本当は短大卒の父が、家族にまで「国立大卒」と偽っていた事情

本当は短大卒の父が、家族にまで「国立大卒」と偽っていた事情

  • 現代ビジネス
  • 更新日:2018/02/15
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緊急手術をすることになった70代の父。駆けつけた「ぼく」に、母の口から明かされたのは、思いもよらない父の過去と、腹違いの兄の存在だったーー。

現役証券マンにして作家の町田哲也氏が、実体験をもとにつづるノンフィクション・ノベル『家族をさがす旅』。「ぼく」は父・道良の人生をたどり直すため、父の姉妹に話を聞きに行くことにした。

第1回「危篤の父が証券マンのぼくに隠していた『もうひとつの家族と人生』」

第2回「父の緊急手術の最中、証券マンのぼくは『異母兄』の存在を知った

〈登場人物〉

ぼく……大手町に本社をおく大手証券会社に勤める証券マン。40代で、妻子あり。会社勤務の傍ら小説を執筆し、単行本も刊行している。

父……名前は町田道良。78歳。2017年8月、緊急入院し手術を受ける。小さなパン屋を長年営んできたが、家族に暴力を振るう一面があり、10年前に妻(=「ぼく」の母)と離婚。3年前に生活に行き詰まると、再び妻のもとに身を寄せていた。実は若い頃、別の女性と結婚し息子をもうけていた。

町田稔……道良の父(=「ぼく」の祖父)。国鉄に勤めていた。

町田さえ……道良の母(=「ぼく」の祖母)。

聡子・千賀子……道良の姉と妹。

父の人生を知る「最初の手がかり」

小さい頃の父の話を聞くうえですぐに思いついたのが、聡子と千賀子という2人の姉妹だった。一番下の妹である千賀子は、N市の実家に祖母と暮らしていたこともあって、何度か挨拶したことがある。一番上の姉の聡子に会うのは、法事くらいだった。

高校を卒業するまでの父の姿は、姉妹それぞれに別の姿が残っている。姉にとって父はかわいい弟であり、妹の千賀子にとっては怖い兄だった。ぼくはそれぞれの家を訪問することにした。

まずアポイントを取ったのは、姉の聡子だった。80代半ばということもあり、記憶がたしかなうちに話を聞いておきたかった。

JRからバスに乗り換えると、10分程度の距離にあるバス停まで迎えに来てくれた。年齢を感じさせない姿勢の良さで、はっきりとした話し方をする方だった。

周辺の住宅地は子どもがいなくなってガラガラだというが、静かな田舎町といった風情だ。高い建物がないため、青空が近く感じられる。夫は電機メーカーに長く勤めていたという、おっとりした方だった。

聡子は稔が死ぬ2年前に家を出たので、道良が家庭内で暴力をふるうのを見た記憶がない。道良が20歳のときだ。稔が元気だった頃は、父も怖かったのではないか。稔は厳しい性格で、明治人らしく規則正しい生活を旨としていた。

おはようございます、いただきますといった挨拶がなければ叱られたし、食事のときは必ず正座で、足を崩すと怒られた。西郷隆盛の血を引いているというのが口癖で、正月には書初めをしたのをよく憶えている。

稔は酒が好きで、陽気な一面もあった。ある晩、突然お客さんを家に連れてきたことがあった。家族も誰だか知らないが、すき焼きでもご馳走しろというので、精一杯もてなした記憶がある。

翌朝訊いてみると、偶然電車で知り合った人で、何の関係もないという。誰とでも仲良くなれる、明るい性格だった。

一方で、さえは躾の厳しい女性だった。内職で縫い物をしており、丹前をよく縫っていた。子どもたちの着物は、生地を買ってきて自分で縫ってくれた。しばらく1人で家計をやりくりしていたはずだが、聡子に家が貧しかったという記憶はない。

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Photo by iStock

聡子が家を出てから、父はどう見えたのだろうか。当時父が岩波映画製作所という映画会社でカメラマンをしていたことは、ぼくも断片的に聞かされていた。その頃に話を向けると、聡子は記憶をたどるような表情をした。

「そういえば、一度だけ道良が撮影したのに出たことがあったわね」

「映画ですか?」

「テレビコマーシャルだったような気がするけど、そうよね?」

聡子が思い出せないようで、隣に座る夫に訊いた。

「そうだったっけなあ」

「そうよ。ほら、みんなでテレビの前で映るのを待ってたじゃない。CMのモデルだったのよ」

「何のCMだか思い出せますか?」

「あれはね、どこか旅行に行くシーンだったんじゃないかしら。家族3人で、都内の駅まで行って撮影したのよ」

「3人っていうことは、子どもも一緒に?」

「そうよ。髪型をセットして、この人はスーツを着て準備をしたの。娘が5歳くらいだったから、1967年頃かしら。まだ家にビデオなんてなくて、放送される予定の日には、テレビの前でずっと待ってたの」

「間違いなく、CMですよね。何かの番組ではなくて」

「そうだったと思うけどね」

聡子は、つながりつつある記憶をそのまま並べた。ぼくは父についてはじめて得られた手がかりを失いたくなかった。

「そうよ。1週間くらい放送されてね、そのことを母にいったら、ものすごく怒られたの。何で道良からギャラをもらわなかったんだって。あの子はまた一人で儲けようとしてって、ずっと怒ってたわよ」

聡子にとって、それは道良が映像の仕事をした唯一の記憶だった。

「映画なんて儲からないよ」

父は岩波映画製作所に勤めていたことを、人生の誇りにしていた。まだ若い頃で、会社でも一番下だったのだという。羽仁進、田原総一朗、東陽一、土本典昭、小川伸介……父の口から飛び出てくる著名人の名前に、ぼくも心を躍らせたものだった。

ぼくが小さい頃、昔の映画関係の友人らしき人が家に来ては、壁にプロジェクターで映像を流したのを見た記憶があった。そのうちの一人である佐川啓二はとくに関係が密なようで、何度か家に遊びに来ては、「お父さんはすごい人だったんだよ」といっていた。

何がすごいのかはわからなかった。ただ父が尊敬されていることが感じられて、自慢げに思えた記憶がある。そんな父がなぜパン屋をやっているのかは謎だった。

「続ければよかったのに」

「映画なんて、儲からないもんなんだよ」

「そうなの?」

「こうやって家を買って暮らしていけるのも、映画を辞めてきちんと働いてるからなんだぞ」

父の説明を聞きながらも、ぼくは映画の仕事にあこがれる自分を隠せなかった。

父が経営していたのは、いたって普通の街のパン屋だ。新興の住宅地に近いので、顧客の大半は主婦層だった。

十種類程度の菓子パンと食パンとフランスパン。それにケーキが並べられたショーケースだけで、店がいっぱいになってしまう。一日に数万円の売上げがあれば上出来だっただろう。

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Photo by iStock

パン屋という平凡な仕事より、映画を作っているほうが父親として格好いいような気がしていた。売上げが伸びないことに文句をいい、出入りする業者といい合う姿を見ていると、パン屋が楽しいとも思えなかった。

どんな経緯があって、映画から遠ざかることになったのか。どんな作品を残したのか。関心はあったが、知ったところで現実が変わるわけでもない。むしろ余計なことをいって、父を怒らせるのが怖かった。父との関係が疎遠になっていくなかで、いつの間にか意識しなくなっていた。

姉妹にも暴力をふるっていた

千葉県N市で祖父母の墓参りをした際に、千賀子の家を訪ねたことがあった。父の実家でもある。千賀子は唯一の妹ということもあって、とくに父のわがままな姿を見ることが多かった。

父は千葉県内の県立高校を卒業している。地元の名門校で、入学したときは近所で話題になったらしい。

このときはじめたのがボクシングだ。祖母にはよく、目つきが悪くなったのはボクシングのせいだといわれていた。体力に自信があったのだろう。ボクシングを選んだのは、裸でもできるからだという。余計なことに金を使わないという価値観は、小さい頃から持っていたようだ。

子どもの頃の道良は、放任されることが多かった。親からすれば、女の子3人がかわいくて仕方ない。父はケンカっ早くて、何ごとも相談せずに自分で決める性格だった。

一緒に暮らしていたときの記憶で千賀子が鮮明に憶えているのは、高校生のときにスリッパで殴られたことだ。金がらみのトラブルだった。しばらく痣が消えず、千賀子は友だちに、階段から落ちたと嘘をついた。

1961年、道良が22歳のときに稔が死んでから、家庭内で暴力をふるうことが多くなった。

そんな父が困って最後に頼るのが、妹の千賀子だった。お金がなくなっては、当時勤めていた都内のデパートまで借りに来たものだった。借りるといっても、返してもらったことはない。断れば何をされるかわからない。とにかく怖いというのが道良の印象だった。

父がときどき、電話してくるときがあった。忘れたときにかけてくる。千賀子が憶えているのは、飲み友だちが死んだときのことだ。「死んじゃったよ」と、悲しそうにつぶやいた。死ぬのが怖かったのだろう。

父の本当の「学歴」

千賀子の話で最大の疑問は、父の学歴についてだった。父は千葉大学の出身だといっていたが、実際には法政大学だった。しかも短期大学部だという。

「そんなこと、聞いたことありませんでした」

「カッコつけたかったんでしょ」

「嘘ついたってどうしようもないのに」

「姉弟で唯一の進学組よ。どうしても行きたかったんじゃない」

千賀子は卒業式の後で、父が大事そうに卒業証書を家族に見せたときのことを憶えている。

学歴に対する劣等感はわからなくもない。子どもへの教育上の配慮もあったのかもしれないが、ぼくにはそこまでして自分の過去を偽ろうとするのが不思議だった。

ぼくは翌日、法政大学に父の在籍を問い合わせた。父の人生を、正確に把握しておきたかった。

後日受け取った証明書には、やはり短期大学部の卒業と書かれていた。商経科という経済系のコースらしく、当時は男子学生のほうが多かった。1961年4月に入学して2年後の3月に卒業しているので、2年制の通常の短期大学だ。

疑問なのは、21歳にして入学するにいたった背景だ。高校の卒業は1958年3月になっているので、入学までに3年かかったことになる。想像できるのは、浪人したもののあきらめて短期大学に入ったという流れだ。

短大なら2年で卒業だし、法政卒というキャリアも間違いではない。しかし当時の町田家に、そこまでの経済的余裕があったとは思えない。入学資金は自分で用意したのだろうか。

これまで知っていたはずの父が、どんどん遠ざかっていくような気がした。

(2月22日公開予定の第4回につづく)

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