戦後の急成長は「マーケティング」のおかげ 週刊朝日の黄金期をつくった男

戦後の急成長は「マーケティング」のおかげ 週刊朝日の黄金期をつくった男

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  • 更新日:2021/02/23
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扇谷正造さん(提供)

2月に99周年を迎える本誌「週刊朝日」には、発行部数150万部という黄金時代があった。扇谷正造が編集長を務めた1951~58年だ。敗戦後にわずか10万部だった雑誌を押し上げた原動力は何だったのか。息子・正紀氏(80)がカリスマの実像を語った。

【写真】扇谷正造氏が同僚に宛てた遺言状はこちら

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ここに一通の古びた封筒がある。1944年6月、扇谷正造が通信兵として中国の前線に出る前、朝鮮半島の羅南で書いたものだ。宛先は宮城県の実家に疎開している妻になっている。中には3枚の便せんが入っていた。

手紙の冒頭には鉛筆書きで「遺言状」とある。<我らはペンを銃に持ち代えるに非ず、軍服を着たるペンなり。>

この部分だけ何度も書き直した跡があった。

「ここには父の、自分は絶対に軍人ではない、ペンで生きる男なんだという気持ちが表れている。こんなことを書いたら、上官から殴られるのは当然ですよ。でも自分の意思は残したい。ここを見るといつも涙します」

いったい扇谷とはどういった人物だったのか。

13年に宮城県で生まれ、旧制二高を経て、東京帝国大学文学部国史学科に進む。「帝大新聞」(現・東大新聞)に所属した。後に「暮しの手帖」名編集長で、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモチーフになった花森安治も所属し、このころから2人は盟友だった。

35年に大学を卒業し、朝日新聞社に入社。支局を経て、社会部に配属され、二・二六事件(高橋是清蔵相など重臣が青年将校に殺害された事件)も取材したという。

38年には戦争特派員として中国、41年に台湾、フィリピンなどで従軍した。扇谷は20代の将来を嘱望された記者。主に将校や下士官を取材し、日本軍の“華々しい戦果”を記事にして日本に送っていた。多くの作家が戦地に送られ戦意高揚の役割を担っていたが、扇谷も例外ではなかった。

その後、戦争も末期を迎えた44年に宮城県の実家に赤紙が届く。既に家庭もあり子供が3人いたが、31歳で召集された。冒頭の遺言状は出兵先の朝鮮羅南で中隊全員が書かされたものだ。

所属した陸軍では、2等兵(最下層の階級)として壮絶な体験をしたと正紀氏は言う。

「父は30歳代にして全部入れ歯でした。陸軍で激しいリンチに遭い、歯を失ったんです。配属された中隊では大学出は父一人。『大学出といってもこんなもんだ』という見せしめだったのでしょう。軍隊がいかに不条理な組織であるか身に染みた経験だったと思います。これが反戦、反権力の姿勢につながった。また、人々のたくましさを改めて知ったと思います」

中国・漢口付近で終戦を迎える。引き揚げ船に乗るまで、バーで皿洗いのアルバイトなどをし、46年春に復員した。

扇谷が初めて週刊朝日に来たのは、47年だ。整理部次長から週刊朝日副編集長になった。

この時代の週刊朝日は、全22ページ。表紙は2色で、定価は5円。カラーページもあったが、かなりの薄さだ。紙は割り当てのものとヤミ紙を使い、10万部を発行した。

当初の目標は35万部にすること。これは太平洋戦争のはじめに発行していた部数だ。当時、一般週刊誌は新聞社系の本誌とサンデー毎日(大阪毎日新聞社発行・当時)の2誌だけしかなかった。

扇谷が重視したのは、トップニュース、つまり特ダネだった。週刊朝日を一躍ニュース雑誌として世に知らしめたのが、太宰治とともに入水自殺した愛人・山崎富栄の日記のスクープだ。この日記を入手したのは記者の永井萠二、担当副編集長として指示をしたのが扇谷だった。各新聞・雑誌による争奪戦の中でのスクープだった。

この記事が掲載された48年7月4日号は、巻頭から巻末まで全て太宰関連の記事で埋め尽くされている。発売後わずか4時間で売り切れた。

しかし、このスクープについては、社内外から「太宰の日記ならわかるが、愛人のを載せるなんて」「週刊朝日は朝日の品位を落とした」などの批判の声が上がった。

扇谷はこうした批判に対して、当時の出版局内報で次のような反論を掲載している。

<『週刊朝日』は何よりもニュース雑誌(略)。あるがままの素材を投げだし、読者が自ら結論を出せばよい。/我々は勿体ぶって読者に神々の声をささぐべき立場にはいない。そういう立場はすでに、戦争中の新聞の在り方とともに反省されるべきだ>(永井萠二著『焼け跡は遠くなったか』)

後年、扇谷はこのころから週刊朝日は「“買わないと損する雑誌”となった」と振り返っている。ちなみに、特ダネを取ってきてトップの記事を書く記者のことを「トップ屋」というが、この言葉を作ったのが扇谷という逸話もある。

「本人には何かモノサシのようなものがある様子でした。ひょっとしたら踏み外しているかもしれないようなネタでも、ぎりぎりのところを渡っていく。それまでの常識ではやらないことを切り開いていった人でした」

49年に週刊朝日を離れたが、50年に復帰。51年に編集長に就任した。その後、順調に部数を増やし、58年の新年号は150万部以上を刷った。

どうやってここまで部数を伸ばしたのか。

扇谷はこの時代では珍しく、マーケティングを重視した編集者でもあった。有名なのは「シュガーコート編集法」だ。シュガーコートとは、政治的な記事など難しい社会の問題を最近の流行などを交えながら、わかりやすく伝える手法のことだ。アメリカの月刊誌「リーダーズ・ダイジェスト」を参考にしていたと正紀氏は振り返る。

「自宅は国立(東京)にありましたが、会社へは中央線に乗り、東京駅に向かう。週刊朝日の発売日は最後尾から1両ずつ車両を移動して、週刊朝日とライバルのサンデー毎日を読んでいる人はそれぞれ何人か調査するんです。こうして読者の反応を掴んでいたようです」

ターゲットも明確に設定した。「戦前の義務教育卒の学力+10年の人生経験」を持った主婦を読者層として捉えたという。当時は、勝手口で新聞の料金を払ってもらうことが多く、このときに主婦に週刊朝日も買ってもらうことを狙ったのだ。扇谷の著書によると、新聞の集金は毎月25日前後、週刊朝日では第3週号にあたる。主婦が「パチン、パッ」と財布を開き、買ってもらえるトップ記事を用意する方針を打ち出している。

表紙を重視したのも扇谷が来たときからだ。戦前にはなかった「個性的な美人画」を表紙にすることに取り組み、手ごたえを掴んだ。48年ごろからは人物画以外にも風景画、静物画、抽象画にも挑戦している。好評を集め、その後、表紙コンクールを開催。100万を超える票が集まる企画になっていった。

名物連載も扇谷の時代に続々と始まっている。

その一つが吉川英治の小説「新・平家物語」(1950~57年)。映画化されたり、NHK大河ドラマにもなるなど絶大な人気を誇った作品だ。担当は扇谷で、吉野村(現・東京都青梅市)まで片道2時間半から3時間もかけて原稿を受け取りに行ったり、ゲラ刷り(原稿を活字にしたもの)を持っていったりしていたという。扇谷はゲラを急いで持っていった理由を著書の中でこう述べている。

「ゲラ刷りを急ぐのは、吉川さんは前のゲラ刷りを見ないと、次の原稿にとりかかれないのである」(『えんぴつ戦線異状なし』)

もう一つ人気を集めたのが、「名弁士で話芸にたけた」と評された漫談家・徳川夢声の「問答有用」(1951~58年)だ。第1回のテーマは、尾張徳川家当主・徳川義親との「真贋徳川対決」だった。その後、吉田茂、山下清、長嶋茂雄、秩父宮雍仁親王など多くの著名人と対談をしている。政治家でも武家でも皇族でも対談相手にズバズバと聞いていくスタイルは好評を博した。

「問答有用」について正紀氏は「特別な意味がある」という。扇谷は社会部記者として36年に二・二六事件を経験。帝大在学中の32年には青年将校による五・一五事件が起き、「話せばわかる」と言った犬養毅首相が「問答無用」と殺害された。

「政治家が問答無用と殺害され、軍を下手に批判できない時代だった。戦後、編集長になり、その反省が『問答有用』というタイトルに表れている。徳川夢声さんもそれを理解して対談に取り組んでいたのではないか」

このとき「日本拝見」という連載企画を戦略的に使っていた。日本各地をルポルタージュする企画で、執筆陣には大宅壮一、花森安治、小林秀雄などがいた。記事にすることでその地域の住民が週刊朝日を購入し、その際に「新・平家物語」や「問答有用」を見て、新規読者を開拓するという狙いだった。現在も続く「週刊図書館」も扇谷時代に誕生したものだ。

53年には週刊誌ジャーナリズムに新境地を開いたとして菊池寛賞を扇谷と週刊朝日編集部が受賞した。しかし、そんな父の背中を見て育った正紀氏だが、自身は記者や編集者にはなりたくなかったという。幼いころ、目撃した光景が今も鮮烈に残っているからだ。

54年に青函連絡船の洞爺丸が沈没した。第一報の電話が自宅にいた扇谷に入ると、すぐに編集部にいた記者を派遣することに。しかし、夜遅くでお金がない。そこで自宅に記者を呼び、お金を渡した。現場に行って扇谷宅まで戻ってきた記者は疲労困憊(こんぱい)。しかし、B5サイズのざら紙に原稿を書いていく。その一枚一枚に赤鉛筆で直しを入れる扇谷。すると、「なんだこの記事は」と叱責し始めた。正紀氏は襖越しにその様子を怯えながら見ていた。軍隊あがりの扇谷は「兵隊と新聞記者は、たたけばたたくほど強くなる」という信念の持ち主だった。扇谷に怒鳴られ続けた記者は睡眠不足と疲労でとうとう気を失ってしまったという。

「新聞社は本当に厳しいところだと感じました。絶対にこんなところ行くまいと思いましたね(笑)」

(本誌・吉崎洋夫)

※週刊朝日  2021年2月26日号

吉崎洋夫

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