《戦後沖縄の離島医療》東京出身の青年が“阿嘉島の神様”になった愛の物語「清純にして容色もよく人並み以上。“一目惚れ”した女性に偽装結婚を申し込んで...」

《戦後沖縄の離島医療》東京出身の青年が“阿嘉島の神様”になった愛の物語「清純にして容色もよく人並み以上。“一目惚れ”した女性に偽装結婚を申し込んで...」

  • 文春オンライン
  • 更新日:2022/06/23

「離島診療はまさに命がけの仕事でもあった」戦後沖縄を支えた“阿嘉島の神様”西田医介輔の壮絶な日々とは《診療のため嵐の海を小舟で…》から続く

アメリカ統治下時代から38年間、沖縄県阿嘉島などで、島で唯一の医介輔※として医療を支えた西田さん。医療設備や搬送手段に乏しい阿嘉島での日々は、「#1」で報じたように悪戦苦闘の連続だった。

【画像】「妻とのなれそめは“偽装離婚”…」陸軍病院時代の西田医介輔

沖縄の離島医療に半生を捧げた西田さんだが、実は東京出身。原稿用紙254枚の「自伝」にも、初めて沖縄に向かう船に乗った時の心境について「いつになったら東京に帰れるのだろうか、1日も早く目的を果たして母や弟妹の面倒を見たい」と本音を漏らしている。

ではなぜ、彼は38年もの間、沖縄の離島へ移り住み、島を支え続けたのだろうか。きっかけは、戦時中の陸軍病院での“運命の出会い”だった――。

※戦後の沖縄で深刻な医師不足解消のため設けられた医療職。当時の琉球列島米国民政府が、日本軍の衛生兵など医療業務経験者に対して資格を与えた

No image

西田さん夫妻(遺族提供)

◆◆◆

初年兵は「毎日ビンタで明けビンタで暮れる」

西田さんは、20歳になった1943年に徴兵検査に合格。体重不足気味だったため、水道水を腹いっぱいに飲んで検査に向かったという。衛生兵として入隊したが、初めの3カ月は、当時の満州国の首都・新京の第675部隊で初年兵教育を受けた。

《吾われ初年兵の日課は毎日ビンタで明けビンタで暮れるのが日課であった。ビンタとは、相手の顔面を「平手」又は「拳骨」時には、革で出来てる「スリッパ」で殴打することを言うのであるが、動作が遅いと言ってはビンタ、声が小さいと言ってはビンタ、集合がおそいと言ってはビンタ、掃除が遅いと言ってはビンタ、敬礼の仕方が悪いと言ってはビンタ、衣類の整理整頓が悪いと言ってはビンタ。又、うっかりして上衣のボタン一つ、掛け忘れていようものなら、連続往復ビンタは当たり前であった》

西田さんは《都会育ちのため、体力が無い》ため、特に“ビンタ”の標的になったようだ。

中国側から日本陸軍病院に救護要員の依頼

耐えに耐え、ようやく初年兵教育が終わり、当時満州にあった新京第一陸軍病院に配属された。血液や尿などの検体について詳しい検査をする病理試験室での勤務が始まったのだが、その1年後、日本は終戦を迎える。

西田青年は旧ソ連軍の捕虜となり、収容所に向けて乗せられた貨物列車から脱走。2日かけて線路沿いを歩き続けて戻った陸軍病院の廊下の床下に匿われるなど、緊張の続く日々を過ごしていた。

そうしたなか、中国国内で内戦が勃発する。

中国側から日本陸軍病院に救護要員の依頼があったのだが、この要員確保の際、「妻子ある者は要員から除外する」という決まりだった。そのため、「早く日本に引き揚げたい」「要員確保されたくない」と考えた衛生兵たちは、こぞって院内の女性看護師と「偽装結婚」したという。

病理試験室に訪れた「偽装結婚」チャンス

西田青年も焦りにも似た気持ちで悶々とした日々を過ごしていた。そしてある日、1人の女性看護師が病理試験室を訪れた。

《『検体を持ってきましたので、お願いします』と言い、持ってきた可検物を、所定のところに置くと、さっさと足早に出て行った。「あっ」という間の出来事であり、声かける間もなかった(中略)私はふと、そうだ此の人に、偽装結婚の相手になってもらえないだろうかと、思いついたのである》

同僚に女性について聞いてみると、名前は「カリ」さんと呼ばれているらしい。いつ来るか分からない次のチャンスに備え、病理試験室で女性の来訪を待つことにした。すると数日後、彼女が再び検体を持って病理試験室を訪れた。

《私は思い切って声をかけてみた。「カゼ引いて休んでいたそうですが、もう大丈夫なんですか」と。彼女は少々びっくりしたような顔をして「ハイもう大丈夫です」と、小さな声で答えてくれた。こうした言葉のやりとりの中で、改めて彼女を観察してみると、清純にして容色もよく人並み以上のものがあり、美人のうちに入る人だと直感した。又、しっかりしており、頼もしいという印象を受けた》

最初の出会いは一瞬だったが、“一目惚れ”に近いものがあったのかもしれない。しかし事態が事態なだけに、西田青年は単刀直入に「偽装結婚」の依頼をした。

立ちはだかった偽装結婚への高い壁

カリさんは困惑し、何度か偽装結婚について話し合ったが、言葉を濁すばかり。しかしそのうち、彼女は「親代わりとも言うべき人の許可が必要で、自分では判断できない」と返答した。「親代わり」は、2人が勤めていた病院の総婦長。《あの総婦長が親代わりでは、私みたいな兵卒では、歯が立たない》と絶望する西田青年だったが、戦友に背中を押され、《当たって砕けろで、体当たり的にやってみようかと決心した》。

婦長と面会し「偽装結婚」を申し出たところ、なんと「沖縄の親許に責任をもって、送り届けると約束できるのだったら」と婦長から許可を得ることに成功。西田青年は沖縄・座間味島出身の女性、本名「ヨシ」さんと「偽装結婚」という形で籍を入れたのである。

3カ月後、満州国からの日本兵引き揚げに伴い、2人は日本に帰還。西田さんの実家のある東京で暮らし始め娘にも恵まれた。

東京生活をエンジョイ 「一方で妻はが暗い顔で…」

《日、一日と可愛さを増す由美子を中心に、狭いながらも楽しく生活を続ける私達は、やっと人並みな暮しができることに安心し、東京での生活を、エンジョイしていった》

しかし、一方で妻が暗い浮かない表情をしていることが増えていった。妻を問い詰めると、涙ながらに「沖縄に帰りたい」と訴えた。

《「こうして東京で安穏と暮らしていても、両親やきょうだいのことを思うと、居ても立ってもいられぬ思いがして、毎日のように苦しんでいる。もうこれ以上、我慢して時を待つことはできない(中略)一日も早く沖縄に帰して」》

元をたどれば、「沖縄の親許に帰す」という条件で陸軍病院の看護婦長に認められた「偽装結婚」。しかし、当時アメリカの占領下にあり、沖縄戦で大きな被害を受けた遠く海を隔てた地に、妻を帰すことには大きな決心が必要だった。

西田さんの「妻には言えない本音」とは

しかし、西田さんは《夫として、男として妻子だけを、そんな危険な沖縄に行かせる訳にはいかない。当然私も一緒に行くべきである》と沖縄に行くことを決心した。だが、船に乗船し、沖縄に出発する時の記述からは、妻には言えない本音を抱えていたことも分かる。

《妻のヨシは、嬉し涙を流して、大喜びしていたが、私は、満州にでも逆戻りさせられるような複雑な気持ちになり(中略)東京の空に向かって心のうちに、両手を合わせたのである》

それでも美しい自然に囲まれた座間味島での生活は存外に楽しいものだったようだ。地元の人が好意で住む部屋を貸してくれたし、当初は山で木材を集めて売る仕事などをしていたため、義両親のために地元の大工たちと協力して家を建てたこともあった。

「終生忘れられない良い想い出となった」という島の人たちとの温かい交流の日々であったが、妻・ヨシさんとその家族に対する「責任」を果たし、「そろそろ東京へ帰ることを考えないといけない」と思い始めていた。

そんな矢先、座間味村の松本忠徳村長に呼び出された。そして松本村長から、《「西田君頑張って、医介輔の資格を取り、座間味診療所に勤務してもらいたい」》と誘いを受けたのだ。

しかし陸軍病院での勤務から数年が経っており、その責務を果たす自信が持てない。西田さんは要請を断るも、村長は食い下がった。

《「この村の人を助けて」という言葉には、私は弱い》

《「この村の人を助けて」という言葉には、私は弱い。何故なら、私共家族が今日あるのは、すべて、この村の人達の温かい物心両面からのご支援、お世話を頂いた賜物であり、その有難さは肝に銘じている。したがって、私に出来ることなら、何んでもやって、ご恩に報いないといけないのである》

試験の日まで、残り2週間。陸軍病院から持ち帰っていた1冊の医学書を頼りに、西田さんは猛勉強し、見事合格を果たした。

こうして「#1」で報じた日々が始まったのだ。

そこから26年。妻・ヨシさんが2017年に他界した。看護師として、そして妻として自らを支え続けてくれたヨシさんへの想いを、こう綴っている。

《夫として、同じ医療人として、何一つ報いることができなかったことについて、心の底から「済まなかった。ごめんね」と詫びるのみ。(中略)いつの日か、必ずあなたのあの積年の苦労に対して、報いるよう心がける考えですので、しばらく待っていてください。本当に永い間ご苦労様でした。有難う。本当にありがとうございました》

「西田先生は素晴らしい先生だった」

それから2年後、西田医介輔は2019年にその生涯を終えた。西田さんは「自伝」にこう記している。

《沖縄の医師不足に対応するための医介輔制度に便乗した形の私の半生は、自治医大出身の若い医師達の配置により、ようやくその役目も終わりを迎えようとしている(中略)医師でもない者が、医療に従事していたことを、どう見て、どう結論づけるのか赤裸々な批評を、拝聴してみたい》

現在も、西田医介輔が勤めた阿嘉診療所は島唯一の医療機関として医師、看護師、事務の3人体制で地域を支え続けている。診療所長の長田健太郎医師は現在32歳。初代の西田さんから数えて、14代目の阿嘉診療所長だ。

2021年2月に60年の時を経て見つかった西田さんのカルテを前にこう話す。

「所見、診断、治療と、現代の医療に携わる立場から見ても系統だった勉強をされていたことが分かる内容です。インターネットなど情報を得るのに便利な手段もなかった当時の環境下で、相当な努力をされたのだと思うと唖然とします。

今でも島民の方から『西田先生は素晴らしい先生だった』『西田先生の時にはこんな時にこういう薬を出してくれた』など、当時の話を耳にすることがありますよ」

西田医介輔の想いは、いまだ阿嘉島に生き続けている。

(坂爪 航一郎/Webオリジナル(特集班))

坂爪 航一郎

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加