“元祖フォークボール”杉下茂さんが阪神の監督だった頃...阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<17>

“元祖フォークボール”杉下茂さんが阪神の監督だった頃...阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<17>

  • スポーツ報知
  • 更新日:2021/09/15
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前回に続き、他球団出身ながら阪神に指導者として来られた人と、私がその人たちから教えを受けてその後の野球人生に大いに役だったものについて書きます。

杉下茂さんと言えば「フォークボールの元祖」ですが、私が子供の頃、杉下投手は縦に曲がるカーブを武器に「6尺ドロップの杉下」と呼ばれていました。「6尺」は182cm。そんなに曲がるのでしょうか? 伝説の答えは本人が教えてくれました。「6尺は俺の身長だよ。そんなに落ちる球があるわけがない」

64年に投手コーチで来られた杉下さんは66年に監督になられました。器用だった私は、杉下監督時代にバッテリー以外の7ポジションを守らされました。1試合でセンター、二塁、ライトを守ったこともあります。私のようなポジションが確定していない選手は、監督から「やれ」と言われた所をやらなければ、この世界では生きていけません。

しかし、いざ色々なポジションを守ってみたら…。本拠地の甲子園球場を知り尽くしていたはずなのに、発見がいくつもありました。浜風の影響による打球の変化や、左翼線と右翼線ではゴロの切れ方が違うことも初めて分かりました。これが指導者になった時に役に立ちました。

岡本伊三美さんは元は南海の二塁手。“百万ドルの内野陣”を形成した名選手です。53年には首位打者を獲得、MVPにも輝いています。阪神には73年にコーチとして来られ、翌74年、私が現役を引退して内野守備走塁コーチになった年にヘッドコーチを務められました。

74年春の高知・安芸キャンプ。岡本ヘッドと同部屋になりました。夜間練習を終え、風呂に入り、ふとんに入る。そこからの1時間が、新米コーチにとっては至福の時間でした。ふとんではらばいになりながら、岡本さんが「コーチのイロハ」を話してくれるのです。ひと言も聞き逃さないように、ノートにメモを取るのが日課になりました。

「自論を選手に押しつけることは、自分の欠点を押しつけることになりかねない」「引き出しをたくさん持ちなさい。AがダメならBがある。BがダメならCがある。その選手に合った指導方法を考えなさい」「選手によっては徹底的に鍛えなければいけない時がある。その時は選手に付き合ってやりなさい」。数々の“岡本語録”は、その後の指導者人生で私の指針になりました。

岡本さんは非常に気の優しい人でもありました。思い出すのは、甲子園球場で毎試合必ずベンチ前に盛り塩をされていたこと。チームの調子が悪い時には時折やりますが、岡本さんは毎試合でした。不思議な思いで見ていたら、ある時、その理由をぽつりと語ってくれました。「選手がケガをしないようにと思ってね」

その後、岡本さんは近鉄の監督をやり、代表にもなられました。選手時代に実績があって、監督、さらにフロントのトップにまで上り詰めた人はそういないでしょう。理想の野球人生を歩まれた方です。

さて、この2回は他球団から来て阪神に貢献された指導者の方を書いて来ましたが、次回は選手のことを書きます。トレードで来てチームに貢献してくれた“あの選手”も登場します。(スポーツ報知評論家)

◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

※毎月1・15日正午に更新。次回は10月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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