法学では相手は一番嫌なところをついてくる

法学では相手は一番嫌なところをついてくる

  • JBpress
  • 更新日:2021/04/08
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憲法改正に賛成か反対かという質問には意味がないと語る(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

憲法学者の木村草太氏は大の将棋ファンとしても知られるが、法学と将棋には共通点があるという。それは「相手は一番自分の痛いところをついてくる」という前提で考えなくてはならないということだ。だから法律家には、相手がどんな人だとしても一番痛いところを突くことを躊躇しない、ある種の性格の悪さが必要なのだ、と。

憲法学者として考え続ける。問いを立て、法律に照らし合わせて他の条文との整合性があるか、矛盾や見落としがないか。憲法から考える死刑制度の矛盾、処罰感情を根拠とした死刑存置論の弱さ、憲法9条改正の語られ方、通称使用を前提とした婚姻の法的問題について、『憲法学者の思考法』(青土社)を上梓した木村草太氏に話を聞いた。(聞き手:長野光 シード・プランニング研究員)

(※記事中に木村草太氏の動画インタビューが掲載されているので是非ご覧ください)

──憲法とは「国家権力がしでかした失敗への反省から作られた張り紙のようなものだ」と指摘しています。これはどういう意味でしょうか。

木村草太氏(以下、木村):通常、立憲主義国において憲法は、法律よりも上位の効力を持ちますから、憲法に反する法律は制定できません。ほとんどの国で、憲法は厳格な手続きを経た上で作られる特別に強い効力を持っており、他方、通常の法律は議会の多数決で決定できます。

国家権力は過去に、人権侵害や独裁などの失敗を繰り返してきました。それを禁止する法律を作っておかないといけない。議会での多数決で変えられるのでは意味がないので、より厳格な手続きで制定し、改正する場合も厳格な手続きを踏まなければいけない、と考えられるようになりました。憲法が生まれた背景には、こうした失敗の歴史があります。

──将棋がお好きなようで、本書の中にも将棋をテーマにしたものがありますね。

木村:将棋では、相手が自分にとって最も厳しい手を指してくる前提で、自分の手を選択しなくてはなりません。この思考法は、実は法学の思考法にも通ずるものです。厳しい世界で戦う棋士の先生方の言葉は、いつも刺激になります。

一つ例を挙げると、升田幸三先生には「アマチュアは駒を動かしただけなんです。『指した』ということとは別のことですよ」という名言があります。将棋をすることを「指す」と言いますが、プロとして将棋を「指す」ことへの自負がみなぎっていますよね。私もいつか「法学者として法を解釈する」ことにここまでの自負を持てるようになりたいです。

大変ありがたいことに、私は何度か将棋のタイトル戦の観戦記や観戦エッセイを書かせていただいた経験があり、今回の本にも収録されています。トップ棋士の対局を見ると、この小さい盤の上にこれほどの世界が広がっていたのか、といつも驚かされます。私の観戦記は将棋のルールが分からなくても読めるように書いてあるので、将棋の広さと深さを感じてもらえると嬉しいです。

──1948年最高裁判所は「死刑は合憲である」と判決を出しました。もっと議論されるべきだと木村さんが考えられている「死刑違憲論」について教えてください。

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私が唱える「死刑違憲論」の中身

木村:憲法31条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めており、法の定める手続きによれば、生命を奪う刑罰も許されるかのように読めます。このため、最高裁は死刑を合憲としています。

ただ、ここで注目してほしいのは、「残虐刑の禁止」を定める憲法36条です。腕を切り落とす、耳をそぎ落とすといった刑罰は残虐な刑罰にあたるので違憲である、というのが多くの法律家の考えでしょう。仮にそのような刑罰を認める法律があったとしても、最高裁は違憲と判断する可能性が非常に高い。死刑については、わざわざ痛めつけるような方法でなければ、残虐とは言えない、と理解されています。しかし、腕を切り落とすことは違憲だが生命を奪ってもよい、というのはあまりにもバランスを失しているのではないでしょうか。

もう一つ注目してほしい点は、「内心の自由の絶対保障」との関係です。信仰の自由、思想・良心の自由など、内心の自由は絶対的に保障されなくてはならず、侵害は許されない、と憲法の教科書には書いてあります。死刑にすると人はものを考えられなくなるわけですから、死刑をしつつ、ものを考える自由を絶対的に保障することはできません。

つまり、多くの教科書に書かれている「内心の自由の絶対保障」と「死刑制度」とは矛盾する。死刑を認めるとの解釈では、他の条文との整合性を保てないところが出てくるのです。この矛盾に気づかないまま、私たちは死刑制度を運用しているのではないか。死刑は合憲であるという解釈に、何か重要な見落としがあるのではないか。これは死刑制度に何か根本的な問題があるのではないか、ということを示唆しているのではないかと考えています。

日本で死刑の議論する際によく持ち出される理屈は「被害者の感情」です。しかし、もし本当に被害者の感情を満足させるための制度なのであれば、死刑の執行自体が被害者に委ねられる、ということになるでしょう。

例えば、被害者が「死刑にしないでほしい」と言ったら死刑にしないとか、希望する被害者に死刑執行のボタンを押してもらうといった制度になっているはず。さらには、被害者が死刑ではなく「指を切り落とし、目をつぶしたい」と言ったら、それを止める理由もないということになりえます。

本当のところ、多くの人は「被害者の希望通りに加害者に刑罰を科すのがいい制度だ」とは考えていないはずです。死刑執行のボタンを押した被害者が、死刑執行後の記者会見で「これでようやく気持ちがスッキリしました」と話すのがいい社会なのか、というと到底そうも思えません。

被害者の感情を理由にするということは、被害者に死刑のおぞましさをすべて引き受けてもらうことになりますが、これも非常に酷なことでしょう。被害者の感情を持ち出すのは、死刑の責任を被害者に負わせることを意味するのであって、死刑のために被害者を利用する卑怯な態度ではないでしょうか。

他方で、死刑制度に反対というと、すごく反省している死刑囚の様子が紹介されて、「はたしてこの人を死刑にしていいのか」という問題提起がされることが多い。しかしそれでは、「その人を死刑にすべきでない」という理由にはなるかもしれませんが、「反省もしてないような死刑囚なら死刑にしてもいい」ということになってしまいます。

そういう議論ではなくて、「死刑をする側、社会の側の尊厳」に着目して、死刑を憲法から考えようというのが私の主張です。

『憲法学者の思考法』を上梓した憲法学者の木村草太氏

最高裁判決は憲法の条文をテコにした思考停止

木村:生命を奪う行為は、非常におぞましい行為です。死刑をするならば、そのおぞましさを誰かが引き受けなくてはいけない。私たちは死刑制度によって、残虐な犯罪に二度負けることになるのではないでしょうか。一度目は重大な犯罪が防げなかったということ、二度目は死刑というおぞましい行為に手を染めざるを得なくなってしまった、ということ。

内心の自由を絶対保障としたり、残虐な刑罰を禁止したりしたのには、「そのようなおぞましい行為に手を染めれば、その人たちの尊厳も奪われるのではないか」という考慮が必ずあるはずです。死刑についても同じように、死刑をする側の人間の尊厳への考慮が必要なのではないでしょうか。

──今後再び最高裁で死刑の是非が議論されていくことはあるのでしょうか。

木村:最高裁判決の本質は、「日本国憲法には死刑を認める条文があるから、憲法論としては誰が何を言おうとそういうものだ」というものです。いわば、「憲法の条文をテコにした思考停止である」と私は理解しています。

これは、天皇制による人権制約の議論とよく似ています。天皇制は皇族の人権を極めて強く制約する制度です。しかし、それが違憲かと問われれば、「憲法に書いてあるので法律家として違憲にはできません」という形式的な議論で終わってしまう。そこから先は憲法制定権力を担う国民の判断次第です、となるわけです。

死刑制度についても、今の最高裁判決の枠組みが、「ここで思考停止して、後は国民的議論に委ねる」という対応になっている以上、司法の現場だけでこの問題を覆すのは難しいと思います。

──憲法改正に賛成か、反対かという各種の世論調査が繰り返され、その結果が示されてきました。憲法というのは時代に合わせて何度も作り直していくものなのか、それとも物事の是非や倫理を本質まで考え抜いて作り、一度作ったら基本的には変えないものなのでしょうか。

木村:「憲法改正に賛成か、反対か」という質問の無意味さに気づくべきです。憲法改正については、「どの条文を、どんな理由で、どう変えるのか」という個別の論点が設定されないと、その改正についてどのような態度で議論すべきかは答えられないはずです。

しかし、憲法改正については賛成か反対か、という問いだけができてきました。それには二つの文脈があります。一つは、日本国憲法が「押しつけられたもの」であり、屈辱の象徴だから変えたい、という「屈辱を拭いたい型」の議論です。これはある種の感情論なので、どんな内容であれ、憲法を変えられさえすれば感情的には満足します。こういう前提に立っているからこそ、「憲法を変えるのに賛成か反対か」という問いが設定されるのでしょう。

もう一つは、憲法9条をめぐる議論です。9条の下では、防衛のためにする武力行使は合憲だが、それを超えるようなこと、自国の防衛とは関係のない武力行使はできない。憲法改正というと、多くの人は「憲法9条改正の是非のことだろう」と考えるので、「憲法改正すべきですか」という質問が成立してきたのでしょう。

しかし、憲法の体系を考えた時、武力行使の範囲を広げるには、憲法9条の改正だけでは足りません。

憲法改正に関する議論のために必要なこと

木村:現在の日本国憲法は、「軍隊を海外に派兵しない」という前提で作られています。現在、自衛隊は海外に派遣されていますが、それは現地での警察活動への協力として行っています。

もし海外で軍事活動を本格的にやるとなると、派兵の手続きを考える必要が出てきますが、憲法には派兵の手続きは全く書いていない。海外に軍隊を派兵する際に議会の承認を要求するのか、あるいは、国会にどの程度情報を開示するのか、軍事活動の統制に関与するのか、ということも憲法に定める必要があるでしょう。そうしたことは、憲法の国会や内閣の章に書く必要があって、改正するのは憲法9条だけに止まらない。

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憲法9条の改正を目指した安倍前首相だったが・・・(写真:ロイター/アフロ)

また、憲法には「外交宣言」としての側面もありますから、外国が改正についてどのようなメッセージを受け取るかにも留意が必要です。憲法9条は、「第二次大戦の侵略活動に対する反省を示す」という意味が込められた条文です。単純に改正したのでは、「もう反省はいらない」との立場をとったと、諸外国に捉えられかねません。

もし改正するのであれば、そうした誤解を生まないように、非常に深く、また明確な態度をもって第二次世界大戦時の大日本帝国の侵略を反省する態度とともに主張する必要がある。特にアジアの、大日本帝国に侵略された国々や国際社会からの日本の軍事活動への信頼感の確保とセットでやらないと、倫理的に非難されやすく、日本の国民にとっても納得しがたいものになるでしょう。

結局、どんなことを実現するために憲法を改正したいのか、憲法を改正するとどんな影響があるのかといったことを緻密に考えないまま、「憲法は変えるべきだと思いますか」といった、感情的であいまいな話に終始していること自体が、憲法改正に関する議論を遠ざけているのです。

──憲法学者というのはどのように憲法を研究するのでしょうか。

木村:法学者の研究はまず法律の条文や政令・省令、判例を読むことから始まり、それに関する文献を調べて、徹底的に考え抜いて論文にまとめるのがスタンダードですね。日本のものだけでなく、外国のものも読まなくてはなりません。

もちろん、読むだけでは研究になりません。すべての学問は、問いを立てて、それを解く営みです。立てる問いが、個々の事案を離れて抽象化されているのが法学の特徴です。

抽象的に問いを立てて解くという意味で、法学は数学に似ていると言われることもあります。数学には公理があり、その公理に反してはいけない。法律の条文や基本的な法原理は、数学の公理にあたります。

他にも、訴訟の当事者に会ったり、学者同士で議論したりすることもあります。法律の条文だけではその運用実態が分からないので、運用の現場に足を運び、運用の現場を分析した他の分野やジャーナリズムの業績に触れることもあります。

旧姓の使用を前提とした婚姻は有効か?

──「最初に問いを立てる」という話ですが、どのような問いを立てるのでしょうか。

木村:最近私のゼミで発見されたのは、「通称使用を前提に婚姻届を出した場合、その婚姻は有効か」という問題です。

これまで「通称使用には問題がない」とされてきました。民法750条を制定した国会において、当の国会議員の方々が通称を名乗ることが認められてきたのです。

しかし、民法750条には、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とあります。この条文を素直に読むと、夫または妻の氏を称するとした後に通称(旧姓)を使用するのは、文言上は民法750条に違反することになってしまいます。

通称使用が民法750条に違反するのだとしたら、「法律違反を前提にした婚姻届は有効と言えるのか」と問うことから始めねばならない。これは、考えてみるとかなり厄介な問題です。

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木村草太氏の近影(撮影:岩沢蘭)

新しく発見された問題については、過去の論文を探しても、結論は書いてありません。「通称使用を前提とする婚姻は有効だ」との立場をとるには、どのような理屈が必要なのかを、自分で考えなければいけません。

もし民法750条を強行規定と考えるなら、つまり「通称を使用する前提の婚姻は無効だ」との立場をとるなら、条文との整合性は高いですが、現在、通称を使用している人もかなりいるので、社会的影響は計り知れません。「通称使用を前提とした婚姻は無効だ」となると、これはさすがに憲法違反と考える人が多いのではないでしょうか。別姓や通称を名乗った瞬間に婚姻が無効になるのであれば、不利益を受ける人が多すぎて、条文としての合理性があまりにもなさすぎる。

そうなると、750条を「任意規定」、つまり守ってもいいし、守らなくてもいい条文だと理解して、「旧姓を使用する前提でも婚姻は有効だ」との立場をとった方がよさそうです。どちらかの氏に統一しなくても、婚姻はできますよ、と。しかし、これを徹底すると、「今の法律でも別姓婚ができる」というなかなかすごい帰結になります。

本来であれば、もっと早く民法を改正しなくてはいけなかったのです。しかし、国会自身も含めて日本では、法律の条文では無理のある通称使用という脱法的手段で対応してきた。しかし国会の仕事は、脱法ではなく立法ですよね。

実は、現在この問題は最高裁で扱われています。最高裁判事の皆さんが「これはちょっともたない」ということになれば違憲判決が出ます。しかし最高裁も違憲判決は軽々しくは出せない。何とか合憲だと説明できないか、ということも考えていると思います。

最高裁が軽々しく違憲判決を出せない理由

──最高裁が軽々しく違憲判決を出せないのはなぜでしょうか。

木村:民主的な国家では、「私たちはなぜ権力に従うのか」と問われれば、「私たち自身が関与して選んだ代表たちが決めたことだから」というのが答えになります。それが民主的正統性です。最高裁の民主的正統性は、ゼロではないにしても国会に比べれば圧倒的に弱い。

例えば、日本の消費税は10%ですが、「この10%という数字はどのように決めたんですか」と政府に問うとします。そこで「国会で皆さんの代表者が決めました」と答えるのと、「首相がサイコロ振ったら10が出たからです」と答えるのでは、従う側の気持ちはだいぶ変わります。支配をする側が支配をされる方に、「どれだけ従ってもらうべき理由を説明できるか」。これが正統性の問題です。

国会は、「国民自身が選んだ代表である」という非常に強い民主的正統性を持っています。一方で、最高裁判所の裁判官は、民主的正統性が国会に比べればかなり弱い。だから、「国会で作った法律はできるだけ尊重すべきだ」というのが最高裁の態度です。最高裁の正統性は、法と憲法にあります。「法と憲法に照らしてどう考えても間違いだ」という場合でないと、国会を乗り越える正統性を示せないので、慎重にならざるを得ないわけです。

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木村草太氏が上梓した『憲法学者の思考法』

──憲法学者になられた理由を教えてください。

木村:自分の性格の悪さを、正義のために役立てられる仕事だからです。法律家には、ある種の性格の悪さや強さが必要です。相手の理論の穴を突いて一番相手が嫌がることが何かということを考えなければならないからです。

法律は、当事者が激しく対立する主張の中で、どうすべきかを裁断します。対立する主張を客観的に判定するためには、自分の立場をただ一方的に言うだけでは足りません。相手が自分に対して一番厳しいところを突っ込んでくる、という前提でものを考えなければなりません。ですから、自分自身を含め、相手がどんな人だとしても、その人の主張の一番痛いところを突く。そのことを躊躇しない。そんなある種の性格の強さや悪さが必要なんです。(構成:添田愛沙)

長野 光

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