ショーン・マイケルズ HBKは“罪つくりなキッド”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第85話>

ショーン・マイケルズ HBKは“罪つくりなキッド”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第85話>

  • 日刊SPA!
  • 更新日:2018/05/28
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連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第85話は「ショーン・マイケルズ HBKは“罪づくりなキッド”」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

ニックネームは“ザ・ハートブレイク・キッドThe Heartbreak Kid”で、通称HBK。“ショー・ストッパーShow Stopper(名優)”“マン・オブ・ザ・アワーThe Man of the Hour(今夜の主役)”なんて形容されることもある。

ファンからもレスラー仲間からももっとも愛され、またもっとも憎まれたスーパースターである。リングの上のキャラクターとプレイベートの顔がまったく変わらない完ぺきな“スター人格”として知られている。

ショーン・マイケルズはハイスクールを卒業と同時にプロレスラーをめざした。フットボールとアマチュア・レスリングの経験はあったが、州大会レベルの実績は残していない。

レスリング・ビジネスにこれといったコネクションがなかったため、ホームタウンのサンアントニオ在住の元プロレスラー、ホセ・ロザリオJose Lotharioに弟子入りしてプロレスの基礎を学んだ。レッスン料は3000ドルだった。

ロザリオは19歳だったマイケルズに試合経験を積ませるためルイジアナのMSWA(Mid South Wrestling Association=ビル・ワット派)に送り込み、ルーキー・イヤーの1985年はダラスWCCW(World Class Championship Wrestling)、カンザスシティー、地元サンアントニオのインディー団体テキサス・オールスター・レスリングのリングで過ごした。

翌1986年、カンザスシティーで知り合ったマーティー・ジャネッティMarty Jannettyとタッグチームを結成し、ミッドナイト・ロッカーズMidnight RockersとしてAWAのサーキットに合流した。これが最初のブレイクだった。

バーン・ガニアはロックンロール・エキスプレスRock’n Roll Express(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)やミッドナイト・エキスプレスMidnight Express(ボビー・イートン&デニス・コンドリー)のような若いファン向けのタッグチームを探していた。

AWAに約2年在籍後、WWEエージェントのパット・パターソンにスカウトされWWEと契約(1987年5月)したが、素行不良を理由に2日で解雇され、再びAWAに戻り、また1年後にWWEから声がかかった(1988年3月)。

WWEではミッドナイトの部分だけが削除され、チーム名はシンプルにザ・ロッカーズThe Rockersとなった。

ロッカーズは若い女性ファンをターゲットにした典型的なアイドル・タッグチームだったため、全米ツアーではどこへ行っても“追っかけ”がついてきた。

若気の至りといってしまえばそれまでかもしれないが、マイケルズとジャネッティは毎晩のように酒池肉林のパーティーをくり返し、部屋をめちゃくちゃにされたホテルが“プロレスラーお断り”の警告文をロビーに張り出したという伝説がある。

プロレス史にその名を残す“議論を呼ぶスーパースター”としての長編ドラマは、シングルプレーヤー転向からはじまった(1992年10月)。

ハルク・ホーガンが去ったWWEのリングで“ポスト・ホーガン”の主役になるはずだったアルティメット・ウォリアーとデイビーボーイ・スミスが薬物検査の陽性反応で解雇された。ビンス・マクマホンは“ステロイド流通疑惑”でマスメディアの標的にされていた。

1980年代からずっとつづいていた“ボディービルダー天国”のイメージを刷新するため、WWEは所属全選手にステロイド検査を実施した。

ビンスが新しい時代のキーパーソンに選んだのは、ボディービルダー・タイプではなく、レスリングの技術そのものがセールスポイントになるマイケルズと“ヒットマン”ブレット・ハートのふたりだった。

この年の“サバイバー・シリーズ”のメインイベントにはブレット対マイケルズのWWE世界ヘビー級選手権がラインナップされた(1992年11月25日=オハイオ州リッチフィールド)。このタイトルマッチこそ、それから5年後に起きる“モントリオール事件”のプロローグだった。

マイケルズとブレットの闘いには、ビンスが考えるところのプロレス=スポーツ・エンターテインメントのほんとうの定義を知るためのヒントが隠されていた。

スポーツ・エンターテインメントとは、スポーツであると同時にエンターテインメントであり、エンターテインメントであると同時にスポーツであるという特異なダブル・スタンダードを意味していることはいうまでもない。

スポーツでなければエンターテインメントで、エンターテインメントでなければスポーツであるという単純な二元論は成立しない。プロレスにはスポーツとしての“勝ち”と“負け”、エンターテインメントとしての“勝ち”と“負け”が同時に存在し、このふたつがからみ合ってひとつの結果が生じる。

ビンスはあるときはブレットを選択し、またあるときはマイケルズを選択しようとした。しかし、マイケルズもブレットも“その場所”にずっと立っていることができるのはふたりのうちひとりだけだということを知っていた。

“レッスルマニア12”のメインイベントとしてラインナップされた“60分アイアンマン・マッチ”では、マイケルズがブレットからフォール勝ちを収めてWWE世界ヘビー級王座を初めて腰に巻いた(1996年3月31日=カリフォルニア州アナハイム)。

チャンピオンベルトを失ったブレットは“休業宣言”をしていったんリングを離れ、翌1997年1月、年俸150万ドルの20年契約という破格の待遇をビンスからもぎとった。

これを不満としたマイケルズは“ヒザの故障”を理由にWWE世界王座を返上し、同年3月の“レッスルマニア13”をボイコットした。

持ち主がいなくなったベルトは王座決定戦に勝ったブレットからサイコ・セッド、セッドからアンダーテイカー、アンダーテイカーからブレットとこまかい移動をくり返した。

そして、運命の“モントリオール事件”(1997年11月9日=カナダ・モントリオール“サバイバー・シリーズ”)が起きた。

マイケルズとビンスのあいだに密約があったかどうかは永遠のミステリーということになるのだろう。

マイケルズが王者ブレットに挑戦したタイトルマッチは、マイケルズがシャープシューターの体勢に入った瞬間、リングサイドに現れたビンスがタイムキーパーにゴングを要請し、試合は唐突に終わった。

結果的にマイケルズはWWE世界王座に返り咲き、ブレットはこの試合を最後に14年間在籍したWWEを退団した。

時代はものすごいスピードで動きはじめていた。やっと主役の座を手に入れたマイケルズを“ストーンコールド”スティーブ・オースチンが追いかけてきた。

ストーンコールドのすぐ後ろにはトリプルHとザ・ロック(ドゥエイン・ジョンソン)が迫ってきていた。ニュー・ミレニアムのキーパーソンたちが顔をそろえはじめていた。

持病の椎間板ヘルニアの悪化でドクター・ストップがかかったマイケルズは、ストーンコールドに敗れWWE世界王座を明け渡した試合を最後にリングから姿を消した(1998年3月29日=マサチューセッツ州ボストン“レッスルマニア14”)。

“モントリオール事件”からわずか4カ月でリング上の景色は一変していた。マイケルズはあっというまにすべてを失った。

“引退”したマイケルズは、親友ケビン・ナッシュから紹介された元WCWナイトロ・ガールズのレベッカ・カーチと結婚。サンアントニオにレスリング道場を開き、ダニエル・ブライアン(ブライアン・ダニエルソン)、スパンキー(ブライアン・ケンドリック)、ポール・ロンドンら新人を育成した。

ホームタウンに帰ったマイケルズは、敬けんなクリスチャンになった。“悪ガキ”は“悪ガキ”のままWWEのリングでスーパースターに成長し、少年時代からの夢だったチャンピオンになってたくさんの観客を喜ばせた。

どんな罪を犯し、なにを悔い改め、いかにして神に救いを求めるようになったかはマイケルズ本人にしかわからない。“ハートブレイイク・キッド(罪つくりなキッド)”と呼ばれた男は、人生の後半戦をベビーフェースとして生きることを望んだのかもしれない。

そして、4年5カ月の“引退期間”をへてリング復帰。かつての後輩トリプルHからフォール勝ちを収めて“フレアー・モデル”の世界ヘビー級王座を獲得(2002年11月17日=ナッソー・コロシアム“サバイバー・ソローズ”)。

その後はスケジュール限定で試合出場を継続し、クリス・ジェリコ、クリス・ベンワー、カート・アングル、ジョン・シーナ、バティースタといったひと世代若いWWEスーパースターとライバル物語を展開。ちょっとだけオトナになったHBKは、カッコよく負けることのできるレスラーとしての道を歩んだ。

“レッスルマニア26”(2010年3月28日=アリゾナ州グレンデール、ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアム)でジ・アンダーテイカーとのシングルマッチに敗れ引退。翌2011年4月、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入りした。

●PROFILEショーン・マイケルズShawn Michaels
1965年7月22日、アリゾナ州フェニックス(空軍基地)出身、テキサス州サンアントニオ育ち。本名マイケル・ショーン・ヒッケンボトム。1984年10月、デビュー。WWE世界タッグ王座通算3回、インターコンチネンタル王座通算4回、WWEヘビー級王座通算4回保持(ロウ版・世界ヘビー級王座=1回を含む)。得意技はスウィート・チン・ミュージック。2010年3月、“レッスルマニア26”でのアンダーテイカーとのシングルマッチを最後に引退。2011年、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。2016年、“WWEパフォーマンス・センター”のコーチに就任。

※文中敬称略
※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦

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