに遠江から撤退させています。家康は改めて信玄に誓詞を送り、信玄は血判状を家康へ送っています。
ところが家康は、さらに信玄に苦情を申し立てます。武田方が勝手に今川方と人質交換を行ったことは盟約違反だと申し立て、同盟の際に送った重臣酒井忠次の娘を武田側から引きあげさせます。おそらく、この頃には家康の方針変更があったのでしょう。家康はなんの断りもなく突然、掛川城にいた今川氏真と和睦を行い、さらには氏真を通じて北条との同盟を締結しました。
最初に約定を破ったのが武田方だとしても、その後の家康の行動はなかなかのものです。信長はこの状態を憂慮して家康に武田との関係改善を要請しますが、家康はこれを無視。若き日の家康は、戦国最強と言われた信玄を相手に一歩も引かぬどころか、信玄を出し抜き、信長を慌てさせるという意外な姿を見せるのです。
信玄を止めたもうひとりの名将
この信玄の駿河侵攻でキーとなった名将がいます。それが一代で大大名に成りあがった北条早雲の孫にあたる北条氏康です。領民を思いやる優れた施政者であり、武田信玄、上杉謙信らと何度も戦った勇将でもあります。
氏康は、なによりも理を重んじた人物でした。同盟を結んでいた今川家が桶狭間の合戦で当主・義元を失い、急速に力を失っていく状況を領土拡大の好機と捉え野心を隠さなかった信玄とは真逆で、氏康は今川氏真を支えようとしました。
信玄は、駿河侵攻に際して氏康に、
「今川が上杉と手を結び甲斐を脅かそうとしているので、やむなく合戦を行わなければならなくなった」
と弁明しましたが、氏康はこれを一蹴します。また、武田が駿府に押し入った際、氏真は妻とともに今川館から脱出するのですが、この時、輿もなく徒歩で逃げたと聞いて激怒します。氏真の妻は氏康の娘でもあったからです。
信玄はなんとか氏康の怒りを解こうとしますが、同盟を破棄され今川支援を明確にされてしまいました。氏真は、この氏康の行動に応えるべく、氏康の孫の氏直を養子に迎え入れて駿河・遠江の支配権を譲る約束をします。
そして氏康は、前述のように氏真を通して家康とも同盟を締結。信玄は信頼できないと考えた家康は、北条氏康と手を組めば信玄を十分に牽制できるだけでなく、自国の領土拡大を安全に行えると踏んだのではないでしょうか。北条・今川と手を組めば合戦をしなくとも領土拡大を望める。そんな計算が家康のなかで働いたのであれば、家康は若いころから後年の老獪さをもっていたことになります。
しかしながら氏康は病に倒れ、十分な指揮を執れぬまま亡くなってしまいました。これは信玄にとっては望外の幸運で、すかさず氏康の後継者である氏政と交渉し和睦、同盟に成功するのです。逆に家康にとっては想定外の出来事でした。
信玄による家康への対応
実力、キャリアともに家康を遥かに凌駕していた信玄ですが、実際のところ、この駿河侵攻における家康をどう捉えていたのでしょうか。
まず、家康が今川、北条と同盟したことを知った際、おそらく意表をつかれたのでしょう。信玄は家康の同盟者である信長に手紙を出します。そこには、

「家康は、今川、北条と和睦しないと誓詞を出したのにかかわらず、それを平然と破った」
と怒りをあらわにしています。そのうえで
「織田から家康に今川、北条と断交するように圧力をかけろ」
と要請しました。さらに信玄が駿河を制圧した翌年も信長に手紙を送り、
「徳川家康ほど悪い奴はいない」
「あいつは誓詞を出したのに平気でそれを反故にする」
とブチ切れモードで手紙を送っています。
信長は信玄の実力を高く評価し、かつ恐れていたので、なんとか家康を説得しようとしますが不調に終わります。同盟関係でありながら家康が信長の下風に置かれるのは、信長の勢力が拡大し、力の衰えを見せ始めた信玄亡きあとの武田攻めあたりのこと。まだ、この時期は信長の意見も無視できる対等の存在でした。
したがって信長は、同盟相手の徳川と武田が敵対しているという困った状況に置かれていたことになります。
信玄は、駿河制圧後も家康との和睦を望んでいたようで、その取りなしをなおも信長に依頼した記録が残っています。しかし家康は、その信玄の面目を潰すように改めて武田との同盟破棄を宣言、このことはのちに信玄が遠江侵攻を行った際、
「(同盟破棄を一方的に通告されてから)3年の鬱憤を晴らす」
と味方に送った書状にあり、よほどこの件で信玄に恨みを買っていたことがわかります。
信玄の怒りは、家康最大の敗北となる三方ヶ原の戦いへとつながっていくのです。
(眞邊 明人:脚本家、演出家)
眞邊 明人