沖縄野球の「原点」きみは安仁屋宗八を知っているか

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2017/09/16

近年、高校野球では沖縄県勢の躍進が目立つ。1999年と2008年のセンバツで沖縄尚学が優勝、2010年には興南が史上6校目となる春夏連覇を果たしている。プロ野球に目を転じると、現在、沖縄の高校を出た者は22人もいる。今では球界における一大勢力だ。

広島カープや阪神タイガースで活躍した安仁屋宗八は、沖縄県出身の初のプロ野球選手として知られている。現役時代は右バッターの懐をえぐる鋭いシュートボールを売り物にした。また豪放磊落な性格で球界屈指の酒豪とも言われている。開幕間もないある日、カープの本拠地マツダスタジアムに72歳の安仁屋を訪ねた。

高校で野球をするつもりはなかった

――安仁屋さん、お生まれは?

安仁屋 那覇市の垣花というところです。終戦1年前の生まれですが、大分県に疎開していたので沖縄戦の記憶はありません。戦後は那覇市の壺屋というところに戻りました。

戦争の記憶はないのですが、赤ん坊の時空襲に遭い、家族が僕を連れて防空壕に逃げ込もうとした、まさにその直後に爆弾が落ちてきて生き埋めになったそうです。幸い、僕は赤い服を着ていたので助かった。目立つ僕を、母親が必死になって救い出したそうです。あと数十分、いや数秒遅れていたら、僕は今、この世にいなかったでしょう。

――凄絶な体験ですね。で、野球を始めたきっかけは?

安仁屋 親父は漁師で野球には興味がなかった。ただ僕の上の兄貴2人が野球をやっていた。四男と五男で、僕は11人兄弟の八番目なんです。だから名前は宗八。五男は社会人野球の琉球煙草にまで進みました。

――当時の沖縄は野球が盛んだったのでしょうか?

安仁屋 とても盛んでしたよ。社会人のチームだけで八つくらいあったからね。Aが硬式でBが準硬式、そしてCが軟式。特にCが多かった。

ただモノはなかったね。グローブは手づくり。テントを素材にしたもので、中に雑巾を詰めていた。母親が縫ってくれましたよ。バットは焚火の時に使うような木。当時の沖縄の少年たちは、皆それで遊んでいました。

――高校は沖縄高校(現沖縄尚学)ですよね。今では全国的な強豪校です。

安仁屋 本当は高校まで行って野球をやりたくはなかった。そこまで野球に対するこだわりはなかったからね。強いていうなら那覇商かなと。兄貴がそこでやっていましたから……。

――結果的には進学した沖縄高で、沖縄県勢としては初めて地区予選を勝ち抜き、甲子園出場を果たすことになるわけです。1962年の夏の大会です。

安仁屋 沖縄県勢としては1958年、第40回の記念大会ということで首里高が初めて甲子園に出場しています。しかし、それからは3年続けて南九州大会で負けていた。宮崎のチームに勝てなかったんです。

――当時の南九州大会は宮崎と沖縄の戦いだったんですか?

安仁屋 そうです。宮崎と沖縄で1年置きにやっていた。僕の時も、いわゆる敵地ということもあって宮崎県勢に勝つのは難しいだろうといわれていた。というのも当時、高鍋に清俊彦という後に西鉄、近鉄に進むピッチャーがいて、これが九州ナンバーワンの評価を得ていたんです。

ところが宮崎県の決勝で高鍋が負けてしまった。僕らが見ている前でね。それで勝った大淀高と戦うことになったんです。

――あの清が打たれたんですか?

安仁屋 いや、たまたま相手の打球が足に当たったんです。ピッチャーライナーを避けきれなかった。それから、おかしくなって確か1点差で負けたんじゃなかったかな。ウチの監督が「清が来たら、オマエらまず打てんぞ」と言ったのを覚えていますよ。

「オマエを欲しいと言うとる」

――大淀に勝ち、甲子園出場を決めた時には沖縄は大騒ぎだったでしょう?

安仁屋 でしょうね。でも、僕らはピンとこなかった。“あっ、勝ったんだ”とじわじわ感激が広がってきたのは次の日になってからですよ。

――甲子園での初戦の相手は広島の名門広陵でした。

安仁屋 4対6で負けました。この時の広陵は優勝候補に名を連ねるほどのチーム。巨人に入った山本英規という選手は“長嶋二世”と呼ばれる程のサードでした。他にも佐々木孝次(中日)がプロ入りしました。

――高校卒業後は地元の社会人野球チームの琉球煙草へ。

安仁屋 これは兄貴に引っ張られたんです。「野球続けるんやったらウチに来い」と。沖縄高から3人も入りました。

――高校野球の目標が甲子園なら社会人野球は都市対抗です。安仁屋さんは入社1年目の夏、大分鉄道管理局の補強選手として後楽園の土を踏みました。沖縄の出身者としては初の都市対抗出場でした。

安仁屋 琉球煙草に入ってまだ4ヵ月だから本採用にもなっていないんです。九州大会で電電九州に負けた時点で一度都市対抗を諦めていた。

――どんな試合内容だったんですか?

安仁屋 雨の中での試合でした。延長に入って僕はマウンドを降りた。もう中止かなと思うくらい降っていましたよ。ところが、向こうの監督が「安仁屋が代わったから、やってくれ。勝てる」と審判に頼んだというんです。結局、延長18回までいったんじゃないかな……。

――補強選手になるということは、その試合での好投が目に留まったのでしょう。都市対抗では初戦の日本生命戦に登板していますね。

安仁屋 ええ、3イニング投げて1点も取られませんでした。それ以上に覚えているのが相手のバットをシュートで4本くらい折ったことです。結局、試合には負けたのですが、宿舎に帰ると、東映のスカウトが訪ねてきた。監督が「安仁屋、ちょっと来い!」と言うものだから行ってみると「この人がオマエを欲しいと言うとる。どうする?」ですよ。

本音はいやだった

――プロからの誘いとあらば、心が動いたでしょう?

安仁屋 いやいや、全然。だって当時、沖縄でテレビのある家は10軒、いや20軒に1軒くらい。だからプロ野球と言われても、よくわからないんです。知っているのは、せいぜい巨人くらいのものですよ。それも顔と名前が一致するのは長嶋茂雄さん、王貞治さん、藤田元司さん……。

――で、東映の誘いには、どう対応されたんですか?

安仁屋 いきなりプロと言われても、自分で決められるものじゃない。それで「親兄弟、監督と相談してきます」と言って、一旦返事を保留した。

――当時のプロ野球はシーズン中でも、社会人野球の選手は会社を辞めればプロ入りすることができました。

安仁屋 そうなんです。でも、僕は本音ではプロに行きたくなかった。野球以外でも心配なことがあったんです。

――野球以外の心配とは?

安仁屋 沖縄の言葉です。本土に行くと標準語を使わなければいけない。あれが嫌でねぇ。僕は人見知りで、話すどころか人前に出るのも嫌だった。ましてや、沖縄からプロに入った選手は、まだひとりもいないんですから……。

――沖縄返還が1972年の5月です。1964年当時はまだ沖縄から本土に行くのにパスポートが必要でした。逆もそうです。

安仁屋 当時、プロ野球に米国のパスポートを持っている人がひとりだけいたんです。日系人で広島で外野手をやっていたフィーバー平山(智)さんでした……。

読書人の雑誌「本」2017年6月号より

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