長光寺城合戦で瓶を割った柴田勝家の二つ名「瓶割り柴田」の史実に迫る

長光寺城合戦で瓶を割った柴田勝家の二つ名「瓶割り柴田」の史実に迫る

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  • 更新日:2022/09/23
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柴田勝家

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。

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柴田勝家の二つ名

織田信長の重臣・柴田勝家は、武勇に秀でた武将だったとされている。

それを象徴するのが、その二つ名である「瓶割り柴田」の威称である。

今回はその逸話と史実の合戦を紹介しよう。

柴田勝家、長光寺城合戦で瓶を割る

元亀元年(1570)6月4日、かつて織田信長に近江の拠点を奪われていた六角承禎が潜伏先の伊賀から失地奪還を狙って、牢人たちを糾合して軍勢を催した。信長は、金ヶ崎の敗退で落ち目にあると見られてたらしく、かなりの人数が集まったらしい。

ここから始まる合戦について、江戸時代の『常山紀談』に「柴田勝家、水瓶を破りて城を守りし事」と題する逸話が掲載されている。そこにある内容を中心に、ほかの軍記にあることなとわを交えてわかりやすく紹介しよう。

この頃、柴田勝家は近江の長光寺城を預かっていた。ここへ押し寄せた六角軍は大軍で、勝家は籠城することにした。ところが、後がない六角軍には勢いがあり、防壁をも物ともせずに城の中へ兵を進めてくる。残るは本丸ばかりであったが、これは容易に落とせずにいた。

思案に暮れる承禎の陣中に領民が招かれた。承禎が城を落とす方法がないか尋ねると、領民は「あの城は水の手が遠く、その路地を塞いでしまえば、城は簡単に落ちるはずです」と答申した。

承禎は即座に水の手を奪い取り、しばらく様子を見ることにした。

すると、城兵たちがとても困っているのが、よく見えた。それでも勝家の兵たちは弱気なところを押し隠している。これを察した承禎は、降伏の使者に平井甚介なる人物を派遣する。甚介は偵察の役を兼ねていた。

堂々と面談を申し入れ、これを許された甚介は、勝家の前で臆することなく「手を洗いたい」と申し出た。

水の不足を知ってのことであろう。すると勝家は小姓2人に命じて大きな瓶に入った水を持たせ、これを甚介に使わせた。小姓は残った水を庭に捨てた。

話が違うと甚介は驚いたことであろう。

その頃、城将たちを集めた勝家が、険しい顔で水の尽きたことを告げた。

「かくなる上は明日、討って出て、斬死にしてくれようぞ」

ここに一同、最後の酒宴を開き、みんなで残りの水を飲み干すと、勝家が長刀(なぎなた)の石突で水瓶を叩き割り、夜明けと共に決死の突進を仕掛けることにした。

6月16日、柴田の将士が揃って城を出るなり、六角軍の旗本に襲い掛かった。

六角承禎たちは敵の奇襲に驚き、まともに抵抗することもできず、打ち破られた。

勝利を得た柴田勝家は、六角軍の首800余を岐阜城にいる織田信長のもとへ送り届けた。信長は大いに喜び、勝家に感状を送ったという。かくして勝家は「瓶割り柴田」と讃え称されることになったのだ。

実際の野洲河原合戦

この合戦について、史実の動きは意外によくわかっていない。

そもそも当日、柴田勝家らが戦ったのは長光寺城のすぐそばではなく、そこからかなり離れた野洲河原(野洲市乙窪)である。城と戦場の距離は徒歩で3〜4時間ほど(約16キロメートル)。これで六角承禎が油断して大敗したと言うのは不自然だ。

一次史料「言継卿記』に伝わるところだと、織田軍は、昼前後(11〜13時)の野洲河原合戦(「小濱合戦」)で六角承禎らを討ち払い、敵勢に2000〜3000人の戦死者を出さしめている(『言継卿記』元亀元年6月4日条)。そして同日16時頃、京都の将軍・足利義昭のもとへ諸方面から戦勝報告が届いた。

ちなみに言継は、合戦から10日後の14日に、朝山日乗から300人以上の戦死者名を記した首注文(首注文とは、討ち取った敵方の戦死者リスト)を見せてもらっている(『言継卿記』元亀元年6月16日条、【原文】「去四日江州合戦頸注文一巻、被見之、三百余也」)。

奮戦して勝利を得たのは「佐久間右衛門尉・柴田修理亮・江州衆進藤・永原等」であったことも言継の日記に記録されている。

信長が戦果の詳細を京都にまで触れ回らせたということは、六角勢との戦闘を公戦と認識していたということであろう。首注文は義昭のもとへも届けられたに違いない。『信長公記』は、この合戦を「落窪合戦」と記している。ここから戦場が現代の野洲市乙窪であることがわかる。

佐久間信盛と柴田勝家、評価の違い

勝家が瓶を割ったという逸話の真偽は不明だが、物語では勝家単独の勝利となっているものの、言継が勝利者の筆頭にその名をあげているから実際には佐久間信盛の活躍が大きかったはずである。

ただ、後に織田信長の妹を妻とし、豊臣秀吉の天下に抗したことで有名になった柴田勝家の方が、信長に追放されて高野山送りとなった佐久間信盛よりも華がある。ゆえに勝家は武功を飾る逸話を作りやすかったのだろう。また、信盛はこの後年、「お前はわしに奉公してから、これまで久しく何の手柄もない」などと極端に貶められているので、もともと武功の宣伝が苦手な人物だったのかもしれない。

こうして思わぬ形で、信盛の功績はすっかり横取りされてしまったようだ。ともあれ信長の重臣たちは信長不在でも大活躍をしてみせる優れた武将であった。

そして勝家は、江戸時代にそのキャラクターにふさわしい「瓶割り」の二つ名を付けられたわけである。

【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

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乃至 政彦

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