ひとり歩きする「楽しい老後」に警鐘を

ひとり歩きする「楽しい老後」に警鐘を

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  • 更新日:2017/12/06

「老後の不安」が蔓延する日本。そんななかで、今日のいわゆる「定年本」、「老後本」の内容に異を唱え、『60歳からの「しばられない」生き方』で全く新しい考え方を提案しているのが文筆家の勢古浩爾氏だ。勢古氏自身が、34年間勤続した洋書輸入会社を2006年に退職。以後10年以上の定年後人生を歩んできた。勢古氏が提唱する定年後、老後における人生の嗜み方について訊いてみた。

しあわせにしばられない

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60歳にもなって、いまさら「しあわせになりたい」と思っている人もいないと思うが、もしかしたらいるのだろうか。

いてもいいとは思うが、多くの人は、気楽に生きていきたい、というあたりではなかろうか。いやわたしは「第二の青春」を謳歌したいとか、充実した「セカンドライフ」を楽しみたい、という人も多いかもしれない。思うのは自由だから、そちらのほうが多数かもしれない。気楽に生きたいというのは、わたしのことである。

「しあわせ」という言葉(観念)は厄介な言葉だった。いままでも、これからも決着がつきそうにない言葉である。

万犬虚に吠えて、結局だれにもわからないものだから、いまでは「わたしはしあわせです」と、いったもん勝ちの言葉になってしまった。「第二の青春」も「セカンドライフ」も、おなじ運命を辿らなければいいのだが。

「しあわせになりたい」とはいわなくても、「楽しい老後を送りたい」と考えるのなら、おなじことである。それはたやすく「楽しい老後を送らなければならない」に転化する。それが「しばり」となって、そうでない自分は他の人と比べて負け老人だと思ってしまっては元も子もない。

「楽しい老後」を望むのは自然だとしても、だいたい「楽しい老後」というのがウソなのだ。老後はべつに悲しくもないが、といって楽しいわけがないじゃないか。

「わたしは楽しくてたまらないよ」という人がいるだろうが、いったもん勝ちでなければ幸いである。

それに世間は一々「老後、老後」とやかましすぎる。老後不安産業でもあるのか。個人個人でいえば、アパートを借りるのさえ拒否される、厳しく不安な生活があるだろう。

その反対に、海の見える高級介護マンションで悠々自適の生活を送っている高齢者もいる。しかし一般人の「老後」なんて、どうでもいいのである。もちろん会話では便利だから「老後」という言葉は使う。だが、ほんとうは「老後」なんて大雑把なものはない。あるのは、今日という一日だけである。それなら、今日の昼食べたラーメンと餃子はうまかったな、でいいのである。

どんなに歳をとっても、あるのは今日という日だけである。「しあわせな老後」「楽しい老後」という言葉は、中味がスカスカである。つまり、なにもいっていないに等しい。

家族にしばられない

おいしいおにぎりをつくるコツは、ごはんをギュッと固くにぎらずに、フワッと軽くにぎることだと聞いたことがある。

寿司店すきやばし次郎の次郎さんがにぎるシャリは(その店の職人さんもおなじだろうけど)、なかに空気が入ってフワッとにぎられている、とテレビで観たことがある。おにぎり屋の女将さんもおなじことをいっていた。

わたしは家族も、そんなフワッとしたおにぎりみたいな家族がいいのではないか、と思っている。これでもかとにぎり固められたものではなく、噛めばホロッと崩れるような、それでいて常態としては軽く形を成しているような家族である。

そして案外、おれんとこはだいたいそんな感じだよ、つかず離れずかな、という家族が多いのではないかという気がする。

「家族の絆」といい、「家族に支えられた」といい、「家族が一番」という。そのとおりだろうと思う。最終的に信じられるものは家族だけ、ということであろう。

あるテレビ番組で、こういう父子を観た。これまで一度も優勝したことがない、うだつの上がらないプロの社交ダンス家の父親が、小学生の息子に、今度は勝てそうな気がするから、大会を見にこないかと誘う。

しかし息子は行かない。テレビスタッフに、なぜ行かないのかと訊かれると、かれは涙を流しながら「子どもでも、目の前で父親が負ける姿を見るのは悔しいんだよ」といった。信じられないほどいい息子だった。父はやはり勝てなかった。こういう感情になれるのは、家族ならではだろう。

しかしこれはけっして家族の普遍的な姿ではない。「家族の絆」が「家族の鎖」になる姿は世にありふれている。子を支配する親もめずらしくはない。男親だけではない。女親もおなじである。

両腕に入れ墨をした(ファッションタトゥーか?)若い母親が、男言葉で怒鳴りながら自分の子どもの頭を叩いていたのを、たまたま目撃した。家族は一律には語れない。油に投じられた天ぷらの衣が鍋全体にパッと散り広がるように、バラバラの家族もあるだろう。

自分の家族さえよければ、という気持ちはどの家族にもあると思われる。正直にいえば、わたしにも、ある。これはたしかに「家族エゴ」ではあろうが、最終的には、そのことはやむを得ないことである。

しかし、それが露骨になるとさすがに醜いといわざるをえない。よほど切羽詰まった状況にならないかぎり、家族は一応の節度や他人への配慮をもっているものである。「家族エゴ」もそうである。つねにそのエゴを垂れ流しているのは、ただのバカ家族である。

混んだ電車で、自分はいいが、妻や子どもには座らせてやりたいと思うのは、当然の感情である。父親としてのメンツということだってある。

だがそれが、他人の家族を押しのけてもとなると、やりすぎである。もし座れなくても、ちょっとの間、我慢すればいいだけのことだ(長時間となると別だが)。しかしそれでも、人を押しのけて自分の家族だけの安楽を確保したやつの満足気な顔がこつらにくい、ということはある。そんなやつにろくな人生はない。

祖父母が孫にお金を使うも使わないも自由

60歳にもなれば、先の、涙を流した少年のような子どもはもういない。30代、40代の息子や娘であろう。代わりにいるのが孫だが、わたしに孫はいない。世のじいさんばあさんたちが、孫にどう接しているのか、わたしにはわからない。

「わたしはイクジイをやってますよ」と書いている本なら読んだ。平気で「イクジイ」と書く言語感覚の鈍感さに驚いた。知っているのはそれくらいである。それ以外で聞こえてくるのは、年寄りに金を出させようと画策する商売人たちの鼻息の荒さだけである。

「お盆玉」なる言葉ができた。お盆に帰省してきた孫にお金をやるというのである。わざわざ来てくれてありがとね、ということなのだろうか。

当然、孫が小学校に上がる年になると、ランドセルを買ってやらなければならない。いつの間にか、それは祖父母の役割になってしまった(させられてしまった)ようである。というのも、シックス・ポケッツ(6個のポケット)なることが商売人のなかでいわれており、父母(2個のポケット)のほかに、両祖父母(4個のポケット)の金が狙われているからである。まったく油断も隙もあったものではない。

もう外堀は埋められてしまった。孫のためには金をださなければならない。父母(自分の息子、娘)も最初から当てこんでいるのである。また、そのことが祖父母にとっては、頼りにされている、自分にできることがある、とうれしくもあるのだろう。もう大きくなった娘や息子のためにしてやれることは、少ない。そんなことならお安い御用だ、と思ったとしても、祖父母を甘い、と責めることはできない。

「子孫に美田は残さず」というのは西郷隆盛の遺訓である(正しくは「児孫のために美田を買わず」『西郷南洲遺訓』岩波文庫)。

これは遺訓のひとつ(遺訓6)ではあるが、西郷は他人にもそうせよ、といっているわけではない。自分はしない、といっているだけである。そしてもし、自分がこの言葉と違うようなことをすれば、自分を見限ってくれ、と書いている。

それはひとつの見識である(大前研一も「残さず派」である)。美田もなにもないわたしなどは最初から論外だが、残せる人は残していいのではないか、と思う。

だれもが西郷のようになれるわけではない。ましてやいまの時代、息子や娘たちも厳しい生活をおくっている者も少なくない。

しかし、うちのじいちゃん、ばあちゃんは余裕がなさそうだ、とわかる息子や娘は、そのことを察しなければならない。祖父母が孫にお金を使うのは当然、と考えているような子どもはただのバカ息子である。都合のいいときだけ、家族は固いおにぎりだと勘違いしているのである。

家族によってしばられてはいけないが、家族をしばってもいけない。

〈『60歳からの「しばられない」生き方』より構成〉

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