お殿様たちの受難。明治になって職を転々、女遊びに逃げた元大名も

お殿様たちの受難。明治になって職を転々、女遊びに逃げた元大名も

  • 日刊SPA!
  • 更新日:2021/02/21

平成から令和へと元号が変わり、そして現在、新型コロナウイルスという目に見えぬ驚異に、社会が大きく揺さぶられている。漠然とした不安とともに、何かが変わっているのをひしと感じている人も多いのではなだろうか。

社会システムや生活の大変容といえば、日本の歴史上もっとも大きかったのが明治維新だ。それまでの統治者だった殿様たちは領地も家臣も取り上げられ、激動の中に放り込まれた。そんな江戸から明治を生きた「最後の殿様」について、『殿様は「明治」をどう生きたのか』の著者で歴史研究家の河合敦氏に解説してもらった(以下、「 」内は河合敦氏)。

◆朝敵にされた悲劇の大名―― 松平容保(会津藩)

「歴史は、勝者がつくるもの。負けた側の言い分や弱者の声は消され、のちの世に残ることはほとんどない。新政府軍に敗れた会津藩も、長い間、賊徒としての汚名をきせられ、辛い立場を敷いられてきた。不幸の始まりは、九代藩主の松平容保が京都守護職を引き受けてしまったことにある」

No image

松平容保(1862年頃、京都守護職時代に撮影されたもの。会津若松市所蔵品。パブリックドメイン)

京都守護職へ就任した容保が、不逞浪士や尊攘派を徹底的に取り締まったのはご存知のとおり。結果、長州藩・土佐藩から壮絶な恨みを買うことになるわけだが、容保的には「将軍への忠義を第一」とする会津藩の家訓に従ったまでのこと。さらなる不運は、忠義を捧げる将軍に梯子を外されてしまったことだ。

「鳥羽・伏見の戦いは旧幕府軍の敗北に終わり、前将軍・慶喜は配下を見捨てて大坂城から逃亡したのである。このとき容保も、慶喜に従った。君主としてあるまじき行為であった。

ただ、喜んで従ったわけではなかった。大坂城中で突然慶喜から江戸への随行を求められたのだ。驚いた容保は、徹底抗戦を訴えたが、慶喜は立腹してしまう。そこで困って『家老と相談させてほしい』と詰め所に行ったが、あいにく誰もいない。この間、慶喜はしきりに容保に随行を迫る。このような寸刻を争う状況に、ついに容保は家臣を置き去りにすることにしたのである。江戸に戻った慶喜は、最初は抗戦を叫んで威勢がよかったが、まもなく恭順の意を示し、新政府に憎まれている容保を遠ざけた」

江戸城は無血開城され、新政府は戦わずして勝ち、戦功を得たい兵士たちの欲求を満たすため、会津藩がスケープゴートとなる。容保がいくら平身低頭して謝罪しても受け入れられず、会津討伐の命が下される。1か月後の壮絶な戦いの末、難攻不落の鶴ヶ城も落ちてしまう。京都の恨みからか、新政府は戦死者を弔うことを許さず、会津藩の領地をすべて没収。

◆処刑は免れたが、ひっそりと暮らす

容保は処刑を免れ、鳥羽藩に預けられることに。明治5年に正式に謹慎が解かれ、4年後、従五位が与えられて、形としては賊徒の汚名を返上することができた。

「だからといって、容保が華々しく活動するようになったわけではない。表には出ずにひっそりと暮らした。その生活の様子も、晩年の逸話もほとんど記録に残っていないことが、容保の気持ちを物語っていよう。実際容保は、旧臣の山川浩に、『私のために命を落とした家臣は三千人にのぼるだろう。負傷して身体が不自由になった者や息子に先立たれて寄る辺のない者、飢えに苦しむ者も多い。すべては私の不徳の致すところだ。自分だけ贅沢な暮らしをしようとは思わない』そう述べたという」

No image

松平容保 肖像(幕末期または明治期、作者不明。会津武家屋敷所蔵品。パブリックドメイン)

明治13年、容保は日光東照宮の宮司に任命される。徳川宗家の菩提を弔う職は、将軍第一と考える容保にはもっともふさわしいものだったのかもしれない。最晩年は東京で暮らし、59歳になった容保は病に倒れる。

「このとき孝明天皇の女御・英照皇太后から牛乳が下賜された。すでに回復の見込みのない容保だったが、感泣にむせびながら、これを口にしたという。おそらくこのときはじめて、自分の罪が許されたという気持ちをもったのではないだろうか」

容保の生き様はあまりに愚直で不器用。とはいえ、価値観がゆらぐ時代のはざまで、頑なまでに信じられる何かがあるのはある意味幸せなのかも、しれない。

◆腹せぬ鬱憤を酒で紛らわせる―― 山内容堂(土佐藩)

「新政府ができてからの五年間、容堂は鬱屈した思いで世を過ごしていた。徳川家を己の力で救済することができず、薩長の脅しに屈して時勢に流されてしまった。しかも、そんな薩長のつくった新政府の重職にいる自分に、腹を立てつつも抜け出すことができず、その火照った不満を冷やすため、酒を水のごとくあおり女を抱き、みずから己の寿命を縮めた」

No image

山内容堂、東京の浅草にあった内田九一写真館にて撮影された写真(明治初期。高知県立歴史民俗資料館所蔵品。パブリックドメイン)

幕末の賢候の一人に挙げられる土佐藩十五代藩主・山内容堂。新政府の要職を歴任するが、新政府の方針に反対し、激怒をしては辞職を繰り返していた。

たとえば、王政復古の大号令によって、慶喜の辞官納地が強引に決定されると大激怒し、朝議の場で徳川擁護論をぶちまける。が、新政府に新設された議定の職に任じられる。

明治2年、高級官吏の公選に対し、「大臣といった高級官吏は、天皇のお眼鏡により仰せつけられるもの。それを投票で決めるなどもってのほか」とここでもやっぱり大激怒。席を蹴って退出するが、選挙の結果、学校知事に再任される。

組織に楯突きながらも、要職に取りたてられるのだから、ある意味、うらやましいが、本人の心中は複雑だったようだ。

「容堂は人目をはばからず豪遊を続けた。みずからを『鯨海酔侯』、『酔擁美人楼』と号しているように、容堂は酒をこよなく愛し、女と戯れるのを好んだ。

新橋、柳橋、両国などの酒楼で毎日のように芸者とどんちゃん騒ぎをしていた」

◆明治政府に反発して、芸者とどんちゃん騒ぎ

ある土佐藩重臣の日記によると、断ったにもかかわらず、船遊びに付き合わされ、舟中では、政府の高官に対する愚痴を聞かされたという。とにかく、新政府の大久保利通や岩倉具視らのやり方が面白くない。「時勢を知らぬ愚物が多い世の中だ」と憤慨していたという。

明治2年、新政府が設置した役人の風紀を取り締まる弾正台に対しても、容堂は大反発する。

「西郷隆盛に対して、『もし豊臣秀吉の時代に弾正台などを設けたら、第一の家臣である盗賊出身の蜂須賀小六はどうなる。秀吉公自身も処罰されるだろう。まだ新政府も創業の時期、重箱の隅をつつくようなことはやめるべきだ。もし風紀を厳しく取り締まるというなら、俺の首を刎ねなくてはならなくなる』と放言。

弾正台ができてからも、容堂の豪遊はおさまらず、それどころかわざと、『大名といえども酒宴を開き、妓を聘し苦しからず候や』という伺書を政府に提出し、さらに、『今夜は友人と柳橋で会い、芸妓五人と遊興する』と届け出るなどして、その後も女をはべらし酒を飲み続けた」

さすがにこれは目に余ったのか、弾正台は政府に対して容堂の糾弾伺書を提出。すると容堂は、病気を理由に当時、就いていた学校知事の職をやめてしまう。容堂は「麝香間祗候(じゃこうのましこう)という名誉職を命ぜられるが、隅田川近くの浅草の橋場に隠棲。こうして以後、一切の官職から遠ざかり、悠々自適の生活を始めたという。

◆酒で体を壊して、46歳であっけなく死去

「すでに酒のために身体を害しており、明治5年正月、にわかに中風(脳血管障害)の発作を起こした。結果、左半身が不随となり、言語も不明瞭になってしまう。ただ、ドイツ人医師ホフマンのエレキテル(電気)療法の甲斐もあってみるみる回復した。3月には友人たちが両国の中村楼で容堂のために病気回復の祝宴を開いたが、同年中の6月21日、またも発作が再発し、そのまま昏倒して息を引き取った。まだ46歳。まことにあっけない最期だった」

新政府に取り立てられながらも馴染めず、憂さを酒で紛らわした容堂。豪傑、無頼と評されても、古い時代にしがみついた男の哀れさを感じてしまうのは、令和の世だからか。

◆藩主自ら脱藩して戦い、戦後は職を転々――林忠崇(請西藩)

「上総国(千葉県)請西藩主・林忠崇は、明治4年(1871年)の廃藩置県後、旧領に戻った。かつて住んでいた立派な陣屋に戻ったわけではない。陣屋は、すでに焼失してしまっていた。忠崇がこの地に移り住んだのは、信じがたいことに、生活に困り果てた結果だった。彼は石渡金四郎という者の離れに住まわせてもらい、一農民として土地を耕し始めたのである」

No image

林忠祟 幕末期 (個人所蔵品、作者不明。パブリックドメイン)

過激な佐幕派だった忠崇。江戸城無血開城後も新政府への恭順を潔しとしなかった伊庭八郎と人見勝太郎らに協力。自ら70名ほどの家来を引き連れ、遊撃隊と行動をともにする。その際、なんと脱藩届を提出。藩主自らが脱藩届を出すというのは前代未聞の事態だ。

新政府軍への抵抗を続け、東北各地まで転戦するも、戦況が変わることはなく降伏。

親類大名である唐津藩の小笠原家に幽閉され、その後、わずか三百石の家督を相続した弟・忠弘のもとに預けられた。そして、明治5年正月、糊口をしのぐため旧領で帰農したのだ。

◆藩主だったのに…職を転々

藩主が食うに困って農業というのは驚きだが、その後の忠崇の職歴がすごい。あまりの“転職”回数なので、以下、箇条書きでまとめると……

東京府の役人に登用→戊辰戦争の敵国出身の上司と意見が衝突し役人生活終了

商人になろうと函館へ渡り豪商に番頭に→数年後、商店が破産

神奈川県座間市の寺に住み込む→仕事をせず、近所の人とも交わらず、絵を嗜む

大阪府の西区書記として奉職→薄給&多忙さから元家臣に就職口の斡旋をお願いする

元家臣の尽力で華族となり、従五位となる

宮内庁の東宮職庶務課の職員→三年後に病気のために退職。旧領地で療養生活に

健康を回復して日光東照宮の神職に

◆昭和16年まで生きていた最後の大名

日光東照宮の神職というのは、徳川家のため藩を捨て、命をかけて戦った忠崇にとっては、納得のいく仕事だっただろう。しかし、それも3年で辞めている。「家の事情」とのことだが、それは、数年後に亡くなる妻の病状が関係しているのではないかと言われている。

波乱万丈すぎる人生。生きていくことの厳しさを思うが、晩年は娘と同居し、大好きな絵と和歌に没頭して悠々自適の生活を送っていたという。

「忠崇は武士の嗜みとして、夜寝るときは決して仰臥せず、心臓を突かれぬよう左を下にして横臥していた。また寝床には常に十手を忍ばせていたとされる。おそらく箱根での戦争や東北戦争での癖が生涯にわたって抜けなかったのだろう。

昭和16年(1941)1月、忠崇は風邪を引いて寝込んだかと思うと、数日後そのまま眠るように逝ってしまった。享年94歳だった。この林忠崇こそが、最後の大名であった」

江戸、明治、大正、昭和を生きた忠崇にしてみたら、「時代」というものは常に止まらない変わりゆくものだったのかもしれない。

No image

<文/鈴木靖子 解説引用『殿様は「明治」をどう生きたのか』河合敦・著 扶桑社文庫>

【河合敦】

歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。

1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加