「日本人はスマホの目になっている」 藤原新也が鈍感になる現代人を危惧

「日本人はスマホの目になっている」 藤原新也が鈍感になる現代人を危惧

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  • 更新日:2023/01/25
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藤原新也さん

写真、文筆、絵画、書とあらゆるメディアで50年以上にわたり表現活動をし、社会に大きな影響を与えてきた藤原新也。現在開催中の個展のタイトルは「祈り」。いったい何を意味するのか。

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藤原新也さんは、『インド放浪』『東京漂流』などで社会に強烈なインパクトを与えてきた。写真家、画家、書家などとして、目に映る世の動きについて独特の表現をしてきた。インドを皮切りにアジア各地で撮影された初期の作品から、コロナで無人となった街など250点以上の写真や本展のために書き下ろされた文章などの作品群の展覧会が世田谷美術館(東京都世田谷区)で1月29日まで開催されている。

その展覧会の名は「祈り・藤原新也」。「祈り」は何を意味するのか。

「4年くらい前かな、インドへ行ったとき、小さな伝馬船を雇ってガンジス川に出たのです。岸辺に夜の明かりが残り、船を操るおじさん越しにガンジスを撮ったとき、『祈り』という言葉がスッと降りてきた。その写真に『祈り』というタイトルをつけたらピッタリだったのです」

「祈りの軌跡」にしようとも考えた。しかし「軌跡」はいらないと思い直し、「祈り」となった。

「昔のことを振り返るのは好きじゃないんでね」

藤原さんは続ける。回顧展の話は以前からあったが、そういう気持ちもあり逡巡していた。どうしようかと考え続け、行き着いた結論が「祈り」であった。「祈り」という言葉を通して、過去の作品を見ると共通項が浮かび上がってきたのだ。

「昔の作品も言葉によって蘇ることを知りました。言葉の力を感じましたね」

藤原さんにとって写真を撮ることは、そのまま「祈り」につながるのだろうか。一体何を狙って撮影しているのだろう。

「撮影するときは自分が『主』ではなく、対象が『主』です。写真家は自分のスタイルを対象に当てはめる場合がほとんど。でも、僕の場合は対象が変わることで自分もどんどん変わる。対象があって自分がある。だから撮るのではなく、撮らせてもらっているという感じですね」

藤原さんいわく対象と接触して意識の交換をし、常に自分は変化していく。その変化の過程がこの50年間だと話す。常に変化することで撮影の方法も機材も異なってくる。

「インドで撮ったカメラのフォーマット、簡単に言うとカメラやレンズをアメリカに持っていっても合うかどうかわかりません。だから35ミリから、4×5(シノゴ)、8×10(エイトバイテン)と全部持っていきます。それで旅をしながら、ここはこのフォーマットが合うなど、徐々に見つけていくのです」

と撮影の方法を明かしてくれた。

よく知られたインドの写真は35ミリのカメラに28ミリのレンズが合うと考え、それだけで撮影を続けた。

こうして撮影された藤原さんの写真には“動き”がある。そこに写る人々は今にも動き出しそうで、私たちに語りかけてくる。

「写真に動きを感じるのは、撮っている人間が写真の中にいるからだと思います。自分のフォーマットを相手(撮影対象)に押し付けると意外とそこに撮影者は写っていないんです」

自分を消して撮影すると、被写体の意志や気持ちが写るとも話す。例えば、頑なに自分を持っていると、その人の中に入っていけず、その人の気持ちがわからないのと同じ。だから藤原さんは撮影をしているときは「消える」そうだ。

「消そうと思っているわけではないんですけどね。現場に入ると消えてしまうんです」

さらに、どのように撮ろうとかの考えを消すと見えてくるものがあると強く話す。

■被写体が自然に撮らせてくれる

「そもそも、僕はこういうものを撮りたいから撮るのではなく、向こうが撮らせてくれるのです」

ユリの花を撮っていたときのことだ。藤原さんがカメラを構えたとき、一匹のバッタがユリの花に飛んできて、ファインダーの中に収まった。迷わず藤原さんはシャッターを切った。

「これはね、バッタが撮ってくれって飛んできたわけです。僕はバッタが来たらいいなとか何も考えていない。でもそこにバッタが来たから撮影しました」

このように撮影されたいものが向こうからやってくるのはよくあることだと解説してくれた。対象がディレクションをし、撮らせてくれる。花が、動物や人が、向こうから語りかけてくる。だから、あとはシャッターを切るだけだと。

「そういうわけで、僕は誰かに見せようとか考えて撮ったことは一度もないのです」

その語りかけに気がつくかどうか、普通の人と自分の感性や気づきのようなセンサーの違いかなとも。ただ、多くの人は見えているようで、見逃していることも多いと感じている。

かつて東日本大震災の際の原発事故の後に福島に撮影に行ったときのことだ。藤原さんは植物の異変に気がついた。花の色が鮮やかで、大きくなり以前とは異なっていると感じた。だが、同行したチームのメンバーは気がついていないようだった。

「同じ道を一緒に歩いていたんですけどね……」

最近はそうしたことをつくづく感じる。写真は見ることが第一、シャッターを切るのは次のステップだ。見ているようで見ていない。気がつかずに、見えないというのは病とまでは言わないが、かなり深刻なことだと危惧する。

「写真に関していえば、スマホの目になっているのでしょうね。インスタで映えるとか、誰かに見せるために撮っている。だから見ていない。なんでこれが見えないの?と思うことは多い気がします。特に日本人の場合はそう感じます」

話を進めると、やはり藤原さんの場合は、特殊なセンサーがあるように感じる。

「僕は変わった人間かな? いや、むしろ普通ですよ。ただ巨大な同調圧力の中で生きている人とは違うでしょうね。そういう『社会』からずれると全く違う風景が見えますよ」

カメラを持つと立ち居振る舞いが変わってくるので、被写体に出会う確率が高くなる。カメラは面白いと少しほほえみながら話した。

藤原新也という写真家は私たちが見えていない、いや本来見えているはずの世界を見せてくれる。

この写真展は藤原新也が50年世界を漂流してきた視点を改めて突きつけてくれる。(本誌・鮎川哲也)

※週刊朝日  2023年2月3日号

鮎川哲也

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