かくて『シン・ゴジラ』は「国民映画」となりき

かくて『シン・ゴジラ』は「国民映画」となりき

  • 文春オンライン
  • 更新日:2017/11/12

『シン・ゴジラ』が大ヒットした。総監督は『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)の庵野秀明。観客動員数は400万人を突破し、興行収入は70億円を超えたという。客層の幅広さ、反響の大きさからして充分「国民映画」の域に達したと言ってよい。

成功の理由は何か。日本伝統の得意技を使ったからだろう。世界を重ねて、その世界に思い当たる観客を喜ばすやり方だ。歌舞伎や文楽の常套手段。『仮名手本忠臣蔵』なら『太平記』の世界と赤穂浪士の世界を、『東海道四谷怪談』なら忠臣蔵の世界にお岩さんの怪談話を重ねる。そうやって世界の重ね方を楽しむ。分かる観客は勝手に考え面白がる。想念を暴走させ、深読みもしてくれる。

第1作を巧みに本歌取り

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『シン・ゴジラ』は具体的にどんな世界を重ねているか。まず土台を成す世界は1954年の本多猪四郎監督作品『ゴジラ』。「ゴジラ映画」の第1作にして傑作中の傑作。そこでゴジラは、伊豆諸島の架空の島、大戸島に初めて現れる。島に伝わる海の祟り神、ゴジラの物語に基づき、そのまま命名される。島への上陸時に全身が放射能で汚染されているとも分かる。自衛隊(映画では防衛隊と呼称)の攻撃をものともせず、東京湾に侵入。品川区あたりに上陸し、ひと暴れし、いったん海に戻る。政府はゴジラ撃退を自衛隊よりも電力会社に期待し、東京電力と思しき企業が東京湾沿岸に電線を張り巡らして高圧電流で感電死させようとする。再上陸したゴジラは予定通り感電。関係者は一瞬「やった!」と思う。ところが死なない。逃げさえしない。激怒する。口から高濃度の放射性物質を含んだ高熱のガスを吐き始める。このとき人々はゴジラのとてつもなさを初めて思い知る。未知の怪物だから、映画の中の人々はゴジラが口から放射能を出せるなんて誰も知らない。破壊力が想定外。東京を燃やし壊して都民は被曝。ゴジラが「水爆大怪獣」と呼称された所以である。

作品の背景には1954年の現実がある。広島と長崎から9年後。同年春に米国が太平洋のビキニ環礁で水爆実験を成功させ、日本のマグロ漁船、第五福竜丸が巻き添えを食って被爆。通信士の久保山愛吉が死亡した。『ゴジラ』はその直後の公開。映画の中では国名こそ名指しされないが、ゴジラは明らかに米国の水爆の犠牲者だ。それが米国でなくて日本を攻撃してくる。日米安全保障条約のせいで日本が米国の行う核戦争の巻き添えになるという議論は当時から喧しかった。そういう含みがあるとも取れる。

とにかくゴジラは霞ヶ関や永田町を破壊し、官僚も警察も自衛隊も争って退却。焦土と化した東京は3度目のゴジラ上陸に脅える。そこに現れるのは、オキシジェン・デストロイヤーなる最終兵器を極秘に開発していた、平田昭彦演じる在野の科学者、芹沢博士。日本は国の存亡を、番外の異端者に懸けるしかない。ゴジラは疲れたのか、東京湾底でじっとしている。芹沢博士の「最終作戦」が発動する。

『シン・ゴジラ』のゴジラはどうか。大戸島のくだりを飛び越え、いきなり東京湾内に出現する。しかし、架空の島、大戸島は『シン・ゴジラ』の世界にも存在し、ゴジラの言い伝えもある。そのうえ『シン・ゴジラ』は、第1作で用いられた「ドシン! ドシン!」と地鳴りのするようなゴジラの足音も使う。また、『シン・ゴジラ』の音楽担当は、庵野秀明と『エヴァ』以来のコンビの鷺巣詩郎で、彼がオリジナル楽曲をたくさん作っているのだが、それだけでなく、第1作以来おなじみの伊福部昭の音楽を随所で引用する。そのようにして『ゴジラ』と『シン・ゴジラ』の世界が重なる。

『シン・ゴジラ』は『ゴジラ』と、怪獣の1度目の上陸が東京23区の南西部に限定され、2度目で都心まで入ってくるところも同じ。2度目に大きなカタストロフが待ち構えているのまで同じ。『シン・ゴジラ』で第1作の東京電力の役割を果たすのは米軍だ。自衛隊はゴジラの前に敗れる。頼りは日米安保。米軍機が霞ヶ関界隈に向かってくるゴジラに破壊力満点の地下貫通弾を命中させる。ゴジラは傷つき血を流す。倒れるか。そうではない。ついに激怒する。

そもそも『シン・ゴジラ』でもゴジラの存在は米国と関わりがある。詳しくは説明されないが、米国の関知する海底に投棄された「核のゴミ」を食べた恐竜の生き残りが突然変異してゴジラになったようだ。しかも米国はゴジラの存在を把握しながら、同盟国の日本には伏せていた設定。第1作よりも米国の関与が深いゴジラとも言える。そのゴジラが東京で米軍の攻撃を受け、怒り狂う。第1作が伏せ気味にしていた「反米」の主題がかなり赤裸々になる。かくして想定外の「放射能大まき散らしの場」になる。

しかもそのカタストロフの映像表現が物凄い。放射能の吐きざまは宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』における巨神兵が口から「ブホーッ!」とエネルギーを放射する場面を彷彿とさせる。おまけに背びれからは光線を出し、米軍機を片っ端から撃墜。夜の闇を切り裂く猛烈な光と熱の放出が持続し高潮する場面は「世界破滅の幻影」を表現して余すところがない。ゴジラは「破壊神」とも呼ばれ「GODZILLA」と綴られる。「GOD」が入るのがミソだけれど、そんな怪獣の破壊性をここまで表現した「ゴジラ映画」は第1作を別格にすれば他になかった。特撮監督、樋口真嗣の手柄。それから鷺巣詩郎の音楽も。ゴジラが都心を前進する場面には、キリスト教世界において神の怒りと人間の滅亡のイメージを一身に担ってきたグレゴリオ聖歌『怒りの日』につながる曲が付く。お次の放射能噴出場面に付けられた音楽は深い淵にひたすら沈む哀歌。映像と音楽の相乗作用で、世の終わりの表現はもう完璧。これぞ「終末映画」の真打ち。たたきのめされた。

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©文藝春秋

とはいえ『シン・ゴジラ』はそこで終わらない。筋書きの上では、その段階で壊滅的放射能汚染を被ったのは都心の3区のみとされる。世界滅亡にはほど遠い。ゴジラはというとエネルギーを使い果たして眠ってしまう。第1作なら海に帰って休むのだが、『シン・ゴジラ』では東京駅前で固まる。次に動き出すまでに何とかせねばならない。しかし通常兵器では歯が立たない。米国は東京を巻き添えにしてのゴジラに対する核攻撃を実施しようとする。国家滅亡の危機。でも「ゴジラの怒り」によって首相以下主要閣僚も死亡。日本の正規の国家機構はもはや充分には作動していない。そこで『ゴジラ』の芹沢博士に相当する者が表舞台に出てくる。ただし個人ではない。集団だ。長谷川博己扮する代議士が各官庁から異端的テクノクラートを集めたチーム「巨災対」。ゴジラ退治の新兵器開発に励む。「巨災対」は音楽的には『エヴァ』と結びつけられる。1990年代を代表するそのテレビアニメでは、未来の日本の箱根に建設された第3新東京市が「使徒」と呼ばれる謎の生物に襲撃され、通常戦力ではその撃退は難しく、NERVという秘密機関が突如公然と登場して対処に当たる。このNERVのテーマとして鷺巣詩郎の作曲した特徴的な連打音に導入される音楽が『シン・ゴジラ』の「巨災対」のテーマに引用される。こうして『シン・ゴジラ』は『エヴァ』ともつながる。『エヴァ』のファンには、「巨災対」がNERVに、ゴジラが「使徒」にも見えるだろう。そういえば「使徒」はエネルギー切れでとまってしまうことがあるが、それがまたゴジラと重なる。『エヴァ』は人類の新人類・超人類への進化を物語上の主題としていると思うが、『シン・ゴジラ』のゴジラも変態を繰り返し、それは「進化」と呼称される。そうして『ゴジラ』だか『シン・ゴジラ』だか『エヴァ』だか判然としなくなってくるほどに錯綜した映画は、「巨災対」による東京駅前でのイチかバチかの「最終作戦」に向かう。

『シン・ゴジラ』を論じるためには他にも触れるべき世界が多い。早口主体の演出は市川崑監督の映画であり、膨大な登場人物を動かして私的・家庭的部分などには脇目もふらず突き進むのは岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』や『激動の昭和史 沖縄決戦』であり、怪獣映画に日米安保をからめるのは1961年の『モスラ』や1984年の『ゴジラ』であり、カタストロフの描き方には新旧両方の『日本沈没』の影がある、等々。

後半は夢のよう

しかし、これだけ世界を重ねても『シン・ゴジラ』はまだ「国民映画」になれない。映画やアニメのコアなファンとマニアの世界にとどまる。そこを超えて行けたのは、この映画が、映画やアニメの虚構とは別の現実の世界をも重ねていたからである。日本国民が2011年に体験した国家存亡の危機と恐怖。東日本大震災および原発事故だ。地響きをたて、波を盛り上げてやってくるゴジラは、地震であり津波である。放射能をまきちらすゴジラは壊れた原子炉である。首相は決断できず、官僚はタテ割りにこだわって混乱を助長し、専門家の予測は外れっぱなしで「想定外」の事態が続出する。「3・11」の世界を思い出せれば、『シン・ゴジラ』はそれだけで迫真的映画なのだ。第1作も『エヴァ』も知らずともよい。第1作が1954年の現実とつながっていたからこそ大ヒットしたように、『シン・ゴジラ』は2011年と重なることで「国民映画」になれたのだろう。

しかも『シン・ゴジラ』を「原発事故映画」として観た場合、大団円を導く「最終作戦(ヤシオリ作戦)」のくだりはとても示唆的。東京駅前に壊れた原発のように放射能を垂れ流しながら眠るゴジラ。そこに決死隊が近づき、ゴジラの体内に液剤を大量投入。凍結させる。活躍するのはミキサー車やクレーン車。そのさまはどう観ても「石棺」や「水棺」や「凍土壁」を作って原発事故を収束させる作業と重なる。決死隊の姿は福島第一原発の爆発直前にベントを成功させようとした作業員たちを彷彿とさせる。活劇調の華々しいスペクタクルで、ゴジラは本当に凍りつき、東京駅前で巨大神像と化す。前半の締めのあまりに絶望的なカタストロフと好一対をなす、この楽天的名場面。それを伴奏する音楽は、やはり伊福部昭、といっても、前半のシリアスな展開を支えた重厚な類の曲ではない。1959年の『宇宙大戦争』のための熱狂的なマーチである。『宇宙大戦争』は荒唐無稽なスペース・オペラ。地球軍とナタール星人が宇宙空間で大決戦。地球軍大勝利! 圧倒的快感に満たされて終わる。娯楽巨編の絵空事を本当らしく感じるための痛快なノリノリの音楽。ファンは聴けばただちにそのようなモードに入り、躁状態になる。

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福島第1原発原子力建屋への放水作業 写真提供:東京電力

これはつまり一種の夢の場面ではないか。前半のカタストロフは2011年の本当の日本。そこでは原子炉が3基も爆発した。風向き次第では真に破滅的だった。収束作業も困難を極める。その大破局を「ゴジラ映画」らしくすれば前半の締めになる。ゴジラが『風の谷のナウシカ』で世界を滅ぼした巨神兵のようになる。後半はその「滅亡後の物語」。前半はすべてがうまく行かなかったのに、後半はすべてがうまく行く。しかも前半の手に汗握るリアルさを喪失している。脚本も演出も前半の微に入り細を穿ったドキュメンタリズムをかなぐりすて、テレビの「戦隊物」のような調子を帯びる。「そんな馬鹿な!」という場面の連続。でも音楽に助けられつつ活劇のノリで押し切る。米国も一部の理解者が協力してくれる。前半の破滅の呼び水となった米軍は「ヤシオリ作戦」では日本の立派な「トモダチ」だ。「反米」転じて「親米」。ゴジラという「壊れた原発」は見事無害化され、日本は復興と再生へ。米国ともなお仲良くやれる。ハッピーエンド。でも、それはあくまでマンガ的にしか描かれない。そこに含蓄がある。

東宝による『シン・ゴジラ』の宣伝文句は「現実対虚構」。だが私には前半が現実で、後半が虚構に思えた。前半は2011年的現実の「ゴジラ的翻訳」。後半が2011年的悔恨のユートピア的代償。「いい夢」で束の間でも現実を忘れたいということだ。

『シン・ゴジラ』に続編があるとすれば、後半は夢と気づくところから始まる手もあると思う。「巨災対」のリーダー、長谷川博己が東京崩壊の中で気絶して一瞬に観た長い夢。夢が覚めた先には『日本沈没』か『ノストラダムスの大予言』級の苦難が待ち受けているに違いない。

(片山 杜秀)

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