遠藤保仁タイプ。70年代欧州サッカー、忘れられない孤高の天才がいる

遠藤保仁タイプ。70年代欧州サッカー、忘れられない孤高の天才がいる

  • Sportiva
  • 更新日:2019/09/21

スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第3回

サッカーのスーパースターの中には、その才能をいかんなく発揮しながら、タイトルに恵まれなかった悲運の選手たちがいる。サッカースターやレジェンドプレーヤーの逸話をつなぎながら、その背景にある技術、戦術、社会、文化を探っていく連載。第3回は1970年代の名プレーメーカー、ギュンター・ネッツァーを紹介する。

◆ ◆ ◆

70年代のアイコン

「あれ、そんなに大きくないんだな」と、本人を見た時に思った。たしか、ポルトガルで開催されたユーロ2004の時だったと記憶している。

ギュンター・ネッツァーはもっと大男だと勝手に思っていたのだ。1970年代の名プレーメーカーだった。ブロンドの長髪をなびかせて、フィールド全体を仕切っていた。

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1972年のヨーロッパ選手権を制したネッツァー(写真右)とベッケンバウアー(同左)

「簡単なプレーと難しいプレーがあるなら、僕は難しいほうを選ぶ」

のちにロベルト・バッジョが同じことを言っていたが、ネッツァーも繊細でどこか儚いイメージがある。悲劇的なヒーロー。シューズのサイズは30センチあり、ボールにカーブをかけるためにさらに大きいものを履いていたという。

走るフォームは豪快で、中盤を一気に通過していくドリブルは鉈でぶった切るような迫力があった。ロングパスの名手、40メートルを無回転で飛ばして受け手のところでストンと落ちるようなボールを蹴れた。ガラス細工のようでありながら、スケールの大きな司令塔で、何となく大きな選手というイメージだったのだ。

178センチは当時としては長身の部類だが、少し猫背で、実際見るとそんなに大きくもなく威圧感もなかった。ボルシアMGのスタッフとしてネッツァーを間近で見ていた、ブンデスリーガの解説でお馴染みの鈴木良平さんは、「後ろ姿に孤独が滲み出ていて、それがまた誰よりも似合っていた」と話していたが、たしかにそういう印象である。

ボルシアMGが来日した時、ネッツァーはチームメートと銀座を観光している。その時に通りかかった小学生がかぶっていた黄色い帽子に興味があったらしく、すれ違いざまにヒョイと取り上げ、そのまま自分が被って行ってしまったそうだ。孤高の天才というより、お茶目な変人みたいなエピソードだが。

ネッツァーは西ドイツのスーパースターだった。最新のスポーツカーに乗り、「恋人たちの小径」という名のナイトクラブを経営していた。わかりやすくオシャレな、若者世代のアイコンである。

ネッツァーの名を世界に轟かせたのは1972年のヨーロッパ選手権(ユーロ)だ。準々決勝のイングランド戦は、リベロのフランツ・ベッケンバウアーと交互に深いところから組み立てを行なってイングランドを翻弄した。敵地ウェンブリーで3-1と快勝、ネッツァーのキャリア最高の試合と言われている。

ただ、このころ世界最強クラスだった西ドイツ代表とは不思議に縁がなく、1970年メキシコワールドカップは負傷でメンバーから外れ、優勝した1974年の西ドイツ大会では、わずか20分間プレーしただけだ。

ボルシアMGと共に躍進

ケルンの郊外の小さな街、メンヒェングラッドバッハの駅を降りると、いくつかのバス停の風よけガラスに大きな絵が描かれていた。学者や政治家など、地元の名士と思われる肖像画の中にヘネス・バイスバイラーの絵があった。ボルシアMGをヨーロッパの強豪に導いた名将である。

バスに乗ってスタジアムへ向かう途中にも大きなイラストが並んでいた。その中の1枚にもバイスバイラー監督が描かれていて、その隣にはボールに座って監督と話し込んでいるネッツァーの姿があった。

69-70シーズンにブンデスリーガ初優勝、その次のシーズンも連覇。バイエルンと並ぶドイツの強豪にのしあがっている。攻撃サッカーが看板で、その両輪が監督のバイスバイラーと中心選手のネッツァーだった。2人とも自分が正しいと思ったら一歩も引かない性格だったようで、激しく意見をぶつけ合うこともしばしば。ただ、喧嘩ばかりしているわりには強い絆で結ばれていたようだ。

1973年のドイツカップ決勝のエピソードが2人の関係をよく表わしている。バイスバイラー監督は負傷明けのネッツァーを起用しなかった。折しもネッツァーのレアル・マドリードへの移籍が決定的となっていて、2人の関係は修復不能とも言われていた。

ケルンとの激闘が延長に入ると、ネッツァーはウォーミングアップを開始。勝手に選手交代を行なってフィールドに出る。その間、バイスバイラーは何も言わない。互いに目も合わせない。91分にフィールドインしたネッツァーは3分後に決勝ゴールをゲットした。

1975年、大黒柱だったネッツァーが去ったボルシアMGをリーグ優勝に導いたあと、バイスバイラーはバルセロナの監督に就任する。チームのスター選手と対立するのが恒例のような監督だったので、バルサではヨハン・クライフと衝突。1シーズンでバルサを去っているが、その間スペインでの生活面など、ネッツァーは相談に乗っていたという。ちなみに次の1FCケルンでもバイスバイラーはヴォルフガング・オヴェラートとぶつかり、このときはオヴェラートを引退させてしまった。

のちにバイスバイラーは手記で、ネッツァー、クライフ、オヴェラートについて書いているが、クライフとオヴェラートについては「エゴイスト」という評価。いちばんぶつかり合ったネッツァーに関しては「ゴールを直撃する気持ちがあった」「チームのために100パーセントのプレーをした」と褒めていた。

孤高のアーティスト

筆者の印象は、むしろバイスバイラーとは逆だ。もちろん、監督として間近で接した70年代きっての名将の意見に対抗しようとは思わないが、一般的にもそうではないかと思う。

クライフはトータルフットボールの旗手としてオールラウンドなリーダーだった。オヴェラートは「怒りの芸術家」と呼ばれる気位の高さはあったが、相手のプレーメーカーをマンツーマンでマークするハードワークもできた。

ネッツァーは飛び抜けたインテリジェンスに恵まれ、アーティステックなクリエイターではあったが、クライフやオヴェラートにあった戦闘力はあまり感じない。ある意味、周囲の献身に支えられて輝くスターであり、そこがネックになっていた気がする。

当時の西ドイツはマンツーマンの守備だった。そこからマークを投げ捨てるように攻撃に転ずるところに新しさと強さがあったのだが、ネッツァーは誰かをマークして戦うことには不向きだった。単純にアジリティーがさほどないというフィジカル不足もあったかもしれない。

似たタイプとしてはベルント・シュスター、アンドレア・ピルロ、ファン・ロマン・リケルメが挙げられるだろうか。日本人なら遠藤保仁。ピルロに闘犬ジェンナーロ・ガットゥーゾがいたように、ネッツァーも誰かの支えがあればよかったが、1974年ワールドカップの西ドイツにはそこまで余裕がなかった。ネッツァー自身のコンディションもよくなかったようだが、オランダとの決勝を前に重要な役割を果たしている。

西ドイツはベルティ・フォクツにクライフをマークさせることは決まっていた。当初はハーフウェイラインで待ち受ける作戦だったという。ところが、オランダを想定した紅白戦では、クライフ役のネッツァーにフォクツはまるで歯が立たなかった。決勝では迷いながらも予定どおりの待ち受け策で臨んだが、開始1分でクライフのドリブルからPKを与えてリードを許してしまう。

ここで開き直ったフォクツがオールコートのマークに独断で変更し、以降はクライフに仕事をさせず、それが2-1の逆転勝利につながった。ネッツァーにやられたことで、早めに決断できたのだろう。かつてボルシアMGのチームメートとして、フォクツは「ネッツァーのために走る」と言い、そのとおりにチームの頭脳を支え続けた。ネッツァーは彼らしい形で恩を返したのかもしれない。

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