約1000日間山中を歩き、9日間飲まず、食わず、眠らずの修行を成就した僧侶の言葉「できないことは、できないでよろしいのです」

約1000日間山中を歩き、9日間飲まず、食わず、眠らずの修行を成就した僧侶の言葉「できないことは、できないでよろしいのです」

  • 集英社オンライン
  • 更新日:2022/11/25

約1000日間、比叡山の山中などを祈りながら歩き続け、9日間断食・断水・不眠・不臥で不動真言10万回を唱える「堂入り」など、過酷さで知られる千日回峰行。修行中に失敗したら自害しなければならないという荒行を達成した光永圓道さん。『比叡山大阿闍梨 心を掃除する』(小学館)を刊行した光永さんにお話を伺った。

究極の修行「千日回峰行」とは…

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――千日回峰行とはどんな修行なのでしょうか?

光永圓道大行満大阿闍梨(だいぎょうまんだいあじゃり)(以下、略):インターネットなどでは、7年間かけて地球1周に匹敵する約4万キロを歩く荒行と紹介されているそうですね。

――わずか15歳で仏門に入った圓道阿闍梨が、千日回峰行に挑んだのは20代の後半に差しかかってからでした。

28歳から34歳にかけて、行じさせていただきました。

――日本仏教に、こんな途方もない「苦行」があったとは存じ上げませんでした。1年目から3年目までは、約30キロに及ぶ比叡山の山上山下を100日間続けて歩く。4年目と5年目は、200日連続。その後、命をかけた堂入り(後述)を経て、京都市街の神社仏閣、延暦寺別院の赤山禅院まで足を延ばす行程になると、毎日約80キロを、それも草鞋で歩くとは……ちょっと想像を絶します。しかも、歩くのは夜。

真夜中ですね。私の場合、1年目から3年目までは夜中の2時、いわゆる丑三つ時にお寺を出発し、比叡山中に点在する250か所ほどの霊場を巡拝して、朝の8時前後に戻ってくる毎日でした。

――雨の日も、雪が降っても?

はい。

――そもそも、どうして夜に歩くのですか。

千日回峰行は「仕事」ではなく、自ら発心しておこなう行です。私には、お寺の住職として欠かせない日々のおつとめがありますから、仏さまにお経を上げることや境内の掃除をないがしろにして、回峰行だけを行ずるわけにはいきません。ですから回峰行を行ずるのは、日中のおつとめを終えた後です。そうなると、必然的に夜になってしまいます。

9日間の飲まず、食わず、眠らない

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――寝る間もない、まさに「苦行」ですね。

どうでしょう。私自身は、苦行と思ったことはありません。

仏教的な考え方においては、「苦しむこと」を「目的」とした行が、苦行です。あえて苦しみ、その苦しみを通じて悟りを得ようとするわけですが、千日回峰行の本質は「苦しみ」ではなく、「供華(くげ)」(崇敬すべき対象に花を供える)です。

比叡山中に点在する250か所以上の霊場、そして京都市街にある神社仏閣の巡拝を続けた結果として、たまたま距離が長くなってしまった。そう考えて下さい。

なにも苦しむために、草鞋で山中を歩くわけではないのです。

――そうは言っても、「堂入り」は苦行でしょう。人間は、水なしでは4、5日で命を落としてしまうのに、圓道阿闍梨は9日間にもわたって何も食べず、何も飲まず、眠りませんでした。すべてを終えて出堂したときの写真を拝見しましたが、まるで即身仏のような痩身と鋭い眼光で、正直怖いとさえ感じました。

信じてもらえるかは分かりませんが、あのときも決して苦しくはありませんでした。

天台宗では「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」と言い、あらゆるものに仏性を見出します。千日回峰行の本質も然りです。

「個人として光永圓道」が堂入りを「成功させた」のではありません。あらゆるものの支えによって、私は「堂入りをさせていただけた」だけです。

そうした世界への感謝の気持ちが湧き上がって、むしろ清々しい心持ちでした。

性の否定は、必ずしも「正しさ」に繋がるわけではない

――生き仏さまになると「性欲」から解放されるのでしょうか?

(ライター・)山田さんは、「性欲」をどのように定義なさいますか。

――う~ん。自分で質問しておいて、めちゃくちゃ難しいですね。性欲……頭を混乱させるというか。もっと大事なことがあるのに、相手が発するセクシャルな魅力だったり、自分の欲望に抗えずに間違った判断を下してしまったときに、「あぁ、また性欲に流されちまったなあ」とか、思ってしまうのですが。

本質を見抜けずに「誤った判断を下してしまう」という意味では、性欲に限らず、108の煩悩はすべて似たような結果をもたらすのかもしれません。「欲」とは、つまり「執着」でしょう。

山田さんは今、ことさらに「性欲」とおっしゃいます。けれど、性を否定することが、必ずしも「正しさ」に繋がるわけではないと思うのです。執着としての性欲と、ほがらかで誠実な性への向き合い方は、まったく違うものではありませんか。

――圓道阿闍梨は、「性」への眼差しそのものは否定なさらないのですか。

私の大師匠である故・光永澄道阿闍梨は、生涯で2度の得度をなさいました。1度目の得度で「良澄」の名を得た大師匠は女性と交際し、さらにその女性に自ら背を向けたことがあったそうです。その後、再得度して「澄道」となり、千日回峰行を満行なさった大師匠は、かつての振舞いについて喝破しました。「私は仏道のために恋を捨てたのではなかった。ただ覚悟がなく、だらしなかっただけだ」と。

つまり、もし、あのときに覚悟があり、誠実であれば、大師匠は結婚して、社会生活を営んでいたかもしれなかった。それもまた「正しい」ということです。

日本仏教は、恋を否定しておりません。山田さんも執着を捨てて、肚を据え、覚悟を決めたらよろしいのです。そうした性への向き合い方は、決して否定されるようなものではございません。

壮絶な修行の先に見つけた「掃除」の教え

――織田信長による比叡山焼き討ち(1571年)以降、50人目となる千日回峰行の満行者、北嶺大行満大阿闍梨ともあろう方が「掃除」にまつわる本を刊行されたことに驚きました。

もっと小難しい言葉で、深淵な理屈を申し上げればよかったでしょうか。

――いえいえ、本当にやさしい語り口だったので、しっかり伝わったというか。

法話でも心がけていますが、なにより嬉しい言葉です。難しい言葉を使って伝わらない、というのは、昔ながらのやり方を守っていても実際は綺麗になっていない掃除、と同じ始末になってしまいますので。

――思春期の子供とうまく付き合うための「床だけ掃除」や、日々の掃除のルーティンに家族を巻き込む方法など、まったく納得の生活の知恵が満載されているだけでなく、「大きな壷」や「日常の言葉を整える」など、家の内外、自分の内外にあたる心と身体を整えるための「気付きの本」として拝読しました。

では、今日もお掃除をなさってから、ここに?

――帰った後、気力があれば……。

じつは私も、今日はまだ朝のおつとめをしただけです。これから仏間を掃除して、床の間に花を生けようかと。

――なかなか、思うようには生きられないものですね。恥ずかしいかぎりです。

できないことは、できないでよろしいのです。長所をもって、短所をおぎなう。そう考えて、気楽にやっていきましょう。

取材・文/山田傘 写真/打田浩一

比叡山大阿闍梨 心を掃除する

光永圓道

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2022年11月25日

1650円(税込)

単行本 240ページ

ISBN:

‎ 978-4-09-388893-6

地球1周分に相当する約4万キロメートルを7年かけて徒歩で巡礼し、9日間にわたって断食・断水・不眠・不臥で不動明王を念じる千日回峰行は、平安時代から1000年以上続く、命がけの難行苦行の修行。

織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした1571年以降、満行した者はたった51人だけ。荒行を経た大阿闍梨は「不動明王の化身」である生き仏となる。光永圓道大阿闍梨が天台仏教、そして荒行で体得した「良く生きるための気づき」を、掃除という万人共通の生活行動を通して説く、唯一無二の人生哲学書であり、自己啓発書。

やらされるのではなくやる、身の回りを整理することで心を切り替える、まずは美しい所作から身につける、きれいにしてはいけない美しさがある、など心が整い、今日より明日、明日より明後日をよりよく生きるためのヒントに気づかされる一冊。

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