森鷗外が「白米」にこだわった理由 元記者の精神科医が再分析

森鷗外が「白米」にこだわった理由 元記者の精神科医が再分析

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  • 更新日:2023/01/25

森鷗外が没してから1世紀。偉大な文豪にして軍医の「二生」を生きた人について、元新聞記者の精神科医による探究シリーズ第4回は、作家ではなく医師を「本職」に選んだ森林太郎(本名)の失敗と矜持について、わが身と照らし合わせながらお伝えする。

前回は明治末期、国家弾圧の大逆事件を小説化した鷗外の、作家と医務官僚という立場間の葛藤を探った。
記事:軍医vs文豪──森鷗外の二面性 大逆事件下「心の内」を精神科医が読む

文学と医学を最期まで両立させた鷗外

医師や医学部卒で物書きになった著名人は多い。思いつくだけでも加賀乙彦、安部公房、渡辺淳一、藤枝静男、斎藤茂吉と北杜夫の親子、なだいなだ、加藤周一。現役では帚木蓬生、海堂尊、久坂部羊、斎藤環(敬称略)。他ジャンルだが手塚治虫(漫画)、大森一樹(映画)の両氏には多大な影響を受けた。

なかでも北山修氏からは精神分析の要諦を学び、彼の著書にサインをもらって宝物にしている。
だが私見では、文学と医学を最期まで両立させたのは、鷗外、森林太郎しかいない。

鷗外が東大医学部を(入学ではなく)卒業したのが19歳。卒業試験のとき肋膜炎を患っており、下宿の火事でノート類を消失したこともあって、卒業席次は8番だった。上位3人該当の官費留学を一度は諦め、東京・千住で開業する父を手伝う。半年の後、同期で7歳年長の小池正直の進言もあって陸軍に入省した。プロイセン陸軍衛生制度の取調べなどに従事した。

ビタミンB1不足からくる神経障害 脚気の怖さ

22歳で待望のドイツ留学をかなえた鷗外の顚末は、デビュー小説『舞姫』を軸に第1回で詳述した。ここではその後の軍医としての鷗外の足跡、とりわけ当時の重大問題だった「脚気」を中心に述べる。

「かっけ」と読む。高齢者なら、あの膝にハンマーを当ててピーンと跳ねる膝蓋腱反射の無い病気、といえばわかるだろうか。原因はビタミンB1(VB1)不足からくる神経の障害で、進行するとさまざまな臓器がダメージを受ける。

脚気が流行り始めたのは江戸時代。ビタミン・ミネラルを含む麦や雑穀よりも、VB1を含む胚芽を除いてほぼ炭水化物のみしか残らない白米を食べるようになった江戸・大坂の都市部から広がり、「江戸わずらい」などと呼ばれた。VB1が発見されたのは大正時代なので、当時は原因が分からず、明治になっても事情は変わらなかった。

農林水産省のデータでは、明治初年度以降しばらく毎年1~3万人が脚気で死亡した。

富国強兵政策で軍隊では庶民より食事内容を優遇した。「銀シャリ」という言葉が示すように、贅沢な白米が支給された。殖産興業による製糸業が盛んになり、農家では蚕の餌となる桑畑が増え、VB1の補給源だった雑穀畑が減少し、庶民にも白米を食べる習慣が広がった。

こうして脚気は結核と並ぶ二大国民病となった。今なら糖尿病やがん、心臓疾患のような病気をイメージすれば近い。ところが実は、脚気は過去の病気ではない。

--{摂食障害と脚気の共通点}--

私は精神科医として約25年、女性の心身症を中心に診療を続けてきた。その代表が摂食障害だ。一般には「拒食症」として知られているが、深層心理での食べる欲求は通常よりはるかに強い。だから、治療の過程で過食を経験する患者が多い。

過食の内容は圧倒的に甘いもの系、つまり炭水化物だ。白飯を炊飯器ごと食べるツワモノも珍しくない。そうすると、明治時代の脚気患者と同じVB1不足に陥ることになる。

摂食障害でなくても、貧困から抜け出せず、肉、魚などたんぱく質摂取の乏しい者や、代謝でVB1を消費するアルコールの依存症者は脚気予備軍として注意する必要がある。

急性のVB1不足からくる疾患にウェルニッケ脳症がある。記憶力が著しく低下し、若年性認知症とぱっと見は区別がつかない。以前、勤めていた病院で摂食障害の20代女性が意識障害を起こしたため、この患者の頭部CTを撮影したら、80代と同じくらい脳が萎縮していた。

治療はVB1補給。鷗外の時代と違って、われわれには脚気の発生機序が分かっているので対処することはできる。

しかし、時は百年以上前の明治。この国民病に対する方針はわが国の軍隊内で二分していた。理論的なドイツ医学を範とした陸軍に対し、海軍は経験医学を重んじるイギリスにならった。

脚気の原因について、陸軍は東大教授のドイツ人医師ベルツの意見も聞き、感染症説が主流だった。なにより、本場ドイツで細菌学の大家コッホが感染症説を採用していた。

一方、洋食のヨーロッパには脚気自体が存在しないことなどを理由に、栄養障害説を唱えた海軍軍医高木兼寛は白米の代わりにパンを、のちに麦を米に混ぜて海軍の脚気を激減させた。

陸軍軍医本部長だった鷗外が上官の命を受けて白米に固執し、結果として日清・日露戦争従軍者の多数が脚気で死亡したことは有名な史実だ。むろん、鷗外だけの責任ではない。「坂の上の雲」を目指していたわが国の軍事体制の流れの中で、鷗外がその役割を果たしたに過ぎない。とはいえ、鷗外のせいで万単位の軍人の命が失われたと批判する識者もいる。

「ドーダの人」と揶揄された鷗外を再分析

面白い題名の本がある。『ドーダの人、森鷗外 踊る明治文学史』(鹿島茂著、朝日新聞出版)。

鹿島氏は著名なフランス文学者で、日本の文筆家を批評した文章が多く、小林秀雄も「ドーダの人」として取り上げている。「どうだ、俺はすごいだろう」という自己愛に満ちた著名人を俎上(そじょう)に載せ、分析する試みをそう名付けた。

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「ドーダの人、森鷗外 踊る明治文学史」鹿島茂著

同書で鹿島氏は、鷗外は手本を外国の思想や流行に求める究極の「外ドーダ」であり、見方によっては「ノモンハン(*)における辻正信、インパール作戦における牟田口廉也にひけを取らない将兵の大量死の原因」と指摘する。

*ノモンハンは満州事変の後、日本の傀儡(かいらい)政権である満州国とモンゴルの国境を巡り勃発した紛争であり、辻はその作戦参謀だった。インパール作戦は太平洋戦争末期のビルマ(現ミャンマー)で展開されて多数の死者を出し、無謀な作戦の代名詞となった。牟田口中将はその責任者だった。

ちなみに私の祖父は同作戦のあと応召され、ビルマで戦死している。

--{コメに対する郷愁ともう一つの葛藤}--

たしかに、日清・日露戦争従軍までの鷗外の言動は、医学のみならず文学界においても攻撃的かつ粘着質なものだった。

医師の西村正氏は著書『闘ふ鷗外、最後の絶叫』(作品社)で鹿島氏の鷗外ドーダ説を引き、ドイツ留学中の会議で日本の後進性を指摘した地質学者ナウマン(ナウマン象の提唱者)に猛反発した鷗外を「国家と自己とが一体化している彼にとっては、日本=自我へのあざけりは絶対なさねばならぬ仇討」と評している。

旧津和野藩典医の長男として森家の期待を一身に背負い、文明開化の時代に立身出世を望んだ鷗外にとって、留学先で母国の非難を浴びることは、母つまり自分を否定されるも同然に感じただろう。

同時にこの頃、青年鷗外の心が最も激しく揺れたことは疑いがない。留学中エリーゼとの邂逅、帰国し断腸の思いでの離別、望まぬ結婚の受容と、プライベートの難事と並行して脚気の原因究明の使命を負った。とびぬけた頭脳と理想だけでは、世の中を渡っていくことは困難だと鷗外は悟ったに違いない。

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西村正氏著『闘ふ鷗外、最後の絶叫』と林尚孝氏著『仮面の人・森鴎外「エリーゼ来日」三日間の謎』

農学博士の林尚孝氏は著書『仮面の人・森鴎外「エリーゼ来日」三日間の謎』(同時代社)で、「弱い心」の克服が鷗外の障害の課題となり、『舞姫』でそれを塗り込めて仮面を被り、強い意志の人を演じ通したと分析する。それが「脚気病原説」を主張し続けることに繋がったという見方だ。

さらに「子供たちに寄せる愛情は、大人の世界の醜悪な出来事についての罪滅ぼしであったのかも知れない」と推測している。

いずれの論旨も十分にうなずけるものではある。だが、何か足りない気がしながら、鷗外に関する文献を漁っていたら、あった。

鷗外の白米へのこだわり

『講座森鷗外1 鷗外の人と周辺』(平川祐弘、平岡敏夫、竹盛天雄編、新曜社)所収の「森軍医監の凱旋」(大石汎著)。日露戦争(1904〜05年)での軍医部長としての鷗外を「等身大の鷗外像に仕上げ」ようとした文学者による論考。

陸軍の主食を白米に決めた鷗外だが、脚気の増加は無視できなくなり、戦争2年目からは東大医学部で同期だった小池正直衛生長官の命で、全軍とも米麦混食となった。

繰り返すが、当時の脚気は原因不明だった。海軍の兵食にしても、たんぱく質の割合を増やす方針がVB1確保と同一だったからこそ奏功したのであって、現代医学の視点から弾劾するのはフェアでないと感じる。ただ、鷗外の白米へのこだわりは、その深層心理も含め、評価する必要はあるが。

ひと言でいえば、瑞穂の国である日本を象徴するコメに対する郷愁と、西欧先進諸国に追いつかんとする明治エリートの矜持とのあいだの葛藤、ということだろう。

大石氏によると、鷗外は医務局長を小池から引き継ぎ、臨時脚気調査会を主宰する立場になっても見解は変わらなかった。ところが、自分の退任時には麦飯採用を進言した後輩を次期局長に推薦している。出処進退について「鷗外から学ぶものは文学だけではない」と大石氏は書き留める。

日露戦争で第四軍医部長を務めた藤田嗣章は画家・藤田嗣治の父親だが、自らの伝記で鷗外を評しており、抜粋する。

「文学に深入りし過ぎるといふ者もあつたが軍務も亦その聡明を以て適切敏速に区処され私などの希望も能く容れられた。若しあの才学を以て多くの時間を軍医学に割かれたならば軍医界がその益を享くること一層のものがあつたであらう」

--{「二生を生きる」人たちの広がり}--

作家と医師の共通性

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日露戦争の現地から妻・志げへの手紙(出典:別冊太陽 森鷗外 近代文学の傑人生誕150年記念)

鷗外が砲弾飛び交う日露戦争の第二軍軍医部長として臨時報告を出すかたわら、東京の妻・志げに手紙を頻繁に送ったことは、シリーズ第2回:森鷗外の女性遍歴と「美貌の後妻」に元新聞記者の精神科医が考えることで触れた。

同時に鷗外の著したのが、詩歌集『うた日記』。詩、短歌、俳句など400以上を作り上げた。
中でも知られている歌が「扣鈕(ボタン)」。全文を掲載する。(/は行替え)

南山の たたかひの日に/ 袖口の こがねのぼたん/ ひとつおとしつ/ その扣鈕惜し
べるりんの 都大路の/ ぱつさあじゆ 電燈あをき/ 店にて買ひぬ/ はたとせまへに
えぽれっと かがやしき友/ こがね髪 ゆらぎし少女/ はや老いにけん/ 死にもやしけん
はたとせの 身のうきしづみ/ よろこびも かなしびも知る/ 袖のぼたんよ/かたはとなりぬ
ますらをの 玉と砕けし/ ももちたり それも惜しけど/ こも惜し扣鈕/ 身に添ふ扣鈕

註 ぼたん:カフスボタン、ぱつさあじゆ:(仏)アーケード商店街、はたとせ:二十年、
えぽれつと:(仏)肩章、ますらを:益荒男、強い男子、ももちたり:百千たり。数多くの兵士

将来を添い遂げようと一度は心に決めた相手エリーゼ。戦地の遼東半島から7700km離れたベルリンにいるはずの彼女に想いを馳せながら作ったのだろう。

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日露戦争の現地で作った詩歌、俳句をまとめた『うた日記』(出典:別冊太陽 森鷗外、同上)

大石氏は論考の最後でこうまとめる。

「文事と軍事とはどうやら後世の我々の思うほど無縁のものではないらしい。ギリシャ神話によれば、美神アフロディテと軍神アレースの二柱は夫婦神とされている」

そして、文人・鷗外と軍人・森林太郎の関係を正しく理解するためには「一陸軍衛生部職員森林太郎の最も通俗的な姿が鷗外漁史だった、ということ」と結ぶ。

作家と軍医という一見関係のない職業を対立項として見ずに、共通の土俵で扱うことの大切さを、大石氏の論考は示している。それは鷗外だから成し遂げられたので、われわれ凡人には及ぶべくもないと考えるのは早計だ。

人それぞれ、昔は個人の日記に、今ではSNSのブログに各々の思いを書き綴る。その中には原石に交じるダイヤのような掘り出し物も見つかる。それはダブルワークで活躍する人たちのニュースを見てもわかる。

鷗外を頂点とした「二生を生きる」者たちのピラミッドのすそ野は、思ったより広大だと感じる。

さあ、ここでわが身を振り返ると、どうだろう?

かつて、記者と医者の違いはローマ字でいえばKがあるか無いかの違いに過ぎない、とある文章に書いた。両者とも相手(取材先と患者)の話を心から聴くという点は共通する。そのうえで「K」とは「皆にその心が届くように書くこと」と心得たつもりだが、日暮れて道遠し、であろうか。

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