炎上ホームレス記事、何が「問題の核心」なのか本職ルポライターが語った

炎上ホームレス記事、何が「問題の核心」なのか本職ルポライターが語った

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2020/11/22
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11月11日に発表された「cakesクリエイターコンテスト2020」の結果が話題を呼んでいる。優秀賞を受賞した『ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした』という記事が、SNS上で「社会的弱者への配慮に欠けている」との批判を受けたからだ。これまで社会から排斥された人々を数多く取材してきたルポライターの鈴木大介氏が、今回の「炎上騒動」を論じた。

炎上で感じた「苦みを伴う懐かしさ」

今回、cakesと「ホームレス探訪記」に対する炎上騒動の経緯に目を通して、何とも言い難い気持ちになった。

怒り? 腹は立つが、それだけじゃない。

呆れ? いや、それも違う。

ああこれは、あれだ。

子ども時代にめちゃめちゃハマっていた「痛々しい世界観の漫画」を読み返してしまった時の、あの感じ。成人してから中学生時代の教科書に書いたポエムを読み返すような……「苦みを伴う懐かしさ」だ。

自らの過去を少々懺悔しながら、今回の騒動について論じる機会をいただきたい。

思い出された裏モノライター時代

僕自身は現在しがない障害当事者、兼文筆業みたいな立場なのだけど、その前は貧困や社会的排斥で苦しむ弱者の代弁を目指す、肩ひじ張ったルポライターだった。けれどそのさらに前には、いわゆるサブカル誌、ネオ実話誌とか言われたカテゴリで雑文を書き散らす裏モノライター的な書き手だったという経歴がある。

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そんな当時、僕がなにより得意としていたのは、そうした雑誌に定番のコンテンツだった、「裏バイト情報ネタ」「裏稼業ネタ」だ。

取材の端緒は、脱法スレスレ、もしくはもろに法に抵触する行為で稼ぎ生計を立てる人々が、どんなテクニックでその稼業を成立させているのかの裏を知ること。けれど、対象者に何度も取材を重ね、一緒に飯を食ったりする中で、彼らは法に触れる人かもしれないが、根っからの極悪人なんかじゃないことが見えてきた。

面倒くさいぐらい情に厚い部分があったり、怠惰に見えて生きづらさを感じるほどの几帳面さを持っていたり。何より彼らには、過去に社会に馴染めず集団から排斥されるという経験を重ねてきた「弱者・疎外された者の像」、または子ども時代から貧困や暴力の中で与えられるべきものを与えられずに育ってきた「置き去りにされた者・元被害者の像」が共通していた。

この人たち、面白半分で書いていい人じゃないよね? 書くべきは、彼らを排斥してきた社会の残酷さだし、「被害者転じての加害者」である彼らを差別し攻撃することじゃなくて、その元の被害や孤立を無くす社会になろうって提言だよね?

彼らは単に、悪賢く善悪の基準を捨てた人なのではない。彼らは逮捕や刑罰じゃなくて、むしろ保護や福祉の対象ってケースが多々ある。そのことに気づいてから、興味本位の裏モノライターから社会派ルポライターに鞍替えしたというのが、物書きとしての僕の、ちょっと残念な来歴だ。

そんな僕にとって、今回炎上した記事を読んで甦るのは、まさに苦く懐かしい、その「鞍替え前の自分自身」の記憶だったのだ。

「実用記事」を求める読者

実は、往年のサブカル誌には、裏稼業記事と同様にホームレス界隈の記事が定番としてあり、いずれも同じ「需要」のもとに書かれていた背景があった。

その需要とは何か? もちろん、見世物小屋的な露悪趣味の需要も一部にあった。けれどそんな記事が定番となって繰り返し掲載された理由は、純粋に「実用記事」としての需要があったからだ。

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例えば裏稼業記事によって読者が得るのは、「安心感」だ。

今の仕事を失ったらどうやって生きていこう。どんな仕事もうまくいかないし、いざ食えなくなったらどうしよう。そんな不安を心の片隅に抱える読者に対して、裏稼業記事はひとつの安心を与えることができる。

「今はやらないにしても」、切羽詰まったらこうやって食っていけるかもしれない。どうにもならなくなったとき、盗みをしたり飢え死にするぐらいなら、こんな稼業もある。なんなら、盗んでも捕まらないテクニックもある(正確には「捕まりにくい」に過ぎないが)。

自らの見えない将来に不安を抱えた読者がいる限り、そこには「いつかは使えるかもしれない実用記事」としての需要が確実にあるのだ。

では一方、サブカル誌におけるホームレス界隈の記事へには、どんな需要があったか。

それこそ当時は「ホームレス取材のエキスパート」みたいな先輩方も数々いたから、そこは僕ごときが「たくさん取材した」なんて言えないのだけれど、僕もホームレス当事者へ取材する機会は何度もあった。

特定の住所を持たない「野宿者」もそうだが、そもそも僕が専門としていた裏稼業の取材対象者とは、「固定の住居とホームレス状態のはざま」に生きる人々でもあった。住民票の住所に住んでいる人の方が少数で、多くはサウナやカプセルホテルで暮らしていたり知人や交際相手の部屋に身を寄せていたりするから、彼らの言葉でいう「寒くなる」(その稼業で稼げなくなる)、または「ガラ交わし」「飛ぶ」(トラブルを起こして逃走する)の際には、一時的なホームレス状態に陥ることが多かったのだ。

そんな経緯で「ホームレスという生き方」にも取材が及ぶのは必然だったが、そこで取材して得た情報に読者が求めていたのもまた、……やはり裏稼業ネタ同様の「いつかは使えるかもしれない実用性」だったのだ。

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彼らのスキルへの知的好奇心

その「いつか」とは、他者と連絡の取れる固定の住居に帰ることをやめて、社会、行政、会社、家族や知人などとの接点を一切断絶したいと思うときだ。

借金、こじれた人間関係、過大な責任、暴力被害等々、極まった困窮状態に追い込まれた人には、「それまでの人生のしがらみを一切断絶したどこかで生き直したい」と思う時がある。そして、そんな未来が想定内にある読者にとって、「ホームレスという生き方を成立させる人々のテクニック」は、本当に「いざのいざ」というときに役立つ実用情報としての需要があるのだ。

その視座に立てば、やはりホームレス当事者への取材は、裏稼業と同様に知的好奇心を大きく刺激するものだった。

彼らがもつ最大のライフハックは「真夏と真冬をどう超すか」と「収入と食事をどうやって調達するか」。彼らは「ホームレス」という状態であって「ジョブレス」ではないから、「固定の住所がない状況でどう糊口をしのぐか」というテクニックの達人でもある。

「住所もないのに携帯電話をどうやって手に入れるのか?」

そんなスキルですら、一般人からすれば目から鱗の新奇なネタだ。

さらに気象災害の乗り越え方、制度と人権のはざまで、行政と交渉して「公有地で寝泊まりする権利」を獲得するスキル、現金がなくなった際、病気になった際の立ち向かい方、そして「いつまでその生活を続けるのか、続けられるのか」に絡む、独特の達観や倫理感……。

彼らは、固定の住所に住む人が知りえない知識とメンタリティを持つ、いわば都市を生き抜くブッシュクラフトインストラクター(山野のサバイバル術講師)。人生の大先達のようにも思えたそんな彼らへの取材は、「自分より生存力のある人へのリスペクト」を常時覚える、純粋な「学びの喜び」に満ちた時間だったのだ。

どうだろうか?

実は僕は、今回の炎上した記事にも(炎上後に修正を加える前の原稿ですらも)、彼らの生き抜く術に対する好奇心や、その技術に対するリスペクトを感じることができた。

これが、僕の感じた「苦みを伴う懐かしさ」の正体だ。

「一歩踏み込んだ先」にあるもの

もちろん、今回炎上した記事は、全然褒められたものではない。

僕は、この当該記事から唾棄すべき「見世物小屋的な露悪趣味」の悪意は一切感じ取れなかったけれども、だからといって「肯定もできない理由」が大きくふたつある。

まずひとつは当該記事の書き手が、記者として求められる「一歩踏み込んだ先の客観視と深化」という境地に、至っていなかったことだ。

「普段深く知ることのなかった彼らの生きざま」「彼らなりのライフハック」の紹介という段階で浅い記事にしてしまった理由が、この記事に漂う空気からとても良く読み取れた。というか、書き手が「彼らの生きる河川敷の陽だまりの温かさと、そこに流れる穏やかな空気」をきちんと吸ったから、逆にそこまでしか吸えなかったから、このような記事にしてしまったのだ、というのが僕の率直な見解だ。

どういうことか。

そもそも本来、ホームレスという状況は、僕が主な取材対象としてきた裏稼業人と比較にならないほど表の社会から深く断絶し、また自ら表社会を深く拒絶した者のたどり着く先だ。そして彼らが「命がけの冬越しなんてことを考えずに済む市民生活」を諦めたり、そこから追い出されたりした個人史は、ときに正視できないほど哀しく切なく、事情が複雑に絡み合って答えの出ない地獄のような世界だ。

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だからこそ、ホームレス当事者のコミュニティでは、自身の過去の辛い部分は敢えて語り合わないことを暗黙のルールとしている。

そして当該記事の記者は、間違いなくこの「過去を語らないことで、今の穏やかさを優先する彼らの空気」、河川敷の陽だまりにある独特の共感に、きちんと踏み込んでいるように見えるのだ。

たしかに踏み込んではいる。河川敷の勝手菜園で採れたトマトの青い香りや、菜の花の黄色を見てしもやけの痒さと戦わずに済む季節の訪れを予感する冬の朝。記事の文章からは、かつて僕も感じた「その場でしか知りえない空気感」が漂っている。

けれど、踏み込んで、その空気を吸って共感し、そのまま吐くように文字にしたら「河川敷の優しくてすごいオッサンたち」止まりの記事になってしまった。今回の記事は、そういうものだと、僕には感じられた。

「肯定はできない」と感じるのは、書き手として求めたいのが、この「踏み込んだ先の一歩」だからだ。

共感から一歩踏み出して客観の視座に立ち、彼らの背景にある正視しがたい「喪失の過去」に思いを馳せること。当事者と共に、その答えの出ない苦しさに向き合う覚悟を持つに至るまで、自身を追い込むこと。もし彼らが重い口を開いてくれたのなら、その思いを背負って、選びに選び抜いた言葉でなければとても書けないと自身に課す、そんな境地だ。

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そりゃ、楽なはずない。つらい。傷つけられることもある。絶対傷つく。極めて重責でもある。

けれど物書きをするなら、まして古傷まみれの彼らが作り出す「どの傷にも触れない」穏やかな空気を共有するところまで行った者ならば、そこまで背負えよ。それが取材者の責任。

批判する外野の無責任さ

けれど、当該記事の書き手は、しっかりその入り口に立っていると僕は感じた。そのことは、評価したい。

配慮がない、深みがない、稚拙な好奇心で書いた日記のよう。ネットじゃ散々な言われようみたいだけど、そんなことは大した問題じゃない。

ホームレスの当事者を描きたいのならば、書き手として大切なのはまず「その河川敷や橋梁下の空気を共有する」に至ること。基本的なモチベーション、取材対象者と築く信頼関係、空気の共有。そうしたものが書き手の資質なのだから、それらを持っていると思われる当該記者に求めたいのは、今後当事者にどこまで踏み込み、関わり、どの立場で文字を書いていくかという覚悟だ。

少なくともTwitterあたりで炎上させている人々の中のどれほどが、この資質に至っているだろう。河川敷や路上でおじさんたちと飯を分け合ったりごちそうになった経験はあるか。

そうした意味で、やっぱり肯定はできないけれど、無責任な外野よりはよっぽどマシだというのが、僕の思う結論だ。

今後に期待する。

成長途中のWEBメディアの責任

一方、僕が「肯定もできない」と感じたふたつめの理由は、この記事が「WEB媒体」に掲載され、それを運営主体のcakesが表彰対象としたことだ。こちらの方が肯定できない度合は大きい。

店頭で選んで手に取って購入するという任意購買のスタイルが主流な紙媒体の場合、最悪前述した「見世物的な露悪趣味」の記事ですら、それを書きたい層と読みたい読者の間だけで成立する。僕が書き散らしてきたような裏稼業ライフハックの雑文も同様に、実用性を求める読者との間で成立する。今回のホームレス探訪記も(文章の技巧レベルは別にして)テーマ的にはアリだろう。

けれどWEB媒体は、読み手の任意性が紙媒体とは全く異なっている。各WEB媒体は独立したものだが、それがニュースサイトに転載されることで、今やどんな記事でも不特定多数の誰かの目に「なかば強制的に入ってくる」システムだ。その扇情的な見出しだけで傷ついた経験は僕にもあるし、それはかつてはなかった形の「文字の暴力」になりうるだろう。

問題はここだ。

選択的購読ができない性格上、本来WEB媒体に掲載される記事は、紙媒体以上に情報の質、洗練度、公開するべきか否かのジャッジについて、厳しさが求められてしかるべき。にもかかわらず、現在そこでは「編集者不在」「デスク不在」の状況が放置されているように思えてならない。編集者もデスクもいるなら、彼らの査読力や校閲力の欠如がまかり通っているのだろう。

今やWEBメディアは立派なメディア、というかメディアの頂点と言っても過言でない。

ならば今回のケース、本来cakesがこの記事に着目した時点で、この記事のままでは文章力も記事内容も「商品レベル」「公開レベル」ではないことを指摘し、どのように再取材し、どのように加筆し、最終的にどの程度のクオリティのものに仕上げるか、著者と共に考えつつ指導するべきだったのではないか。

そして改稿が条件を満たした段階で、初めて選考対象となり、受賞すれば表彰される。そういう流れであれば、きちんと多くの読者の心根に響く記事になったのではないかと思うのだ。

ただし、「否定する」ではなく「肯定もできない」と感じたのは、今回の件で「これだからWEBメディアはダメだ」ということでも全くないと思うからだ。これはcakesに限った話ではなく、多くのWEBメディアにも言えることである。

21世紀になってもうちょっとで四半世紀という今、1970年代や80年代に刊行された前世紀の雑誌メディアに目を通すと、あまりの自由さと、編集と書き手のレベルの低さに、失笑を通り越して呆然としてしまうことがある。

リテラシーだけでなく、文章のレベルにおいても「稚拙」と言えるような記事が、時代を代表する名だたる大手出版社の何十万と部数を出す雑誌に堂々と掲載されていた。戦前戦後の新聞メディアにしたって、同様だ。じっくり読めば、大手新聞の紙面から知的レベルを疑うような記事やデマゴーグまがいの言説がボロボロこぼれだしていたことに驚くだろう。

つくづく思うのは、文字メディアとは、読者・書き手・編集者・発行者が相互に作用して、試行錯誤を繰り返しながら「共に育っていく」ものだということ。昨今のWEBメディアからは、紙媒体が若く稚拙で勢い任せだった時代に共通する空気があるし、今回のcakesの騒動にしても、かつての露悪サブカルメディアの自省が伝わってなかったに過ぎないようにも感じる。

WEBメディアもまた、成長の途上。けれど、選択性が高いように見えて、実は「その情報を見たくない層にも強制的に届く」という媒体の特性上、その進化と成熟はかつての紙媒体より速やかに為されるべきだろう。

WEBに公開される文字メディアは社会資本であり、公共の財産であり、時にライフラインにすらなりうる貴重なものだ。批判することや嘆くことは簡単だが、炎上という現象で読者がメディアの育ちを阻害することもまた、「公共の利益を害する」ことであるという視点を忘れずに、読み手と作り手の双方で洗練を目指したいものである。

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