
第1章 幼い日の思い出
3 小学校時代
新設校へ
二年生からは新設校に移った。それまでは十分余りかかっていた通学の時間が、五分もかからなくなった。
授業時間が増えて午後からも授業のある日は、昼食を食べに家に帰った。いつか、食事が済んで再び学校へ行く途中で名前を呼ばれて振り向くと、同じ組の多恵さんだ。
二人で原っぱを通りかかった時、「ひっつき団子があるわ」と言って多恵さんが立ち止まった。ひっつき団子はトゲトゲのついた楕円形の草の実で、そのころ友だちの間で毛糸の服などにくっつけて遊ぶのが流行っていた。「取ろ」「うん、取ろ」私と多恵さんはひっつき団子を一つ一つちぎってはポケットに詰めこんでいた。
ふと気がつくと「カン、カン、カン」と学校で午後の始業の鐘が鳴っている。「えらいこっちゃ!」二人は大慌てで駆け出した。
そっと教室に入るとまだ先生は来ておられない。「ああよかった」私と多恵さんは顔を見合わせて胸をなでおろした。
各学期のはじめの朝礼の時に、全校の組の級長と副級長の任命があった。
二年生の二学期、不意に名前を呼ばれて私はびっくりした。自分の組の最前列まで出て行く間、何だか面映ゆくて、胸がドキドキと高鳴った。思いもかけず級長に選ばれてからは随分と自分に自信が持てるようになった。
この頃は、まだ、大阪の街中を馬力の荷車や、時には牛車などがのんびりと行き来していた。
私たちの学校には講堂がなかったので式典などの行事は、いつも運動場で行われた。
いつだったか長時間立ったままの式の途中で、冷や汗が出てきて目の前が真っ暗になった。立っていられなくてしゃがみこむと、気がついた先生がかけ寄ってきて医務室へ連れて行って下さった。ボタンを外し、胸元を緩めてもらってしばらくベッドで休んでいると、間もなく元気を回復した。
それからは、式の日に校長先生の長いお話が始まることになると、「またしんどくなるのでは……」と不安になった。すると暗示にでもかかったように、決まって以前と同じ症状に襲われるのだった。
くせ毛
あれはたしか、私が小学校低学年の頃のこと。担任の先生がお休みで、背の高い若い男の先生が代わりに授業に来たことがあった。教室の中を巡回して私の所まで来た先生は、くせ毛で、からまり合った私の髪を、自分の指でくしけずるようにしながら、「おまえ、髪を梳(と)いてきたんか」と言った。
「梳いてきました」という私の顔を、疑わし気にまじまじと見つめた先生は、
「ほんとか?」
と言ったきり、教卓の方へ行ってしまった。普段から、くせ毛はいややな、と思っているところへ、まるでうそをついているように思われた悔しさで、私は家に帰ると居合わせた家族に、学校であったことをぶちまけた。
「くせ毛やから仕様がないやん」
そう言って、みんなが慰めてくれた。
それから何日か経って、そんなことはもうすっかり忘れてしまっていたある日のこと、
「今夜は早川先生が宿直や。朝子、夕飯がすんだら、おとうちゃんと一緒に遊びにいこ」
と、父が私に言った。早川先生とは、例の「髪を梳いてきたんか」
と言った先生である。
父がなぜ私を連れていくのか、よく分からなかったけれど、言われるままに、父について学校の門をくぐった。学校の後援会の役員をしていた父は、度々学校へ出入りをしていたので、こんな時間に出かけていくことに、私は格別不審の念も抱かなかった。
夜の学校は、昼間の喧騒とは打って変わって、暗くひっそりと静まり返っていた。そんな中で、玄関脇の用務員室だけに明かりがついていた。用務員のおじさんは不在で、早川先生だけが、所在なさげに土間のストーブにあたっていた。
「今晩は」
と入ってきた夜の訪問者に、先生はちょっと驚いた様子を見せたが、顔見知りの父と分かると、
「どうぞ、どうぞ」
と、私たち親子を奥の宿直室に招じ入れた。そして、とりとめのない雑談に時を過ごしている大人たちの側で、私は、おもしろくもない話を、ひざもくずさずに黙って聞いていた。そのうち父が、私の髪を撫でながら
「こいつは、生まれつきのくせ毛でしてなぁ……」
と早川先生に言った。その時の言葉を、私はいまでもはっきりと覚えている。それに対して、先生はどう言われたかは、覚えていない。
そして、その時はじめて、父が私を連れて早川先生を訪問した意図を知ったのだった。私の小さな胸のうちの悔しさを覚えていてくれた父の心くばりが嬉しくて、あの夜のことは、今も大切な思い出として私の心に刻まれている。
【前回の記事を読む】初めての家庭訪問の日、気になってそっと家の様子を見に戻ると・・・。
中村 良江