金融危機の難局で貫いた「敬事而信」

金融危機の難局で貫いた「敬事而信」

  • PRESIDENT Online
  • 更新日:2018/01/13

金融危機の序曲、年末の日々を一変

1994年12月6日、東京・大手町の住友銀行(現・三井住友銀行)の全国銀行協会(全銀協)の別室で、「何とか無事に、年が越せそうかな」と思いながら、事務的な仕事をこなしていた。

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三井住友フィナンシャルグループ 社長 国部 毅

すると、担当専務から、呼ばれた。そういえば、部屋にある首脳陣の在・不在を示すランプで、頭取と専務のところが、だいぶ前から消えていた。「どこにいっていたのか?」と思いながらいくと、予想もしない言葉が飛んできた。

「とにかく、これからすべての予定を、キャンセルしてくれ」

理由を尋ねると、経営難となった都内の2つの信用組合から、預金や健全な融資などを移す受け皿銀行をつくるので、全銀協会長行として、金融界の出資を取りまとめることに専念しろ、との意味だった。バブル崩壊後の金融危機の序曲だった。満40歳。比較的平穏だった日々が、この日を境に、劇的に変わる。

頭取と専務は、東京・赤坂の日本銀行氷川分館に、極秘に呼ばれていた。1965年の証券不況の際、田中角栄蔵相らが経営の行き詰まった山一証券に対する日銀の特別融資を決めた場で、通称は氷川寮。後で聞くと、大蔵省(現・財務省)の銀行局長と日銀理事、日本長期信用銀行(現・新生銀行)、富士銀行(現・みずほ銀行)の頭取らが集まった。

当局側が、切り出す。

「受け皿とする新銀行の資本金は400億円。うち200億円を日銀が出すので、あとの200億円を民間金融機関で出してほしい」

預金の取り付け騒ぎなどを防ぐため、応分の負担をしてほしいとの要請だ。長銀は、信組の理事長が兼務していたリゾート開発企業に、巨額を貸し込んでいた。富士は、信組を監督する東京都の指定金融機関。そして、住友は全銀協の会長行だった。4月に住友から初めて就任した。別室は、担当専務の下に臨時にできたチーム。長く企画部で銀行間のテーマを担当してきたことで、1月に別室次長の辞令が出ていた。2信組は、住友に直接は関係ない。だが、突然、「当事者」の1人となった。

世論には、乱脈経営を指摘して「そんな信組を、密室行政で救済していいのか」との批判も出た。だが、信組の預金者や健全な取引先は、守りたい。よその話であっても、同じ金融の仕事に就く身。銀行員という仕事に、誇りも責任感も、人一倍ある。やはり、金融界全体で取り組むべき問題だ。

すぐに、金融機関を回り、事態を説明し、出資の意義を訴える。もちろん、極秘のやりとりだ。当然、渋る相手もある。だが、責務に誇りを持ち、正攻法で説く。翌95年1月13日、新銀行が設立された。152の金融機関が出資に応じ、使命は果たす。

銀行員の仕事に誇りと責任感を再認識する事態は、続いた。4日後に発生した阪神淡路大震災だ。壊滅的な被災地で、人々や商店、中小企業などに、どう力になれるか。全銀協で知恵を集めた。例えば、被災地で週末も開く支店を新聞広告で示し、中小企業には手形の臨時交換所も設けた。金融界全体を考える。2つの経験は、いまでも、貴重な財産になっている。

「敬事而信」(事を敬して信あり)――何事によらず、自分の仕事を敬わなければいけないとの意味で、中国の古典『論語』にある言葉だ。仕事に敬意を払い、誇りを持ってやれば、誰もが自然にその人を信用する、と説く。全銀協会長スタッフとしての役割や大震災への対応で、仕事に誇りと責任感を持って臨み続けた国部流は、この教えに通じる。

最も大事なのは「仕事への姿勢」だ

1954年3月、母の実家の和歌山市で生まれる。父は運輸省(現・国交省)の技術者で、広島で勤務していたので、すぐに母と広島へいく。一人っ子で、両親と3人家族。父も和歌山市の出身で、子どものころは夏休みなどに両親と訪ね、故郷とも言える地だ。

その後、父の転勤が続き、小学校は5校、中学は2校に通い、埼玉県・川口の中学から県立浦和高校、東大経済学部と進み、ゼミでは企業金融論を学ぶ。就職は「企業の成長に役立ちたい」と思い、銀行を受けた。住友は当初の候補になかったが、会社訪問をした2つの銀行の中間にあり、時間もあったのでのぞいたら、面接に出てきた3人の先輩から感じた自由闊達な雰囲気に、ひかれた。

76年4月に入行し、東京営業部に配属。以来、米ペンシルベニア大の大学院ウォートンスクールに留学した期間を除き、44歳で北九州支店長になるまで東京勤務が続く。最初の1年は主計係で、振り返れば、ここでの経験が「敬事而信」の出発点となった。

銀行内で書かれた膨大な伝票が最後に回ってくる部署で、勘定を合わせるのが仕事。手動の加算機で出入りの額を打ち込むが、打ち間違えのせいかなかなか合わず、計算し直してもまた違う。ベテラン女性に怒られ、上司に「きみたちには無理だから、同期の女性がしっかり働けるように、お世話しなさい」と指示された。

だから、仕事に気が乗らない。でも、やっているうちに、はっ、と思う。次々にくる伝票をみていると、いま銀行でどういう取引が主体かがわかる。同じ取引先の名があれば、「そうか、ここはこうか」とみえてくる。仕事に誇りと責任感を持つ姿勢が生まれ、周囲の信頼を得た。それが、米国留学をもたらしたのかもしれない。

留学は2年間。経営学の修士号(MBA)を取って帰国、調査二部を経て企画部へいく。希望したわけでもなく、驚いた。当時の企画部は「奥の院」のようで、何をやっているのかわからない。内示を聞いて「えっ?」と思ったことを、いまでも覚えている。それが、続けて14年半もいることになり、冒頭の2信組問題に遭遇する。

企画部では、予算管理係の班長もした。全く素人だったが、数字は頭にす~っと入るほうだ。何冊も専門書を読み、決算の仕組みから貸借対照表、簿記などを勉強したが、数字が嫌いなら、それはできない。やれたのは、やはり好きなのだろう。ここも、もちろん、「敬事而信」で取り組んだ。その経験が、巨額の不良債権処理と株価急落で決算が苦しくなり、国有化の瀬戸際に追い込まれたとき、48歳で財務企画部長に就く人事につながる。

2011年4月、頭取に就任。多忙のなか、全国の営業拠点などを訪ね、現場と直接話す「フロントミーティング」を始めた。新人たちには、自分の駆け出し時代、主計係の経験を話す。最初はつまらない作業にみえたが、伝票の山から、いろいろなことを学んだ。仕事に誇りを持って臨めば、留学もできた。そう紹介しながら「仕事に対する姿勢が大事だ。どの部署にいても、取り組む姿勢次第で仕事は面白くもなり、面白くなくもなる」と説く。フロントミーティングは、頭取時代の6年間に計48回。多忙な四半期末を除き、月1回のペースだった。

この4月に頭取を退任し、持ち株会社の社長兼グループCEOになった。3年前に「10年後にこういう銀行グループでありたい」と描いたビジョンを実現するには、まだまだやるべきことは多い。

三井住友フィナンシャルグループ 社長 国部 毅(くにべ・たけし)
1954年、和歌山県生まれ。76年東京大学経済学部卒業後、住友銀行入行。2002年三井住友銀行財務企画部長、06年常務執行役員、07年三井住友フィナンシャルグループ常務執行役員、09年三井住友銀行専務執行役員、11年頭取。17年4月より現職。

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