「生み出す人がいちばん偉い」ぴあフィルムフェスティバルが今年で40回目

「生み出す人がいちばん偉い」ぴあフィルムフェスティバルが今年で40回目

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  • 更新日:2018/01/13
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審査方式にも40年の変遷が。1979~87年は大島渚(左から2人目)、大林宣彦(左端)など十数人の審査員が各々ベストワンを決める形。88年以降はグランプリなど各賞を選出する現在のコンペティション方式に(写真:PIA FILM FESTIVAL提供)

若手映画監督の登竜門として知られるぴあフィルムフェスティバル(PFF)が今年で40回を数える。映画祭の形式や会場、イベントの形は変化しつつも、一貫しているのはこの映画祭の主役がまだ無名の自主映画監督たちであることだ。

【写真】1990年にグランプリを獲ったのは、あの人気監督だった!

ぴあフィルムフェスティバルは1977年にスタートし、日本の映画祭文化を牽引してきた。近年は毎秋、東京国立近代美術館フィルムセンターで約2週間開かれるが、開催時期の都合で80年と98年に2回の中断をはさみ、今年で40回目となる。

PFFに入選したあと、映像の世界でプロとして活躍している監督は110人を超える。技術スタッフや配給会社にも人材が輩出し、PFF出身者は日本の映画界を支えている。

77年の「第1回ぴあ展」は、東映の大泉撮影所を2日間借り切り、映像、音楽、演劇を上演する文化祭的なイベントだった。映像部門は情報誌「ぴあ」で公募して集まった77本の自主映画作品からスタッフが選んだ12作品をオールナイトで上映。この映像部門が翌年から独立してPFFの原形となり、公募作品から入選作を決める部門は「アワード」と呼ばれ、PFFの中心であり続けている。92年からPFFディレクターとして映画祭を支える荒木啓子さんは語る。

「そもそもぴあ株式会社は中央大学の映画研究会の映画青年たちが中心となって創業した会社です。自主映画だってこんなに面白い作品がある、一般映画と同等の映画なんだと世に知らしめたい、PFFはそんな想いから始まりました。当時の男くさくて熱い自主映画の現場を今、リアルに想像することは難しいけど、とにかくみんな映画に飢えていた。この時代のPFFの会場にはものすごい長蛇の列ができたようです。黒沢清さんや塚本晋也さん、本当にいろんな監督が熱狂的に見に来ていたと、ご本人たちから聞きました」

70年代後半は8ミリ学生映画が一躍、世間の注目を集めた時代。映研は大学だけでなく高校や中学にもできて、犬童一心、手塚眞といった高校生監督も入選して注目された。

また、78年に入選した石井聰亙(現・岳龍)はその年に日活で商業映画デビュー。それまでの映画監督は、商業映画の助監督などの経験を積んでようやくなれるものだったが、新しい流れが始まっていた。森田芳光や長崎俊一など、PFFの入選監督たちも次々と商業映画で監督デビューを果たした。

そして84年には「新しい才能の育成」を掲げ、PFF自体が新人監督を商業映画デビューさせる「スカラシップ」部門が誕生。入賞者にはオリジナルの長編映画を監督するチャンスが与えられた。完成後は普通の映画と同じように一般公開されるほか、字幕をつけてPFFと交流のある海外の映画祭にも広く紹介した。橋口亮輔の「二十才の微熱」は単館上映としては異例の大ヒットとなり、ベルリン国際映画祭などでも高い評価を受けた。2000年代には、内田けんじの「運命じゃない人」がカンヌ国際映画祭批評家週間部門で4賞を受賞。また、石井裕也はエドワード・ヤン記念アジア新人監督大賞を受賞。のちに大きく飛躍する監督たちが、初めて決められた予算やスケジュールの中で自分がやりたいことをどう表現するか学ぶ場となった。99年からスカラシッププロデューサーを務め、監督たちと一緒に作品を作ってきた天野真弓さんは振り返る。

「たとえば海外留学して映画を学び、ジャッキー・チェンの映画が大好きと言う内田監督が最初に出してきた脚本は、成田で大アクションシーンがある大作で、とてもスカラシップの予算規模では収まらないもの。ここから時間をかけて内田監督が作りたいと思うエキスを搾り出すような作業が始まり、登場人物を絞って時間の流れを工夫して組み合わせる、すごく面白いアイデアが生まれたんです。派手なアクションシーンは撮れませんが、それを十分カバーする緻密な脚本を書き上げ、素晴らしいデビュー作になりました」

脚本が完成して撮影に入るとき、天野さんが監督たちに必ず言うことがあるという。

「『雨が降っても今日撮る予定は今日撮る!』って。プロの現場じゃそう簡単に予定は延ばせない。その覚悟を決めてもらうためですが、2週間ほどの撮影期間なのになぜか必ず雨が降るんですよ。新人監督には厳しい条件ですが、その時に助けてくれるのが熟考を重ねた脚本。監督はアクシデントがあったとき、何が一番大事か判断する力が重要なので。スカラシップは監督たちのステップアップにつながる。それが大事だと思います」

PFFのもうひとつの柱が「映画祭」部門だ。80年代初頭から一般的な映画祭としても力を入れ、世界的に注目される監督の日本未公開作品を含む特集上映企画を行う「招待部門」が誕生した。フランソワ・トリュフォー、ジム・ジャームッシュやスパイク・リーが来日し、熱狂的に盛り上がった。台湾ニューシネマの侯孝賢(ホウシャオシェン)を初めて日本に紹介したのもPFFだ。

「当時、日本はバブルでジャパン・アズ・ナンバーワンみたいな時代。アジアに映画?と思われていた。でもあるんですよ(笑)。侯孝賢の他にもフィリピン映画や韓国映画、タイ映画、インド映画など、当時誰も知らなかったアジア映画に力を入れて紹介していました。アジアの監督たちがPFFのことを知っているのは、この時代があったからなんです」(荒木さん)

侯孝賢から「新しい映画の費用が足りない」と相談を受けたこともある。結局、「ぴあ」がポストプロダクションの費用を出して映画は完成。その映画こそ、89年にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲った「悲情城市」だったという、驚きのエピソードも。

90年代、自主映画を取り巻く環境は大きく変化した。

「アワード」も、それまで大多数を占めていたフィルム作品は激減し、ビデオ作品が急増。また、以前は大学の映画サークル関係者がほとんどだったが、芸術大学を始め様々な大学が映像学科を新設し、映画学校出身者が大半を占めるように。映画祭に集う人も様変わりした。

「昔は映画監督になりたい人がギラギラ集っていたと聞きますが、今はさらっとマイルドですよね。映像技術的にはプロ顔負けの作品も増えて“映画のマネ”がうまくなったからこそ、自分だけにしかできないものを厳しく問われている。でもね、“何か”を持っている人は今も昔も変わらずいて、作品を見れば必ず分かる。その“何か”を言葉で説明するのは難しいけど、数を見れば分かります」(荒木さん)

現在、入選作品は荒木さんとセレクションメンバーが審査を行っている。そこには厳密なルールがある。一つの作品を必ず3人が見ること。作品を見るときは絶対に最後まで止めないこと。そして主観で選ばないこと。昨年は548本の応募があったが、すべての作品をそのように鑑賞して1次審査通過作を決めた。その作品をメンバー全員で見て、入選作品を討議するのが2次審査だ。入選作が決まるまで、4カ月かかる。

「正直言ってそんなルールで入選作を決めている映画祭は世界でうちだけ。よく驚かれますが、でも手間暇かけないといいものは生まれないんですよ」(同)

映画そのものを取り巻く環境も大きく変わった。テレビ局が主導し、製作委員会形式で作られる大規模予算の映画ばかりが大ヒットし、単館・ミニシアター系からはヒット作が出にくい状況が続く。ネット配信の映像作品は増え、若い監督が修業できる場はそれなりにあるが、驚くような低予算で作られ、報酬は少ない。そんな今、PFFはどういう存在であろうとするのか。荒木さんは即答した。

「『あなたは間違ってない。とことんやりなさい!』と言い続けたい。映画業界もみんなが疲弊している。お金を生まなかったら無価値と言われる世の中で、自主映画を作るなんて、こんな無駄なことはないんです。それでもひたすら情熱を傾けて作品を作って応募する人たちがいる。何かを生み出す人たちは、この世の中で一番素晴らしい。PFFだけはずっと寄り添って肯定し続けていきたいんです」

(ライター・大道絵里子)

※AERA 2018年1月15日号

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