「自分は北海道侵攻計画の一部だった」朝鮮人民軍元特殊部隊員が明かした過酷な訓練

「自分は北海道侵攻計画の一部だった」朝鮮人民軍元特殊部隊員が明かした過酷な訓練

  • テレ朝news
  • 更新日:2022/09/23
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その男性と最初に対面した際に印象に残ったのは、決して大柄とはいえない彼が放つ強い眼力と、特徴的な「手」だった。
挨拶で握手した際のゴツゴツとした硬く大きな手のひらと指の感触を今でも覚えている。物腰は柔らかで、カチッとした敬語を使う男性からは、特別な経歴から来るものなのか、時折普通の人とは違う鋭い気迫や殺気のようなものを感じることがある。

男性は1950年代生まれ。北朝鮮の首都・平壌の出身で、元朝鮮人民軍の特殊部隊に所属していた人物だ。付き合いは数年になるが、彼は今年初旬、自分が脱北した理由や北朝鮮での記憶を形に残すため、自身の半生を振り返った手記をまとめたいので、話を聞き取って欲しいと相談してきた。近い将来、この内容を本にしたいと考えているという。長い付き合いの中で我々を話し相手として認めてくれたかと思うと、少し嬉しい気持ちにもなった。

彼が話してくれたのは1970年代、現在の金正恩総書記の祖父である金日成主席時代の朝鮮人民軍、そのあまりに過酷な訓練と、知られざる「北海道侵攻作戦」だった。

●集団での「ケンカ」を金日成主席に目撃され…

男性が所属したのは、かつて「525特殊部隊」と呼ばれた部隊だ。北朝鮮には兵役があるとはいえ、男性の入隊経緯は少し特殊なものだった。

70年代の中高生だった頃、男性の暮らした平壌では学生同士の抗争、つまり集団での「ケンカ」が流行っていた。ケンカの理由は特になく、ただ単に誰が一番強いのかを競う、若い頃の分別のない行動だったという。
北朝鮮では親の職業や地位により住む地域が決められていて、自然と地域ごとに学生が集団を作り、他の集団とケンカを繰り返していたそうだ。

その当時、平壌には党幹部などが住む大同門映画館通りのチーム、鉄道職員が住む普通江通りのチーム、軍関係者が住む戦勝駅通りのチームなど、学生の集団が複数あった。男性はその中の、ある高位層が暮らす地域のチームで、夜になると空き地に集まり、少ない時には50人ほど、時には200人ほどでケンカをしたという。ケンカは素手に始まり、次第にエスカレートすると道路のブロックやシャベル、こん棒なども手にして行われ、事が終わると互いに血まみれだったという。

ところが72年頃、それは突然終わりを告げた。
いつものように夜、集団同士が平壌駅広場でケンカをしていると、その様子を地方視察から戻った金日成主席が偶然目撃することになったというのだ。金日成主席は部下から高位層と鉄道関係者の子どもたちが理由もなく殴り合いのケンカをしていたと聞くと、男性らを最前線の軍部隊に送るよう指示したという。
これが男性の8年に及ぶ軍隊生活の突然の始まりだった。

●最前線に配属「煙草の火が怖くてたまらなかった…」

男性は当時、中学5年生の卒業間際で、ある工科大学への入学が決まっていた。しかしケンカ騒ぎの影響で進学は取り消され、73年の強制徴集で軍に送られることになった。配属先は朝鮮人民軍第1軍団のとある非武装地帯捜索隊で、配属先は江原(カンウォン)道金剛(クムガン)郡だった。

突然始まった軍隊生活は非常に過酷で、男性は新兵訓練所に入った日のことをおよそ半世紀が経った今も鮮明に覚えている。
平壌から汽車でまず江原道に入り、そこから新兵訓練所まで3日間歩いて移動した。固めたもち米粉と乾パン、ニシンの缶詰などの戦闘食糧だけでの初行軍。頭の中では学生だった自分が急遽最前線の訓練所に行くことになったことがぐるぐる回り、絶望的な気持ちになったという。

訓練所での3カ月間を終えると、男性は最前線の非武装地帯を守る小隊に配属された。
夜はひたすらに真っ暗で、南のはるか彼方に韓国側の電灯の明かりがぼんやりと見えたことが印象的だったのと同時に、完全な暗闇に囲まれ凄まじい恐怖を感じたことを、今でも夜になると思い出すという。
特に先任兵が吸う煙草の火が怖くてたまらなかったと話す。煙草の火は夜には遠方からも視認され、敵の標的になりやすいと教育を受けていた。そのため煙草の火を目印に、南の狙撃兵に狙われるのではないかという不安が常に頭から離れなかったのだ。

部隊の兵舎は山の裏手を少し掘り、その上にテントを載せた穴蔵形式のもので、約1年半、南の明かりを毎晩見ながら暮らしたそうだ。

●「北海道を占領するための訓練をしろ」

その後、男性が特殊部隊に入隊することになるのは74年夏のことだ。
ある日、上官に呼び出され師団本部に行くと、党中央軍事委員会から来た指導員が待っていた。男性はそこで初めて、各隊から身体的・党籍的に優れたいわゆる「思想的武装が徹底している兵士」を選抜していると知る。指導員は彼に「今からお前達は軍総参謀本部直属の部隊に配属されることになった。直ちに移動準備をしろ」と命じられたという。

それから半年余り準備をした後、冬のある日、3日分の戦闘食糧を渡され車で江原道のある駅に送られた。そこから北朝鮮で「パントン列車」と呼ばれていた椅子もない貨物車に1両50人ほどが詰め込まれ、目的地も知らされぬまま移動が始まった。

咸鏡(ハムギョン)南道のある駅に着いたのは2月中旬のこと。
今度はそこで中国製の解放号という軍用車両に乗り換え、さらに両江(リャンガン)道の山奥まで運ばれ、ようやく着いた先は20軒余りの空き家だけがある野原だった。冬服に着替え、野原に集合させられたのは到着日の深夜。最初に出発した際は同じ部隊から選ばれた数人だけだったのに、いつの間にか数は増え、周囲の暗さに眼が慣れると、そこには各地から集められたとみられる兵士ら数千人が居たという。

朝になると空からヘリコプターが1機降りてきた。乗っていたのは当時、北朝鮮の国防相にあたる人民武力部長だった呉振宇(オ・ジンウ)と、作戦局長の呉克烈(オ・グンリョル)、作戦局第1副局長兼特殊部隊戦闘訓練局長の李夏一(リ・ハイル)だった。
呉部長は「金日成最高司令官の教示だ」「ここは真冬にはマイナス30度にもなり、日本の北海道によく似ている。お前たちはここの気候に適応し、北海道を占領するための訓練をしろ」「全員がやり遂げると信じている」と演説したという。
突然告げられた「北海道侵攻」という途方もない目的。これこそが男性がかつて所属した朝鮮人民軍総参謀本部直属の部隊「525特殊部隊」の第2旅団の秘密任務だった。

●秘密だった特殊部隊の存在 その実態は…

その後の最初の任務は、テント張りとストーブ設置、燃料となる木材の確保だった。
両江道の冬は厳しい寒さで、ストーブなしには生き残れない。翌日からまずは空き家を取り壊し、生き残るための丸太小屋を皆で建てたという。小屋は丸太を積み上げ、隙間を埋めて作った質素なもので、地面を少し掘り「半地下」の形にして鉄板を敷いたものだった、と男性は絵を描きながら説明してくれた。かまどで火を焚けば、オンドルと言われる床暖房の効果が出たと懐かしそうに話した。

その後は春までひたすら丸太小屋を作ったという。
男性が後から聞いた話では、その場所は日本植民地時代に日本の協力者らが隠れて暮らした場所で、空き家も当時からあるものだった。空き家を取り壊していると、土塀の中から旧日本軍の長銃や拳銃、刀などが複数出てきたことをよく覚えていて、それらはベタベタしたグリセリンの塊の中に入れられ、布に包まれた状態だったという。

男性ら隊員は自分達のことを「特攻隊」と呼んでいた。
一方、対外的には特殊部隊の存在は秘密で、訓練所もただ「525訓練所」と呼ばれていたそうだ。極秘任務を帯びた特殊部隊であることを隠し、後方支援、もしくは新兵訓練所かのように偽装することが目的だったという。

ではその訓練と「北海道侵攻計画」とはどのようなものだったのか。
後編で詳しくお伝えする。

ANNソウル支局
支局長 井上敦(テレビ朝日)
記者 安秉俊

“北海道侵攻計画” 「毎日生死の瀬戸際」 朝鮮人民軍元特殊部隊員が見せた「殺人術」

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