障害者と健常者の隔たりは、遠いようで近い。近いようで遠い。
「自分が障害を背負ってみて気づきました。健常者のなかには一定数、露骨に障害者を見下す人がいるんです。道でアイスクリームを食べていると、おじさんに『障害者が堂々としてんじゃねぇぞ!』と怒鳴られたこともあります。舌打ちをされたり、ぶつかられたりは割と日常茶飯事です」
車椅子に乗ったシンガーソングライター・曽塚レナ氏はあっけらかんとそう話す。そこに悲壮感は一切漂わない。理由を「さすがに障害のある人を攻撃したことはないけど、かつて私も世界のすべてが敵だと思って生きてきたから」と続けた。
曽塚氏が車椅子を必要とするようになったのは、今から7年前のこと。

曽塚レナ氏
◆難関校に入学も、問題児に…
幼いころ、曽塚氏の両親はレナ氏の持病療養のため、もともと住んでいた都会を離れて関東地方の自然豊かな場所に転居した。父親は世界を股にかけて活躍するサラリーマン。自宅に長く滞在こそしない人だったが、十分な学ぶ環境を与えてくれた。中学受験を突破し、難関校への入学を果たした。
「通っていた公立小学校は、『この問題がわかった人はちょっと待っていてね』と待たされる時間が長く、退屈だった思い出があります。机に突っ伏して寝ていることの多い児童だったと思います。しかし、入学した中学校はいわゆる“真面目な子”が多くて、中学校2年生くらいで私は早々にグレはじめました。学校にはお弁当の時間から行って、ケータイをいじって……みたいな問題児です。思えば小学校から中学校くらいにかけて、『自分の気持ちをわかってもらえない』という孤独感が色濃くなったように思います」
◆当時は「人の真心を生活の糧にしていた」
思いを共感できる人がいない。思春期には誰もが抱くこの感覚に、曽塚氏は大学受験を経てもなお取り憑かれたままだった。
「進学校として有名な場所なので、当然日本でも上位の大学へ進学する子が多いわけです。落ちこぼれていく自分の逃げ場として、かねてから興味のあった美術を選びました。ところが志望していた美術大学には落ちて、浪人することになりました。環境を変えたくて、私は実家から離れてひとり暮らしをすることにしたのです」
人とは分かり合えないと早々に見切った曽塚氏の生き方は、ある意味で清々しい。水商売で得た客からの「優しさ」で食いつなぐ日が続いた。
「当時の私は、『人生はサバイバルだ』と本気で思っていました。誰かから援助してもらい、『ありがとう』と笑顔を作っても、本心ではなんとも思っていませんでした。人の真心を生活の糧にしていた部分があります。誰かに心から感謝した経験は、ほとんどありませんでした」
◆マンションの屋上から身を投げて…
生活そのものよりも、心が荒む生活を送るうち、当初目指した美術大学など遠い存在になった。水商売を卒業して、一般企業で働いていたとき、悲劇が起きた。
「自分にもようやく信じられる人ができたと思っていました。しかしさまざまなボタンの掛け違いで、思ったように運びませんでした。くわえて、大切な人を失ったことを契機として、私のなかでこの世界に対する未練が消えてしまったんです」
当時住んでいたマンションの屋上から、曽塚氏は身を投げた。偶然吹いた風の影響で木の枝がクッションの役目をし、死にきれなかった。
「一年間、病院を3つも転々とし、その果てに車椅子生活。私は医師に対し、『神経痛も酷いから、この左足、切り落としてもらえませんか』と願い出ました。ところがその医師は悲しそうな顔をして、『主治医の先生はあなたのために、足を切断しないで済むように、何度も手術をしたんだよ』と言いました。その気持ちを汲んでほしいというのです。
私の左足は通常は曲がらない方へ折れていただけでなく、感染症も起こしていましたから、7〜8回に及ぶ手術をしていました。忙しいなかでも根気強く処置してくれた医師たちから、『自分を大切にしてほしい』と告げられると、これまで何度も聞き流していたその言葉がすとんと自分の胸に落ちていきました」
◆初めて心から「ありがとう」が言えるように
つらいリハビリ生活のなかで曽塚氏が獲得したものは、身体の機能ばかりではなかった。
「手術直後、私は寝返りさえ打てませんでした。座るなんてもってのほかです。しかしリハビリを経て、まったく下半身を動かせない状態から、足が直角に曲がるようになったり、上体を起こせるようになったり、本当にわずかずつ前進がありました。それを見てリハビリの先生や看護師さんたちが本当に喜んでくれました。これまで私は人を見れば敵だと思っていました。でも、そうではなかった。そう思えたときに、初めて心から『ありがとう』が言えるようになりました」
◆車椅子生活になってたどり着いた境地

車椅子生活になり、心境が変化すれば、行動も変わる。健常者だったときには口にしなかった「シンガーソングライターになりたい」という夢を語ったのもこの時期だ。
「私はこれまで、障害を負うと人生は苦難に満ちているものだとばかり思っていました。しかし、それは間違いでした。入院中にTwitter(当時)に呟いたことがきっかけで、いろいろなイベントに呼ばれるようになり、多くの友人に恵まれました。ありがたいことに、私に興味を持ってくれる人も徐々に増えました。知らない世界に触れることができたのも、車椅子生活がきっかけです。健常者だったころは『レールから外れたら、何か怖いことが待っている』と怯えていて、夢を見てはいけないと思って生きていました。しかし車椅子生活になったことで、『とことん生きてやろう』と不思議と思えるようになりました」
活動領域を広げていく自分について、曽塚氏はこんな独特な分析をしている。
「たとえ痛くて少ししか動かない部位でも、リハビリで動かしていかなければなりません。人の身体は動かさないと動かなくなるからです。それと同じで、人生も『できるわけない』と諦めて行動しなかったら、その回路はいつまで経っても繋がらない。運命も自力で変えられないと思うんです。だから私は、これまでただ憧れて心に秘めていた“夢”を語ることにしました」
◆“可哀想な人”にも届く楽曲を…
これまでの楽曲は個人の内面を表現した作品が多かったが、今後は「多くの人に共感してもらえる曲作りも考えている」と曽塚氏は話す。「多くの人」のなかには、冒頭に紹介したような、障害者を見下し攻撃してくる人も含まれる。
「私自身が身をもって体験したことだからわかるのですが、人は『理解者がいない』と思うと世界を恨みます。その矛先が、明らかに自分よりも弱者に向かうタイプの人もいるでしょう。しかし本来は、人を攻撃しなければいられない人こそ可哀想な人ですよね。
世界の原則が弱肉強食だったとしても、思いやりのない強者は“メンタル貧者”だと思っているので。そんな人間にはたとえ車椅子でも負けないし、いつかそういう人たちにも届く楽曲が作れれば、と思っています」
無意識に敷いたレールを飛び出せず、気持ちを分かり合えない“敵”の幻影に翻弄された青春時代。自らの存在を消そうと試みるも、皮肉にも身動きさえとれない障害を抱え、しかしその奈落で人の愛情に触れた。シンガーソングライター・曽塚氏はすべての過去を五線譜に描き起こし、孤独に膝を抱える人たちのための旋律を奏でる。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki