アジア人差別を急増させた、消えることのない「トランプ・ウイルス」

アジア人差別を急増させた、消えることのない「トランプ・ウイルス」

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2021/04/07
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アメリカのバイデン大統領が就任して2ヵ月近く経つ。トランプ前大統領の存在感は薄れつつあるが、「トランプ主義」が残した「負の遺産」は、依然として存在感を放っている。その「悪夢」とは一体どのようなものか? 作家の川崎大助氏が、社会文化論的側面からトランプ主義を総括する。

トランプが開いた「パンドラの箱」

トランプは「消えない」のではないか。そんな想念が、僕の脳裏には、繰り返し立ちのぼってくる。

アメリカ合衆国の前大統領、つまり米国の第45代国家元首だった人物、ドナルド.J.トランプについて、僕は述べている。彼が築き上げた「負の遺産」について、言及をおこなっている。

トランプ本人は、政治の表舞台から遠ざかり続けている。2月28日のフロリダ州オーランドで開催された保守政治活動会議(CPAC)での彼の演説は「ありきたり」であり、3月21日に発表された、自前のプラットフォームにてSNS上に復帰する、といった宣言と合わせて、ほとんど「スルー」されている。少なくとも、広い世間からは。だからもはや彼の「復活」はない、のかもしれない。

だがしかし、それは問題ではない。僕が言っているのは「彼がすでに影響を与えてしまったもの」についてだ。つまりすでにしてトランプは、きわめて大きな「歴史的役割」を果たしてしまったのだ。

トランプがあれほどの影響力を持ってしまったのは、「支持した人々」がいたからだ。彼の奇矯な(そして、実際はほぼ空洞状だった)哲学に感化され、あの言動、あの態度を「愛した」人々がいたからこそ、彼は大統領になれた。

そして、「トランプ主義」に感化された人々の想念と行動が世に蔓延して、英語など1ミリも理解できない日本人にすら(いや、だからこそか)妄想の毒霧を吹き広げていった。そして日本に「Jアノン」まで生まれてしまった。

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トランプ前大統領を支持した「Qアノン」(photo by gettyimages)

言うなればトランプは、「悪意のウイルス」の最大媒介者となって、地球中にそれをバラ撒いてしまったわけだ。彼が「開いてしまった」パンドラの箱から飛び出したものの一切合切は、もはやどうあっても、回収不可能なんじゃないか――そんな暗澹たる思いが、僕は日増しに強くなっている。悪夢は醒めないのかもしれない。

しかし僕は、座視してそれを、現在進行形の悪夢を、やり過ごしてしまうことはできない。ゆえに、それに対抗する方法を、ここで模索してみたい。僕の専門領域、ポップ文化を軸にした社会文化論的側面から「心のなかのトランプ」の解体へと挑んでみたいと思う。

吹き荒れるアジア人差別

まず、トランプ主義から生じた、最新の「悪夢」とは、米欧を中心に吹き荒れる「日本人も含む」アジア人差別、憎悪犯罪の急増および過激化だと言える。

これについては、3月30日、いまや国際的スーパースターである韓国のポップ・グループ、BTSが「アジア人差別」に対抗する力強いステートメントを発表したことが記憶に新しい。自らが「差別された」体験も織り込んだ真摯なコメントは、多くの人々の心を打った。またプロテニス協会の動きと歩調を合わせた、大坂なおみ、錦織圭らの迅速な動きも印象的だった。

ともあれ、喫緊の問題であるこの件「アジア人差別の大波」の分析をしてみることから、トランプ・ウイルスの構造分析を始めてみよう。

現今の事件の連続、その原因の一端を、昨年来トランプが無数に投擲した「差別的」言辞に求める見方は多い。彼はいくら批判されようとも、新型コロナについて「中国ウイルス」としつこく呼び続けた。まさにこの言葉こそが「ウイルス」そのものだった。一部の人の心をむしばむ、きわめて悪性の。

こうした物言いを、社会的に高い地位にある人物が口にすること。その際に加えられた、良識的批判など「いくらでも踏み潰して」言いたい放題やること――いわゆる「トランプしぐさ」のなかでも、最も「らしい」部類に入るだろうこれが、一部の人々には、どうやら「痛快至極」だった、ようだ。

ゆえに結果的に、彼ら彼女らの「心のタガ」をとっぱずす効果を生んだのだろう。そしていま現在の、異常なる「差別の大波」へと、直接的につながっていった。こうした構造が、これまでとは全然違う種類の差別を生み出している。

アジア人差別自体は、ずっと昔からある。僕自身も、ティーンエイジャーになる前から、米欧にて幾度も経験した。内容は様々だ。日本人に対する直接的な蔑視もあれば、アジア系全般へのものもあったはずだ(海外では、僕は中国人と見られることが最も多い)。

いずれにせよ(一部の日本人の願望とは違って)東アジア系ならば全員「同じ種類」の差別的感情のターゲットとなるのが普通だ。ちょうどそれは、どこの国や地域にルーツがあろうが、黒人が十把一絡げに「黒人としての差別」を受けるのと同様に。

地味に生きてきたアジア系住民が……

ともあれ、アジア人への差別がここまでの攻撃性を帯びるのは、尋常ではない。米欧において(一部のギャングなどを除き)アジア系住民はモデル・シチズンに近い、というのが、ずっと一貫した社会的通念だったからだ。

BTS以前は「クール」と呼ばれる場合はほとんどなかったにせよ、その逆に、地域社会の問題児となるような人物は少ない、といった肯定的イメージだ。アジア系はそれぞれの社会的階層において、いろいろなニュアンスで「日陰の側」で暮らすことを好んで引き受ける人も多かった。

つまり真面目に地味に、面白味もなく、ひっそりと静かに生きる人こそがアジア系の主流だった。「忘れられた/見えない」マイノリティーと呼ばることもよくあった。

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BTS以前、アジア系は「非モテ」の代表だった(photo by gettyimages)

だから差別と言っても、アジア系へのそれは、黒人に対する「黒人以外」からの差別とは、大きく質が異なっていた。からかいやいじめのようなものが大多数だった、はずだ。しかしときには、凄惨な逸脱もあった。

アジア系に対する差別的暴力事件として忘れてならないのは「ヴィンセント・チン事件」だ。日米貿易摩擦が過熱していた1982年、ミシガン州デトロイトで中国系アメリカ人の青年、ヴィンセント・チンが殺される。2人組の白人に襲われて、野球のバットで殴り殺されたのだ。彼が東アジア系だったから「日本人と間違われて」憎悪犯罪の標的となったと見られている。

殺害犯はクライスラーの工場を解雇された労働者だったから、日本車のせいで失職したとして、日本人に恨みを持っていた、とされる。しかし犯人たちには執行猶予付きの罰金刑という、きわめて軽い判決が下された。事件の夜、結婚式を控えたチンはバチェラー・パーティーをおこなっていた。そして挙式日程の4日前、彼は他界した。

この判決に怒った人々が立ち上がった。「いつもは静かな」アジア系アメリカ人のコミュニティは、この事件を契機に社会的発言を積極的におこなっていくことになる。事件は映画にもなった。『誰がビンセント・チンを殺したか』(91年)と題された一作は、第61回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた。

増加する「弱者虐待」

おわかりだろうか? いま現在の「差別の嵐」は、このときの――「歴史的事件」だった――チン事件よりも、はるかに醜悪で、危険な暴力的攻撃が、連続して起こっている……という異常事態なのだ。

現在のように「アジア人だというだけで」突然に暴力をふるわれたり、危害を加えられたり、撃たれて殺されたり――というのは、完全におかしい。どうかしている。

つまりいま現在、明確な人種主義にのっとって、憎悪を燃料とした、あからさまに苛烈な「弱者虐待」が、アジア人をターゲットとして頻発しているのだ。だから「弱い者(アジア系)のなかでも」より弱そうな者が、まず狙われている。

アジア人の老人、女性などが、次々に襲われている。そして報道を見るかぎりでは、白人層ばかりではなく、黒人もまた「この差別」へと加担している例が少なくない、ようだ。

もちろん、これら全部が「トランプのせい」というのは、語弊があるだろう。しかしこう言えば、ほぼ正確なはずだ。

「トランプのような人物を大統領にまで上り詰めさせてしまった」人々の観念のなかに、ここへとつながる「憎悪の原点」があったのだ、と。「悪意のウイルス」が定着し、増殖していくための受け皿があったのだ、と。

『ワンダーウーマン 1984』の失敗

こうした構造、言うなればトランプ謹製の「悪意のウイルス」の伝播と増殖そのものに対して、正面から戦いを挑もうとしたアメリカ映画がある。パティ・ジェンキンス監督『ワンダーウーマン 1984』(20年12月公開)がそれだ。

DCコミックスの女性スーパーヒーロー、ワンダーウーマンをガル・ガドットが演じ、国際的な大ヒットとなった17年の第1作を引き継ぐ続編映画として、大いに期待されていた。しかし興行収入はさて置いて、批評的には残念な結果となった。

『ワンダーウーマン 1984』予告編

たとえば映画批評サイト〈ロッテン・トマト〉では、批評家の支持率(トマト・メーター)は59%と、前作の93%(つまり「フレッシュ!」のお墨付き)から大きく低下した。観客の満足度スコアも、前作の83%から今作は74%と下落している。

失敗の理由については「脚本に穴が多すぎる」という指摘が多いのだが、なかでも僕は「悪漢役(ヴィラン)をトランプにしたから」うまく行かなかったのではないか、と見ている。

※以下『ワンダーウーマン 1984』のネタバレがあります。未見のかたはご注意を。

「愛される悪役」になり過ぎた

同作の悪漢役はマックスウェル・“マックス”・ロードというアメリカ人男性だ。石油会社を経営、ビジネス成功者としてTVCMなどで人気なのだが、実際は経営破綻に瀕していて、追い詰められている。

そんな彼が「願いを叶える石」を手に入れる。そして「どんな願いでも叶えられる」能力を自らに与える。神のごとき存在となったマックスは、衛星放送を通じて、世界中の視聴者にこう告げる。

「望みを叶えてやるから、願いをリクエストしろ」と。そして無数の人々が、ありとあらゆる欲望をむき出しにして、マックスに「リクエスト」しては、次々に「叶って」しまう。そして「悪夢のような」世界が現出しようとする……彼を止められるのは、ワンダーウーマンしかいないのか!?というのが、ストーリーの大枠だ。

マックスというキャラクターについて、監督は一応、トランプだけではなく、元NASDAQ会長にして歴史的詐欺事件の主犯でもあるバーニー・マドフも参考にした、と言っているのだが……まあ、外見は「トランプそのもの」だ。しかもとくに「80年代のトランプ」に酷似していた(本作はタイトルどおり、1984年を舞台としている)。

ともあれこの人物像が、とてもよかった。演じたのはペドロ・パスカル。『ゲーム・オブ・スローンズ』で色男剣士オベリン・マーテルを演じた彼が、トランプ(のような男)の心のゆらぎを、見事に演じていた。ゆえに『ワンダーウーマン 1984』のなかで、僕の目から見て「血が通った」キャラクターと感じられたのは、ほぼ唯一、彼のみだった。

だから映画的に、じつに「まずい」ことになってしまう。「トランプのような男」の欲望の虚しさ、人間味あふれる哀れさを描こうとするあまり、マックスが「愛される悪役」になり過ぎていたのだ。ワンダーウーマンは、まあ超人だから、当然にして観客がストレートに感情移入することは、とても困難だ。

ゆえにただひたすらにマックスのみが「その役」を引き受けてしまう。たとえば、ジョーカーが「いい奴すぎる」バットマン映画とでも言おうか。しかもマックスは最後の最後に「自分で改心」してしまう。つまりワンダーウーマンは「トランプを倒す」ことができない!のだ……。

言うまでもなく、アメリカ人は「80年代のトランプ」をよく知っている。彼が「世間に存在を知らしめた」時代がそこだったからだ。若き億万長者として、派手なビジネスマンとして「誰もが知っている」有名人となった。

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1988年、テレビに出演するトランプ氏(photo by gettyimages)

たとえば日本で言えば、タモリが『笑っていいとも!』の司会者だったことを誰もが知っているのと同じぐらい、常識的に、アメリカ人なら強烈に「あのころのトランプ」を記憶している人は多い。だからこの映画を見終わったあと、ほぼ自動的に、こうした思いが浮かび上がってこざるを得なかったはずだ。

「ああ、現実にはワンダーウーマンも、スーパーヒーローもいないんだなあ」

「だって80年代にトランプは『改心』しなかったし、だから大統領にまでなっている」

「つまり、現実のトランプを止められる『ヒーロー』なんて、いないんだ……」

アメリカ人観客のみならず、僕も同じ感慨を抱いた。ゆえにこうした点が、同作の低評価へと直結したと考える。アクション・シーンなど、スペクタクルの面ではそれなりだったのだが、なにしろ「トランプの世」において、これはないだろう……と。

「マンガの王」トランプ

もっとも、本作の当初の公開予定日は20年6月5日。つまり大統領選の投票日以前だった(コロナ禍で公開延期となった)。つまりはそもそも「トランプの再選を阻む」という制作者側の考えからこうした内容となった、と読むべき一作だった。

にもかかわらず「こんな具合になってしまう」ところに、トランプという存在のやっかいさがある。戦いにくさがある。良識の側が悪口を言えば言うほど巨大化する、まるで小言をエネルギーにどこまでも大きくなる「赤ちゃんトランプ風船」みたいな光景を、僕は想像する。

なぜならば、元来彼こそが「マンガの王」だったからだ。彼の存在そのものが、生きるダーク・ファンタジーだったからだ。この怪物の正体について、次回くわしく見ていこう。

(明日8日公開予定の後篇に続く!)

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