1枚の写真が語るドラマ...のちの大女優が若き零戦搭乗員に託した思い

1枚の写真が語るドラマ...のちの大女優が若き零戦搭乗員に託した思い

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2019/09/23
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一枚の舞台写真がある。

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正面の軍艦旗と、そこに掲げられた勇壮な「撃滅ぶし」という歌詞から、戦時中の写真であることはわかる。舞台の上には、音頭をとる男性をはさんで、右に男性3名、左に女性3名が並んで歌っている。一見、なんの変哲もないステージのワンシーンだ。だがよく見ると、左から3人めの女性の顔にピンとくる人もいるかもしれない。

森光子(1920-2012)——のちに「日本のお母さん」と呼ばれ、テレビを通してお茶の間に親しまれた大女優の若き日の姿なのだ。

この写真は、当時、第二〇二海軍航空隊の零戦搭乗員として蘭印(現・インドネシア)を拠点に連合軍機と戦っていた加藤清(戦後、伊藤より改姓。飛曹長。1921-2012)のアルバムに大切に貼られていた。セレベス島(現・スラウェシ島)ケンダリー基地で催された慰問公演のひとコマである。

「きれいというか、可憐な人でしたよ。戦後テレビで見て、『あっ! あのときの慰問団の!』とすぐにわかりました。私とそんなに年齢は変わらんはずですが、歳をとってもきれいだなあ、と。いま見ても鼻の下が伸びますね」

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加藤清(旧姓・伊藤) 零戦搭乗員。森光子の慰問公演の写真を保管していた(右写真は撮影/神立尚紀・以下同じ)

と、加藤は生前、筆者に語ったものだった。ここでは、この一枚の写真から、戦時下の森光子と零戦搭乗員たちのエピソードを辿ってみたい。

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二〇二空零戦隊の搭乗員たち。右から2人めが加藤清。昭和18年2月撮影

慰問団の中から、小柄な若い女性が駆け寄り…

太平洋戦争もたけなわの、昭和18(1943)年10月7日のことである。

上海在勤の日本海軍武官が、敵の暗号電報を傍受して得た、〈英国東洋艦隊(戦艦四隻、空母一隻)ベンガル湾に向かう〉との情報に、海軍航空隊の蘭印(現・インドネシア)での拠点であったセレベス島ケンダリー基地に緊張が走った。

ただちに、第七五三海軍航空隊(七五三空)の一式陸攻(双発の攻撃機)3機を、第二〇二海軍航空隊(二〇二空)の零戦9機の護衛のもと、ベンガル湾の索敵に発進させることになり、零戦隊は、ケンダリーからベンガル湾により近いバタビア(現・ジャカルタ)基地へ移動を命じられる。20歳になったばかりの零戦搭乗員・吉田勝義一飛曹(のち飛曹長。1923-2018)も、そのなかの一員に加えられていた。吉田は、歳こそ若いが、オーストラリア本土のダーウィン空襲など幾度もの実戦に参加、豪州空軍のイギリス製戦闘機・スピットファイアを撃墜するなど、戦場の場数を踏んできている。

緊迫するケンダリー基地の一角で、零戦隊の発進を見送る民間人の一団がいた。内地から、前線将兵への慰問巡業に来ていた慰問団である。彼らはその前夜、ケンダリー基地に設けられた舞台で、4時間にもわたって歌や踊り、音楽演奏を披露していたのだ。

指揮所前で発進命令を受け、乗機に向おうとする吉田に、見送る人の列のなかから小柄な若い女性が駆け寄ると、飛行服のベルトに小さなマスコットを挿した。

「かわいい人だな」

と吉田は思ったが、出撃まぎわのことでもあり、言葉をかわす余裕もなかった。吉田は女性に黙って敬礼すると、発進準備のととのった零戦に乗り込んだ。離陸して、腰に挿したマスコットを見ると、それは端切れでできた手作りらしい人形だった。

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吉田勝義 零戦搭乗員。出撃直前、森光子にマスコットを渡された

——このとき、吉田にマスコットを渡した女性が、のちに国民的大女優となる森光子である。

「ただ自然に涙がにじんできました」

日本陸海軍はともに、前線で戦う将兵の士気を高めるため、「恤兵」(じゅっぺい)を重視、陸軍省、海軍省それぞれに「恤兵部」を置いていた。「恤兵」とは、現代では耳にすることもなくなった言葉だが、民間から金品を募り、慰問品や映画などの娯楽品、嗜好品を戦地に送ったり、芸能人や文化人による慰問団を派遣して、将兵に楽しみを与え、戦争を側面から支援することを意味する。映画など、一般公開版とは別に恤兵用に編集されたものがあり、内地の映画館ではカットされて見ることのできなかった濃厚なラブシーンなども、戦地では上映されていたという。

海軍省恤兵部が派遣した、森光子が参加する慰問団が、東南アジアを巡業したのは、昭和18(1943)年10月から12月にかけてのこと。慰問団は総勢24名で、そのなかに歌手として森光子が加わっていたのだ。

森光子著『人生はロングラン 私の履歴書』(日本経済新聞社)によれば、このときのメンバーは、歌手・松平晃、林伊佐緒、松竹少女歌劇団の田村淑子、天草みどり、三田照子、浪曲の天中軒月子、太神楽の鏡味小鉄、それにコミックバンドのハットボンボンズといった顔ぶれであった。

慰問団は昭和18(1943)年7月、かつて太平洋航路の豪華客船として活躍、開戦直前、運送船として海軍に徴用されていた「浅間丸」に乗って神戸港を出港、シンガポールで現地部隊の慰問公演を重ねたのち、ボルネオ島バリクパパンから船でセレベス島マカッサルに渡る。ここでオランダ統治時代から営業しているホテルを接収、改称した「富士ホテル」をベースに、ボルネオ島、セレベス島、チモール島、ジャワ島、バリ島など各地の海軍基地を回った。

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東南アジア要図。赤丸印右から左へ、ラングール、ケンダリー、マカッサル、バタビア。慰問団はボルネオ島やバリ島、チモール島クーパンも巡回した

二〇二空の本部が置かれたケンダリー基地には、「Ⅹ空常設劇場」と名づけられた屋外舞台があった。「Ⅹ空」とは、二〇二空の零戦の垂直尾翼に記された部隊記号がⅩであることからつけられた略称である。野外ゆえ数千人の収容が可能で、この年5月には、「酒は涙か溜息か」(高橋掬太郎作曲、古賀政男作曲)、「丘を越えて」(島田芳文作詞、古賀政男作曲)などの大ヒットですでに一流の人気歌手だった藤山一郎(1911-1993)もここで歌ったことがあり、前線基地としては由緒ある舞台であった。

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昭和18年5月、ケンダリー基地を慰問に訪れた藤山一郎一行と二〇二空の士官たち。2列め左より飛行隊長・鈴木實少佐、司令・岡村基春中佐、藤山一郎。前列右から2人め、分隊長・山口定夫大尉

森光子らの慰問団が、ケンダリーの「Ⅹ空常設劇場」で最初に公演を行ったのは、10月6日のことである。吉田勝義一飛曹はこの日、派遣されていたオーストラリア本土に近いケイ諸島のラングール基地からケンダリー基地に移動を命じられ、1000キロを超える飛行ののち、ケンダリーに帰ってきたばかりだった。

隊員の多くは、出演者一人一人の名前を知らない。ましてや当時無名に近い森光子を知る者などほとんどいなかった。だが、白い襟のついた紺のワンピースを着た森光子が、「愛国の花」(福田正夫作詞、古関裕而作曲)、「タイの娘」(菊池一夫作詞、林伊佐緒作曲)「ブンガワンソロ」(インドネシア歌曲、グサン・マルトハルトノ作曲)を熱唱すると、殺伐とした前線基地の、そこだけに花が咲いたような美しさであったという。一曲が終わるたび、やんやの大喝采が起こった。

続いて、森が、高峰三枝子のヒット曲「湖畔の宿」(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)を歌いだすと、観衆はみなシーンと静まり返った。しみじみと聴き惚れ、なかには涙を浮かべている者さえもいる。内地では、感傷的すぎて戦時下にふさわしくないと、歌うことを自粛させられた「湖畔の宿」だが、前線の将兵は、軍歌のような勇壮な歌よりもむしろ、こんな郷愁を誘うセンチメンタルな歌のほうを好んだ。最後は慰問団全員で手拍子をとっての「撃滅ぶし」(作者不詳)で締める。

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公演写真の森光子の部分を拡大

吉田一飛曹は、長距離の移動飛行の疲れが出て、慰問公演が終わるのもそこそこに搭乗員室に戻って眠りについた。

〈英国東洋艦隊(戦艦四隻、空母一隻)ベンガル湾に向かう〉との急報に出撃命令が発せられ、森光子が発進直前の吉田にマスコットを渡したのはその翌日のことである。

森光子は、戦後、このときのことを、

「どんな作戦かも、どこへ出撃するのかもわかりません。ただ、彼らはお国のために死ぬのだと聞かされていました。ニュース映画のように手を振ることもなく、深くお辞儀をしてお見送りしました。胸がつぶれる思いで、泣くというのでもなく、ただ涙が自然ににじんできました」

と回想している。

慰問公演を楽しんだ隊員の大半は戦死

慰問団は、さらに各地の巡業を重ね、11月22日、ふたたびケンダリーに戻って、「Ⅹ空常設劇場」で公演を行った。二〇二空飛行隊長・鈴木實少佐(のち中佐。1910-2001)の回想――。

「片やニューギニアで米軍機と戦い、一方ではベンガル湾に英国艦隊が出没し、オーストラリア本土から飛来するB-24爆撃機による味方基地への空襲も激しくなって、戦況が急に悪化してきたのが肌で感じられました。昭和18(1943)年11月中旬には、南西方面艦隊司令長官・高須四郎大将より、インド東部のイギリス軍拠点だったカルカッタを、陸軍航空部隊と合同して空襲せよとの命令がくだりました。『龍一号』作戦です。海軍からは二〇二空零戦隊、七五三空陸攻隊が全力で参加することになりました」

11月22日、東南アジアやニューギニアの各基地に分散配備していた零戦隊をケンダリーに呼び戻し、カルカッタ空襲の準備が始まる。慰問団の公演が行われたのは、ちょうどこの日のことだった。再び鈴木少佐の話。

「その慰問団に女優の森光子がいたんです。指揮所前で、慰問団と二〇二空幹部で集合写真を撮ったんですが、ぼくは、役得を生かして森光子を隣の椅子に座らせた。森光子は『18歳です』と、自己紹介しました。いま思えば、じっさいには23歳だったようですが……。指揮所に掲げられた木の看板は、通常、司令・岡村基春中佐の名をとって『海軍岡村部隊指揮所』、司令が内田定五郎中佐に交代した後は『海軍内田部隊指揮所』と記されていますが、機密保持のため、記念撮影のときには裏返して『海軍戦闘機隊指揮所』と書かれた面を写すことになっていました」

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上写真・二〇二空士官の集合写真。指揮所の看板は司令の名をとって「海軍岡村部隊指揮所」となっている。下写真は、森光子らの慰問団と二〇二空士官の集合写真。上写真と同じ場所での撮影だが、民間人と撮るときは機密保持のため看板を裏返し、「海軍戦闘機隊指揮所」と書かれた面を表に出した

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集合写真より拡大。左から2人め森光子、3人め(ヘルメット姿)鈴木實少佐

このとき、森光子に一目惚れしたのが、零戦隊分隊長として着任して間もない梅村武士大尉である。梅村大尉は、

「森光子のブロマイド写真が欲しかったが、全部配ってしまってもうないと言われ、がっかりした」

と、手記に書き残している。

慰問公演の翌11月23日、カルカッタ攻撃に向け、鈴木少佐の率いる二〇二空零戦隊の全機がケンダリー基地を発進した。

この出撃は、特別に秘密を要求された。というのは、東南アジア全域から零戦が1機もいなくなったことを敵に悟られては一大事だからである。二〇二空の搭乗員は、ふだん半袖半ズボンの白い防暑服の上に飛行服を着ているが、このときは中継地で外出しても戦闘機隊だと悟られないよう、全員が草色の第三種軍装の上に飛行服を着用することを指定された。

零戦隊は、途中立ち寄ったバタビアで2泊、25日にシンガポールのテンガ飛行場に着陸し、そこで陸軍部隊との打ち合わせを行なった。ところが、ここまで来て、「龍一号」作戦はいったん中止される。11月21日、中部太平洋ギルバート諸島のマキン、タラワに米軍が上陸、数日後には両島ともに占領され、太平洋の戦況に緊迫の度が増したためであった。七五三空の陸攻の大部分が太平洋にまわされることになり、インドの英軍拠点を攻撃するどころではなくなったのである。二〇二空零戦隊も、ふたたびバタビア経由でケンダリーに帰された。

カルカッタ攻撃は12月に入って再開が決まり、12月5日、別の部隊によって実施されたが、この攻撃は一度きりの単発で終わる。

マキン、タラワを手中におさめた米軍は、太平洋で一大攻勢に転じてきた。そのため、二〇二空零戦隊は中部太平洋の要衝・トラック島に移動、連日のように押し寄せる米軍の大型爆撃機と戦った。続いてニューギニア北西部のビアク島に侵攻してきた米上陸部隊を迎え撃ち、さらにペリリュー島、ヤップ島、グアム島と転戦した末に壊滅状態に陥り、昭和19(1944)年7月、フィリピン・ミンダナオ島のダバオ基地まで引き揚げたところで解隊される。「Ⅹ空常設劇場」で慰問公演を楽しんだ隊員の大半が、その間に戦死した。

戦況の悪化にともなって慰問団も前線を離れ、シンガポールで昭和19(1944)年の正月を迎えた。森光子はこのとき、基地の施設で、日本軍が占領したとき接収したディズニー映画の「ダンボ」、「ファンタジア」、そしてハリウッド映画の「風と共に去りぬ」を見て、カラー映画の映像美に圧倒されたという。森はこのとき受けた衝撃について、

〈『こんなに心を打つすばらしいものを作っている国と戦っているなんて、これじゃあ戦争に負けるわね』と言い合ったものでした。〉

〈戦争は敵への憎悪をかりたて、鬼にさえ見たてました。でも鬼がディズニーのような素敵な映画をつくれるはずもない。〉

と、『人生はロングラン』のなかで回想している。

ともに歌った「同期の桜」と「若鷲の歌」

そして昭和20(1945)年8月15日、日本の降伏によって戦争が終わった。生き残った者たちは、焦土となった日本で、それぞれに新たな人生を歩み始める。森光子にマスコットをもらった吉田勝義は、終戦のその日まで本土上空に来襲する敵機と戦い、復員後は故郷・兵庫県城崎郡香住町(現・美方郡香美町)で漁網会社に勤めた。自衛隊発足時にはパイロットとして再三の勧誘を受けたが、

「飛行機に乗るのはもういい」

と、断り続けている。その後、会社の移転にともない鳥取県に転居し、自らの戦争体験をほとんど語ることなく戦後を送った。

二〇二空飛行隊長だった鈴木實は、トラック運転手を経て、伝手を頼ってキングレコードに就職し、営業本部長、洋楽本部長、常務取締役を歴任。春日八郎の「お富さん」をヒットさせ、大月みやこを見出し、さらにカーペンターズやローリング・ストーンズといった海外アーティストを日本に紹介、いずれも大ヒットさせている。

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二〇二空飛行隊長だった鈴木實。戦後はキングレコード常務取締役となり、芸能界に幅広い人脈をもっていた

昭和52(1977)年、鈴木のもとへ、NHKからある企画がもたらされた。8月13日に放送する「第9回思い出のメロディー」で、司会を務める森光子が、戦地で慰問した将兵と再会するサプライズを演出したいというのである。鈴木は快諾し、連絡先のわかる元隊員たちに声をかけた。分隊長だった塩水流(しおずる)俊夫大尉をはじめ、普川秀夫、八木隆次、増山正男、長谷川信市、大久保理蔵、そして吉田勝義という、かつての歴戦のパイロットたちが、生放送の当日、東京・渋谷のNHKホールに参集した。

「はじめ、舞台に上がるだけでいいという話だったのが、せっかくだから森光子と一緒に当時の歌を歌ってくれ、ということになって、楽屋裏で藤山一郎さんが歌唱指導をしてくれました。こっちは勝手がわからんもんで、言われるがままに。藤山さんがあれこれと気を遣って世話をしてくださったんで、助かりましたよ」

と、吉田は振り返る。本番が始まり、ステージに上がった鈴木隊長以下、二〇二空の8名の元零戦搭乗員は、34年ぶりに森光子と涙の再会を果たし、「同期の桜」(西条八十原詞、大村能章作曲)、「若鷲の歌」(西条八十作詞、古関裕而作曲)をともに熱唱した。

それからさらに22年の歳月が過ぎ、平成21(2009)年5月9日、森光子が主演する舞台「放浪記」が、2000回の節目を迎えた。いくつかのテレビ局が特集番組を組むなかで、フジテレビの関東ローカル番組「チャンネルα 今夜放送!森光子密着 笑いと涙の放浪記裏側」(5月15日、14時7分より放送)が、森光子の戦地慰問と、「第9回思い出のメロディー」で二〇二空の隊員たちと再会したことについて触れている。森光子と再会した8名のうち、7名がこのときまでに鬼籍に入り、唯一健在だった吉田勝義がテレビカメラの前でインタビューを受けた。

最後まで女優として燃焼し尽くした森光子は、平成24(2012)年11月10日に亡くなり、吉田勝義も平成30(2018)年9月13日に世を去って、令和になったいま、「Ⅹ空常設劇場」の慰問公演を見た隊員は、もう一人も残っていないと思われる。ときの流れは非情で、ある意味、戦争よりも確実に人の命を奪う。

だが、当事者がいなくなっても、一枚の写真は、見方によってはさまざまなことを私たちに伝えてくれる。家庭のアルバムに何気なく貼られている写真も、後世、もしかすると貴重な時代の証言者として日の目を見ることがあるかもしれない。

(文中敬称略)

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