小山田氏炎上でよみがえった罪深き「イジメ」傍観の記憶

小山田氏炎上でよみがえった罪深き「イジメ」傍観の記憶

  • JBpress
  • 更新日:2021/07/26
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筆者はキリスト教徒ではありませんが、聖書の中で語られるシーンに深く感銘を受けたことがあります。

《ヨハネによる福音書 8章

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。》

いま世の中では東京五輪の音楽を担当した(するはずだった)アーティスト、小山田圭吾氏へのバッシングが燃え盛っています。若い頃に身障者に対してイジメをしていたという、十数年前の音楽雑誌のインタビュー記事で語っていた内容が掘り返され、メディアもネットも総出で彼を叩いています。

その昔の記事を読んでみましたが、確かにひどいイジメをしたことをほとんど反省もなく語っている様子がうかがえます。イジメていたことが事実なのかどうかを確かめるすべはありませんが、少なくともそんなことを当たり前のように面白おかしく語ること自体、人間としてどうよ? という気持ちにはなります。

イジメの事実があったのか、あるいはそれがインタビューの際の出まかせだったのかはさておき、掘り返されたその記事に関して小山田氏を叩くメディアと、おそらくは原文も読んでおらずバッシング記事の印象だけで彼を叩く言葉の数々を眺めていて、ふと思い出したのが上述の聖書のシーンでした。

ここで話を置き換えるなら、イエスは「一度もイジメに加担したことのない者だけがこの男に石を投げなさい」とでも言うのでしょうか。自分はイジメに加担したことなど一度もないと言い切れる人がどれほどいるものなのでしょう。筆者の狭い経験の範囲で見てきた限りでも、自らイジメる側には回らなくても、ただ傍観するだけで諌めようとはしなかった人も実はけっこういるのではないかと想像するのです。

いや確かに傍観したことはあるが小山田氏ほどひどいイジメではなかった、と申し開く人もいるかもしれません。小山田氏のそれはイジメでなく犯罪じやないかと。

けれど程度の問題なんて主観的なものであって、イジメられた側の苦痛はイジメられた側にしかわからないものです。ただ無視されるだけでも死にたいほど辛い思いをすることがあります。

少なくとも筆者は小学校の頃、ただ傍観するという態度でイジメに「加担」したことがあります。少し知的障害のあるクラスメイトがガキ大将的な悪童たちにプロレスの技をかけられているのを、面白がりこそしなかったものの、止めようともしませんでした。なぜか。悪童たちを諌めれば今度は自分がイジメられる側に回ってしまう恐れがあったからです。

同じような理由で周囲のイジメを傍観してきた、見て見ぬふりをしてきた経験が実は多くの人にあるのではないかと想像しています。

傍観しただけだから罪はない。本当にそう言い切れるのでしょうか。筆者自身はとても罪深いことをしたと思っています。

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クラス替えになって起こったこと

そんな反省もあって、中学2年生秋に級長を任されると、筆者はクラスからイジメを撲滅しようと一大決心しました。

当時、クラスでは2人の女の子がイジメの対象になっていました。イジメられた主な理由は「汚い」こと。じっさい2人とも貧しい家の子で、着ている服にも清潔感はなかったし、髪もボサボサだったように記憶しています。ともに無口でろくに言い返すこともできないのをいいことに、イジメの格好のターゲットになっていました。

とはいえイジメ撲滅について筆者に秘策があったわけでもなく、とりあえず放課後にこのことについて話し合う学級会を開いてみることにしました。そこでクラスの一人ひとりに「イジメをどう思うか」について訊いていったのです。

荒れるかと思いきや、みんな驚くほど素直でした。イジメの先頭に立っていた悪ガキに至っては涙ながらに自分の非を認めたほど。そこから連鎖的にみんな涙声になっていきました。

それぞれに本音を語ってもらってわかったのは、かわいそうだとは思ったものの、自分がイジメられたくないためにイジメる側に回っていたという生徒ばかりだったということです。それをみんなで共有して、ひとしきり一緒に泣いてとてもすっきりしたのを憶えています。そしてそこから次の春まで、イジメのないクラスになりました。学年中にその名声は轟きました。同じように学級会を開いてイジメを撲滅したクラスもあったと聞いています。

筆者は一躍イジメ撲滅のヒーローのように扱われましたが、美しい武勇伝として語れるのはここまで。翌春クラス替えになって新しい組になると、今度は一転、筆者がイジメの対象になったのです。

あいつはあんなキモいやつらの味方になった。頭がおかしいんじゃないかと。一人だけいい子になっている。影響力のある誰かがそう言い出すと、その子にイジメられないよう賛同する輩がうようよと集まってきたようで、アンチは瞬く間に徒党を組んで一大勢力になりました。

面と向かって「お前は気に食わない」と言われるとか、ちょっかいを出されるならまだ救いがあります。それはそれで立派なコミュニケーションですし、こちらも反論のしようがあります。世代を問わずいちばんこたえるイジメの一つは「無視」でしょう。みんな右へ倣えで、筆者をいわゆる「シカト」してかかりました。小学校から仲のよかった友達や、2年生の学級会で一緒に泣いた友達までがあっさりシカト組に加わり、筆者は一気に嫌われ者になりました。

誰にも相手にされずひとりで登下校する日々。それはそれは辛いものでした。時おり古い友達が周囲に人目がないのを確かめつつ声をかけてきます。遠回しにいろんなことを話すのですが、早い話、自分は本心で君をイジメているわけじゃないという言い訳でした。誰しも自分がイジメられる側には回りたくない。それはそれで納得できる部分もあったのですが、何しろ当時の筆者は血気盛んな15歳。ふざけんなよと、こちらもこちらでシカトを決め込みました。

「凡庸な悪」が世界を荒廃させる

それも高校に進学するとそんなシカト攻めもあっさりリセットされたのですから不思議なものです。シカト組にいた中で同じ高校に進んだ友達は、何事もなかったかのように気軽に声をかけてきました。

僕は表面的にこそ仲直りしたものの、一度はシカト組に回った彼らのことを心の底では許していませんでした。

許せるようになったのは大学時代にユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」という言葉に触れてからのことです。ハンナ・アーレントは、第二次大戦中に起きたユダヤ人迫害に関与したアドルフ・アイヒマンの裁判を記録した著書の中で、ホロコーストのような悪は「根源的・悪魔的なものではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうる」と説きました。

歴史的なホロコーストでさえこんな「凡庸な悪」から生まれています。まして巷のイジメなど、罪の意識とはほど遠い安易な気持ちから生まれている。そしてそれに同調するのは悪だからではなく弱さゆえのこと。それを罪だと断じることができるほど自分は潔白なのか。そんなに自分は偉いのか。

彼らはただただ弱かった。その弱さを責めることはできないとそのとき思いました。そういう自分だってかつては自分の保身のためにイジメを傍観していたのですから。

ただ自分の弱さを恥じるのみ

小山田氏がやった(と語っていること)が事実なら、多くの人が言うようにそれはイジメを通り越して立派な犯罪といってもいいのでしょう。本当にそんなことがあったのか、彼を叩きたいのならメディアはただちに事実確認に全力をあげるべきです。ただ、当の本人が早々に謝罪していることから、多かれ少なかれイジメの事実はあったと認めているということなのでしょう。

とはいえ、程度の差こそあれ過去にイジメを傍観したことのある筆者には、どうしても彼に石を投げることはできません。

ただただ、あの知的障害のクラスメイトを悪童たちのコブラツイストやインディアンデスロックから救い出してあげられなかった自分の弱さを恥じるのみです。

Kちゃん、痛かっただろうね。君の悲鳴を聞こえないふりしてごめん。

イジメに関連した報道に触れるたびに、筆者は故郷の方を向いて人知れず彼に詫びています。

大倉 隆弘

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