最初の“東京五輪”は遠足だった? ~幻のオリンピック前史(前編)

最初の“東京五輪”は遠足だった? ~幻のオリンピック前史(前編)

  • THE PAGE
  • 更新日:2017/11/19
No image

[画像]1912年ストックホルム大会に臨む日本初の選手団

東京五輪・パラリンピックまで残すところ1000日を切った。さまざまなメディアがオリンピックに関する歴史や展望を書き連ねている。しかし日本でオリンピックが開かれるようになるまでにどのような試行錯誤が行われたのか、ほとんど知られていない。特筆すべきは、1940年の「幻の東京五輪」に先立って予行演習的なスポーツ大会が実施されていたことだ。歴史の闇に消えた「東京オリンピック前史」を3回連載で掘り起こしてみたい。

●きっかけは娯楽雑誌の“オフ会”

No image

[画像]アジア人初のIOC委員に就任した嘉納治五郎

近代オリンピックの到来を告げた第1回アテネ大会の開催は1896(明治29)年である。日本が最初の選手団を派遣したストックホルム大会が1912(明治45)年。これに先だって1909(明治42)年に「柔道の父」と呼ばれ教育者でもあった嘉納治五郎(かのう・じごろう)が、アジア人として初めて国際オリンピック委員会(IOC) 委員に就任している。一般に日本におけるオリンピックの歴史はこの1909年から始まるものと考えられている。

ヨーロッパから10年ほど遅れてはいるものの、黎明期からオリンピックを受け入れてきたわけだ。明治元年からわずか41年、散髪脱刀令から38年しか経過していない。驚異的なスピードと言ってよいだろう。

しかしオリンピックが東京で開催されるまでの過程は決して一本道ではなかった。オリンピックをめぐり、いくつかの勢力が同時多発的な動きをみせていたのだ。現在のオリンピックには直接結びつかず、歴史の闇に消えてしまった出来事もある。

嘉納のIOC委員就任当時、日本人のオリンピック理解がどの位だったかと言えば、古代ギリシャ史の文献を通じて古代オリンピックの概要を知っている程度に過ぎなかった。近代オリンピックへの参戦など思いつきもしなかっただろう。海外で生のスポーツを観戦することさえ想像できなかったはずだ。というのも、海外渡航は文字通りエリートだけに許された特権で、莫大な資金が必要だったからだ。「留学すれば家一軒建つ」と言われた時代である。

No image

[画像]「少年冒険小説の開拓者」と言われる押川春浪

そんな時代にあって、「東京でオリンピックの予行演習をしよう」などという大それたことを考えた男がいた。旗振り役は「少年冒険小説の開拓者」と言われる押川春浪(おしかわ・しゅんろう、1876~1914年)である。

野球をはじめ大のスポーツ好きで知られていた押川春浪は、雑誌『冒険世界』の主筆を務めていた。この『冒険世界』は今日では「軍国主義的な侵略イデオローグの少年誌」と切り捨てられることが少なくない。しかし同誌は近代オリンピックの様相をはじめて日本語で報道した雑誌でもあった。

具体的には1908(明治41)年9月5日発売号(第1巻9号)と翌月号(第1巻10号)において、橋戸頑鉄という記者がロンドン・オリンピックをレポートしている。こうしたことから、押川はオリンピックに関して、一般人よりも関心も情報も持ち合わせていたと考えられる。

No image

[画像]『冒険世界』誌面。原本ではなく、研究者の手元にあったコピー。右ページに「天幕冒険大運動会」の記録写真が見える

押川がオリンピックに関心を持った背景には、スポーツとは無関係な側面もあった。それはメディアとしての『冒険世界』と読者の関わり方である。

押川の代表作で同誌に連載された『武侠六部作』は、勇壮な正義の主人公たちを「壮快な武侠」として描き出すことに特徴がある。現在の娯楽漫画などと異なり、押川の作品には主人公と敵が戦いの後に理解し合い、友となるという筋立てはない。敵は威張ってこそいるが弱い臆病者であり、不意打ちなどの卑怯な手段を使う下劣な存在である。

一方「友」となる相手ははじめから決まっている。彼らは「武侠」であり、一目見るなり「肝膽相照らす」仲となる。豪傑は豪傑を知る。豪傑を見いだした者もまた豪傑である。そして登場人物の中に隠れた豪傑性を見いだす読者もまた豪傑なのだ。こうして小説と現実世界の壁は融解して地続きとなり、読者もまた豪傑の一員に加えられるのである。

押川の一連の作品がこのような構造を持っている以上、豪傑の一員たる読者たちがつながり合おうとするのは当然の成り行きだった。『冒険世界』の読者欄「読者気焔欄」には、雑誌の感想と並んで読者がお互いに呼びかけ合い、文通し、さながら読者共同体を作り出そうとするかのような動きがあった(明治期に見知らぬ同士が「つながり」を実現するメディアは、雑誌の投稿欄だけだった)。

こうして今で言う「オフ会」が行われたのだろう。

前述の通り、主催者である押川は大のスポーツ好きだった。そして日本では馴染みの薄いオリンピックの存在も把握していた。つねづね「面白いことをしたい」と考えていた押川が、「東洋オリンピック」の予行演習を敢行しようと考えたのは自然な流れだった。

●日本的なオリンピズム解釈「天幕旅行大運動会」

『冒険世界』1908(明治41)年7月5日発売号(第1巻7号) にこんな募集記事が掲載されている。

「破天荒の快挙!空前の壮遊!七月二十五日日比谷公園出発下総鴻の台方面に向かう、その夜野営を張って大いに愉快に騒ぎ、翌日野武士的大運動会を催す、快活男子は来たれ来たれ!」(編注:新字現代かなづかいに改めています)

このイベントは「天幕(テント)旅行大運動会」と銘打たれている。5ページにわたる檄文調の参加者募集の中には、次のような一説もみられた。

「冒険世界は現代文弱の悪風に反抗し、他日東洋オリンピヤ大競技会を開きたいと思っているほどで、今回のはその瀬踏みとも言うべきものだが」(編注:新字現代かなづかいに改めています)

大胆にも押川はこの企画を「東洋オリンピックの『瀬踏み(つまりトライアル)』」と位置づけていたのだ。大言壮語しても娯楽雑誌のメディアイベントにすぎないわけで、国やIOCが関与していたわけではない。それ以前の問題として、まだ日本にはIOCの委員さえいない時代である(嘉納のIOC委員就任は翌年)。逆に言えば、西洋の影響がない、「純粋に日本的なオリンピズムの解釈」が見られた興味深いイベントでもあった。

No image

[画像]会場となった国府台(千葉県市川市)の総寧寺周辺の空中写真。ここに学生を主体とした『冒険世界』の読者が集まった。当日の気温は摂氏32度(上は1922年撮影、gooマップから作成。下は現在、Googleマップから作成)

イベントは2日間で、初日は日比谷公園から千葉の鴻之台(現在の市川市国府台)までの「遠足」。国府台は滝沢馬琴の 『南総里見八犬伝』 の舞台となった場所で、小田原の北条氏と房総の里見氏が争った第一次、第二次国府台合戦の戦場跡でもある。江戸から外れた場所にもかかわらず、江戸名所図会や江戸名所百景に描かれる江戸名所だった。『冒険世界』主催のイベントとして、うってつけの場所といえた。

途中、4班に分かれて中川を渡し船で通過。目的地の鴻之台はなぜか「南洋」に見立てられていたと言われ、現地で野営しながら共に大食し、琵琶、詩吟、剣舞、講談などの「芸術プログラム」が行われた。

一同はそのままテント(天幕)で1泊。翌日競技を行った。参加者(ほとんど雑誌の読者)はまさに冒険した気分だったという。

四つの新聞社(萬朝報、やまと新聞、東京朝日新聞、時事新報)が同行取材していたものの、記録がないため当時の世評は不明である。また、例え記録が残されていたとしても、信頼性は疑わしいだろう。というのも、記者たちは押川が主催するスポーツ社交団体「天狗倶楽部」のメンバーだったからだ。正確には朝日と時事の記者はメンバーでなかった可能性もあるのだが、日頃からいっしょに酒を飲んだりするなど友人関係にあったと考えられている。つまり客観的な報道が期待出来ない状況だった。かなり内輪で盛り上がった大会だったといえよう。

募集人数300人のところ、応募者は200人。前日の天気が思わしくなかったせいか、当日の参加者は120名に留まった。おまけにテントの野営では参加者が例外なく蚊の大群に襲われて満足に眠ることが出来ず、翌日は疲れ果てて競技にならなかったという。しかし押川は強い手応えを感じ、成功を確信したと言われる。

●徒競走が中心、芸術プログラムも

No image

[画像](左上)銀座・博文館前で大八車を曳いた兵站部が合流。軽快なマーチと共に移動した(右上)鴻之台での野営の様子。この当時から万国旗が使用されていたことが分かる(右下)当日の障害物競走の様子(左下)参加者は渡し船に分乗して中川を越えた《『冒険世界』第1巻8号=1908(明治41)年8月5日号より》

肝心の競技内容だが、プログラムの半分以上が徒競走で、ほかに二人三脚や宝探し競争、高飛び、幅飛び、相撲などが行われた。駆けっこ中心ということもあって、とてもオリンピックの予行演習といえるレベルではなかった。入賞者の名前は記録されているものの、競技に参加した選手の総数が書き残されておらず、現在の基準からすると運営もお粗末だった。

他方、興味深いのは、前述の通り「芸術プログラム」が織り込まれていたことだろう。古代オリンピックが運動競技と文芸の二本立てで行われていたという歴史を忠実に模したものと思われる。さらにメダルや表彰台はなかったものの、入賞者には金銀銅牌および賞典が与えられた。

開会式や閉会式もなかったようだが、皇居に向かい楽隊の伴奏で君が代を斉唱した後、当時有名だった「吉岡将軍(※)」による万歳三唱で会を閉めているのが非常に日本的である。

(※早稲田大学応援団初代団長・吉岡信敬(1885年~1940年)のあだ名。押川が主催したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」のメンバー。「虎鬚彌次将軍」の通称で知られ、当時は乃木希典、葦原金次郎と並んで「三大将軍」と呼ばれるほどの人気者だった。バンカラの代名詞として、一学生でありながら東京のみならず日本全国の学生に名を知られる存在だった)

-----------------------------------
■檀原照和(だんばら・てるかず) ノンフィクション作家。法政大学法学部政治学科卒業。近現代の裏面史などを追う。著作として単著に『ヴードゥー大全』(夏目書房)、『消えた横浜娼婦たち』。共著に『太平洋戦争―封印された闇の史実』(ミリオン出版)

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

海外サッカーカテゴリの人気記事

グノシーで話題の記事を読もう!
日馬富士だけじゃない! スポーツ選手の“酒で大失態”伝説
アマチュアスポーツのチーム管理アプリ「TeamHub」が1億円調達、11月から野球にも対応
中国のサッカー記者が日本人審判を絶賛!「われわれは感謝すべき」―中国メディア
性的虐待まん延の米体操界、新たに五輪金メダリストが被害告白
レスリング吉田沙保里の恩師がひた隠す東京五輪新星の重大事故
  • このエントリーをはてなブックマークに追加