元ソフトバンク攝津正が「本当に嫌だった」日本シリーズの登板。秋山幸二監督に「鬼の采配」と感じた

元ソフトバンク攝津正が「本当に嫌だった」日本シリーズの登板。秋山幸二監督に「鬼の采配」と感じた

  • Sportiva
  • 更新日:2022/11/25

野球人生を変えた名将の言動(7)

攝津正が語る秋山幸二 後編

(前編:秋山幸二「わかってるな?」の問いに攝津正は「わかっています」。ソフトバンクのエースはどのように育てられたのか>>)

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ソフトバンクを6年で3度のリーグ優勝、2度の日本一に導いた秋山幸二監督。入団当時から指導を受けていた攝津正氏は、秋山監督のもとで野球をするなかで新しい発見があったという。インタビューの後編では、秋山監督が自身の野球人生に与えた影響や2011年の日本シリーズで緊急登板した時のエピソードなどを聞いた。

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2011年の日本シリーズを制し、攝津(右)からウイニングボールを受け取る秋山監督

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――秋山監督の指揮官としての特徴は?

攝津正(以下:攝津) 秋山監督はすごく緻密でした。カウントや状況ごとのバッターのスイングの違いや、屋外球場では打球だけじゃなく、風が外野からの送球に与える影響など、細かいところまで考えていましたね。

僕が現役時代の時は深く話をする機会があまりありませんでしたが、一緒にゴルフをする時も「ゴルフでも緻密に計算して打つんだな」と感じます。だからこそ選手としても、監督としてもあれだけの結果が残せたんでしょうし、今でも野球を勉強させてもらっています。

ダイエーや西武など、秋山監督の現役時代の話などもしてくれますね。あの頃の西武はものすごく強かったですが、「勝つためにこんなことをしていた」「サインがひとつひとつ、細かいプレーまであった」「上下関係がめちゃくちゃ厳しかった」「寮ではひとり部屋ではなく、何人か同じ部屋で暮らしていた」など、話が多岐にわたっていて面白いです。

――秋山監督は、6年間で3度のリーグ優勝と2度の日本一を達成していますが、就任1年目の2009年、2年目の2010年はクライマックスシリーズ(CS)で敗れるなど苦しい時期もありました。

攝津 そうですね。CSで勝ち抜けない苦しい時期でした。王貞治監督時代の2006年もCSでは、(斉藤)和巳さんが投げた日本ハムとの試合でサヨナラで負け。2010年はリーグ優勝したのにリーグ3位だったロッテに"下克上"を許すなど"鬼門"でした。

――そうした負の連鎖を払拭したのが2011年。攝津さんが先発に転向して14勝を挙げたシーズンでした。攝津さんはCSファイナルステージ2戦目、中日との日本シリーズでも3戦目に先発して勝利投手になっていますが、7戦目では3点リードの9回2死一塁の場面でマウンドに上がり、胴上げ投手となりました。

攝津(ブライアン・)ファルケンボーグが右腕に打球を受けて降板した試合ですね。それで急遽、森福(允彦)を挟んで、最後のひとりの場面で僕が登板することになりました。

――その試合でのリリーフ起用の可能性は事前に伝えられていたんですか?

攝津 日本シリーズは3戦目で先発して以降、ずっと中継ぎで投げられるように待機していました。ただ、あの登板に関しては事前に伝えられていたわけではなく、ファルケンボーグのアクシデントによるものなので想定外でしたね。

当時のクローザーは馬原(孝浩)さんでしたが、そのシーズンはあまり調子がよくなくて、日本シリーズの1戦目や2戦目で負け投手になるなどチーム事情もいろいろあったんです。馬原さんもブルペンには控えていたんですが、最後は僕が呼ばれて......。

馬原さんとは自主トレもずっと一緒にやらせてもらっていたので、本当に嫌な登板でした。その時のことは鮮明に覚えていますし、心が苦しかったです。個人的には非情な采配、鬼の采配だなとも思いましたが、3対0と僅差でしたし、「最後の最後まで勝ちにこだわる、本当の勝負師だな」と思いましたね。

――秋山監督とは最近もお会いする機会があるとのことですが、その時の登板の話もしますか?

攝津 「順調にいったら馬原だったけど、あの時は調子が悪かったから仕方がなかったんだ」という話はしていましたね。

―― 一方、野手でいえば、当時は柳田悠岐選手、中村晃選手、今宮健太選手らが若手として一軍の試合に出始めた頃でもありました。秋山監督のもとで出場機会を増やし、頭角を現わしていきましたね。

攝津 彼らは控えとしてベンチにいましたが、秋山監督が"育てながら"起用していくという感じでしたね。その頃からベンチの雰囲気も含めて、強いチームに変わっていった印象があります。

――攝津さんの野球人生において、秋山監督との出会いがどんな影響を与えましたか?

攝津 僕はアマチュア時代から、なんでも自分で考えてやってきたところがありました。実際は周囲の力が大きいんですけどね。その中で身につけたものが多かったので、秋山監督はじめコーチ陣の方々がそれらをいじらなかったこと、そのままの自分を受け入れてくれたことが本当に助かりました。

アマチュア時代、春先はそこまで仕上げる時期ではなかったので、プロ入り1年目のオープン戦なんて球速は130km前後でした。なかなか適応するのも難しかったですが、見切りをつけられることはなかった。ボールがどうこうではなく結果で判断してくれましたし、投げている姿などの部分も含めて認めてくれました。見てもらえているな、と感じましたね。プロ入り後、自分のセールスポイントやスタイルを見失う選手も多いですが、僕はそういったことがなくプレーできたことがよかったです。

【プロフィール】
攝津正(せっつ・ただし)

1982年6月1日、秋田県秋田市出身。秋田経法大付高(現ノースアジア大明桜高)3年時に春のセンバツに出場。卒業後、社会人のJR東日本東北では7度(補強選手含む)の都市対抗野球大会に出場した。2008年にソフトバンクからドラフト5位指名を受け入団。抜群の制球力を武器に先発・中継ぎとして活躍し、沢村賞をはじめ、多数のタイトルを受賞した。2018年に現役引退後、解説者や子どもたちへ野球教室をするなどして活動。通算282試合に登板し、79勝49敗1セーブ73ホールド、防御率2.98。

浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

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