『ちむどんどん』から聞こえる“荒ぶる声” 自分の責任で生きていく、ハードボイルドな世界

『ちむどんどん』から聞こえる“荒ぶる声” 自分の責任で生きていく、ハードボイルドな世界

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  • 更新日:2022/05/14
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『ちむどんどん』写真提供=NHK

“朝ドラ”こと連続テレビ小説『ちむどんどん』(NHK総合)は第5週「フーチャンプルーの涙」でいよいよ暢子(黒島結菜)が東京に旅立った。

参考:『ちむどんどん』黒島結菜がまとう“タダモノじゃなさ” 夢を見つけた暢子はどう飛躍する?

ヒロインの旅立ちまでに紆余曲折のドラマがあった。貧しい生活を続けている比嘉家。長男の重責は感じながら何もできずにいた賢秀(竜星涼)はサンセットバーガーで知り合った実業家・我那覇(田久保宗稔)の甘い話に騙され960ドルを持ち逃げされてしまう。

産業まつりのヤング大会で優勝して東京で西洋料理の料理人になるとやりたいことをみつけた暢子は、兄の投資がうまくいったら東京に行けると期待していたが、それどころではなくなる。むしろ地元で働いて借金返済を強いられる。

あまりにも情弱で浅はかな賢秀、子どもには好きなことをさせたいという信条とはいえ長男に甘過ぎるうえ同じく情弱な優子(仲間由紀恵)、突然東京に行くと決めたら一直線、家庭の状況を顧みず、感情が抑えられない暢子、ただただ借金返済のことばかりうるさく言い続ける大叔父・賢吉(石丸謙二郎)……。誰もの感情が不安定で、それぞれの楽器が調子はずれな音を出し、まったく調和しない。

善悪がはっきりしていたり、各々の役割が適切だったりと、世界観にいわゆる調和を求める者には『ちむどんどん』はちょっとつらいところがあるが、こういうツンツンと四方八方に突き出した長さもばらばらの雑草のようなムードに楽しみや共感を感じ愛着をもつ者もなかにはいる。この感じで思い出した朝ドラが一作ある。『半分、青い。』(2018年度前期)だ。主人公・鈴愛(永野芽郁)の奔放な生き方に激しい賛否両論が渦巻いた。

鈴愛は耳が聞こえないことで情緒不安定になることがあって、時々、家族や友人や知人とぶつかってしまう。耳が聴こえる者たちにはどうしてもわからない彼女の身体の状況や感情。

いや、耳が聴こえる者同士だってそれぞれ違いがあって完璧にわかるあえることなどない。人と人はどんなに思いやっていても決して完璧にお互いを理解することはできないのだ。それでも主人公は自分でいることを諦めない。どれだけ心が傷だらけになってでも自分のなかから湧き上がる感情を押さえつけることなく、外へ外へと出していく。そのむき出しのいささか危険な感情を、鈴愛は漫画や育児や発明などによってじょじょに形を変えて、他者に提示するやり方を覚えていく。

例えば、『奇跡の人』で視力と聴力のないヘレンがサリバン先生の導きによって言葉と概念と発語することを学び、制御できない野性的な感情を整理することができるようになっていくようなことを『半分、青い。』にも感じたが、この人間の文明以前の混沌とした存在が『ちむどんどん』にもあるように感じる。

比嘉家の人々は皆、不器用で、平均値あるいは一般的に正しいとか良いとかとされることをしない、独特の言動をしている。教師になった良子(川口春奈)は給料を前借りしてそれで暢子を東京に行かせようとする。好きな服を買うことも我慢しているにもかかわらず、暢子を東京に行かせようとするのだ。『ちむどんどん』的に言ったら「しんけん?」「ありえん」であろう。

これまで生活に様々な我慢を強いられてきた暢子に一度くらい楽しく晴れやかな思い出を作ってあげたい良子の気持ちもわかる。気になるのは、では良子にはそういう経験はあるのだろうか。賢秀は無理して働くことを拒絶しているし、歌子は病弱で労働を若干、免除されているだろうから、このふたりがたまには晴れやかなことをしたいと言い出すことはおそらくないとして(ストレスはあるにしても)、良子はどうだったのか。なぜ良子は忍耐し、暢子は東京に行きたいと強く主張できるのか。それがなんだか不思議に思える。だが、そういう感覚もひとそれぞれである。

第24回で下地先生(片桐はいり)が「感じるままに生きなさい」「どんな歌でもいい。あなたがそのとき歌いたい歌でいい」「聴く人がたったひとりでも 聴いているのが森や虫たちだけだったとしても それがあなたの人生」と言っていた。自分の立場を気にすることなく、素直に思ったことをやることの真髄が『ちむどんどん』にはあるように感じる。

良子は忍耐を選び、暢子は東京に行きたいと主張する。優子は子どもたちのやりたいことを認める。それだけのシンプルなことなのだ。自分が何かしたことで誰かが犠牲になったり不利益を被ったりしないだろうかと考えて行動することをやめてしまうことがあるのは、それぞれが不利益を被らないようにできるだけ公正であろうという暗黙のルールがあるからだ。とはいえ、ルールは指針ではあるが、絶対ではない。ときにはルールを破って自分の思いどおりにすることがあってもいいのではないか。『ちむどんどん』からそんな荒ぶる声が聞こえてくるような気がする。どこか子ども向けの物語のように感じるのは、未分化の自由さみたいなものを根本に持っているからではないだろうか。

正男(秋元龍太朗)が暢子を異性として好きになる感情を抑え、暢子は暢子のままでいいと彼女の父と同じことを言うのも、性別に人間が分かれて行く前の子ども時代の自由さみたいなものがあるからで(異性として自分が彼女に見られていない負け惜しみもあるとは思うが)、『ちむどんどん』に子ども向けのアニメの雰囲気を感じるのも未分化の可能性にあるような気がしている。

家族以外の誰にも褒められずむしろ馬鹿にされてきた賢秀が好意的な他人にお金を預け、でもその失敗を東京でボクサーになって取り返す。こんなことは実際ではなかなかない。借金に借金を重ねどん底に落ちる人々があとを絶たないのが現実である。それでも優子が言うように自分が決めたことなら他人を恨むことはなく、全部自分で引き受けて生きていく。なんてかっこいい生き方であろうか。でも、甘い言葉で騙す者も当人の意思でやっているからと認め、騙されたことも自分の責任と引き受ける世界はあまりにもハードボイルド過ぎる。(木俣冬)

木俣冬

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