制空権なき戦、勝利望めず 終戦までの体験記す「パプアの亡魂」

制空権なき戦、勝利望めず 終戦までの体験記す「パプアの亡魂」

  • 西日本新聞
  • 更新日:2020/09/16
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ニューギニア地図

ニューギニア戦記を追う<2>

連合軍の反攻に伴い、日本軍はブナ地区やラエ・サラモア地区への増強を行う。これはあくまでポートモレスビー攻略を見据えてのことだったが、現場はもはやそれどころではなかった。輸送船は敵機に襲われ、増強兵力のひとつ第五十一師団は大きな損害を受ける。

その第五十一師団の岡部支隊に属していた飯塚栄地氏の手にかかるのが「パプアの亡魂」である。副題が「東部ニューギニア玉砕秘録」と打たれている。終戦までの体験が書かれているのだが、ラエ・サラモアに関する記述だけでも全体を覆う生々しさは伝わると思う。

岡部支隊の乗った輸送船団は、損害を受けつつも昭和十八年(一九四三)一月にラエへ到着している。しかし三月に師団主力を運んだ輸送船団は一隻残らず沈められている。有名な「ダンピールの悲劇」である。非公式情報でこれを知った飯塚氏は「いったい私たちは今後どうなるんだろう」との思いを抱いている。上陸後に行われたワウ飛行場占領にも岡部支隊は失敗しており、敵の強さと制空権のない戦いの厳しさを将兵は痛感していた。

それでも状況認識はまだ甘かった。少ないながらも米があり、人間らしい姿もしていた。ゆえに遠くブナ地区から落ちのびてきた敗残兵たちを見たとき「異様な日本軍」と飯塚氏は感じている。敗残兵は「不格好に飯盒(はんごう)を腰につけ、体はやせ衰えて一本の棒のようになり、よちよちして普通には歩けない」状態だった。第五十一師団の将兵はその姿を笑い、侮った。「日本兵の面汚しだぞ」と怒鳴りつける下士官もいた。いずれ自分たちがそうなるとは誰も想像していなかった。

戦いはみるみる苦しくなる。昭和十八年五月末、サラモアの南にあるムボ高地に進出したとき飯塚氏は第一線将兵を見て驚く。「異様な顔色」をした兵隊がボロボロの軍服を着ており、その姿は「この世のものとは思えなかった」という。さらには敵兵の肉を食ったとほのめかす兵隊にも接している。そうした尋常ならざる戦いに勝利など望むべくもない。敵の新上陸や空挺(くうてい)部隊の降下で、九月には上陸地のラエにも危機が迫る。

飯塚氏は書類の後送任務を受けて潜水艦でラバウルへ向かう。十二月にはニューギニア本島へ戻るが、一時的に戦線を離れ得たのは幸運だった。ラエの第五十一師団等は険しい山系を越えての撤退に追い込まれたからである。その内容は他書に譲る。

なお、飯塚氏には終戦から帰国までを書いた「タイヤ・ボンボン」という戦記もある。やはり生々しい内容なので合わせて読まれることをお勧めする。

ダンピールの悲劇 「太平洋戦跡紀行 ニューギニア」(光人社)などによると、ニューギニア島西方に進攻する第51師団をラバウルからラエへ送り込もうとした船団が1943年3月3日早朝、戦爆連合約120機に襲われた。船団は護衛の零戦のはるか低空から爆撃され、20分程度で輸送船全7隻などが沈没。約3000人の将兵が戦死し、約2500トンの物資が沈んだとされる。米軍は「ビスマルク海海戦」と呼び戦果を強調。西南太平洋方面連合軍総司令官のマッカーサー大将には米大統領などから祝電が殺到したという。

古処誠二(こどころ・せいじ) 作家。1970年生まれ。福岡県久留米市在住。高校卒業後、自衛隊勤務などを経て、2000年にメフィスト賞を受けデビュー。10年に「わたくし、つまりNobody賞」、17年に「いくさの底」で毎日出版文化賞、翌年日本推理作家協会賞。近著に「ビルマに見た夢」。これまでに3度の直木賞候補。

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