
NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長の樋口恵子さんによる『婦人公論』の新連載「老いの実況中継」。90 歳、徒然なるままに「今」を綴ります。第4回は、【新しい世界を開く扉】です──。 (イラスト=マツモトヨーコ)
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今までの常識が、 知らないうちに非常識に
いつの時代も本は、私にとって新しい世界を開いてくれる扉でした。90歳になった今も、それは変わることがありません。
長く生きているとままあることのひとつが《常識》の変化です。かつて学んだことや知見も時代とともに変わり、自分が常識と思っていたことがいつの間にか非常識に――。知識が古くなっているのに気づかないということも生じてしまう。そんなとき、頭に刺激を与え、知識をアップデートしてくれる強い味方が本。つくづくそれを実感する出来事がありましたので、ぜひお伝えしたく思います。
昨年11月、私が理事長を務めるNPO法人「高齢社会をよくする女性の会」の全国大会が神奈川県小田原市で開かれました。テーマは「一円融合」。これはご当地・小田原出身の偉人、二宮尊徳の教えです。
正直、私はこの歳まで、二宮尊徳についてあまりよく知りませんでした。言葉は悪いですが、「食わず嫌い」の面があったのです。というのも、終戦を迎えたのが中学1年のとき。小学校時代は、集団疎開の半年を除いては毎日、学校の門をくぐるたびに薪を背負った像に一礼し、その次に「御真影」が祀られた奉安殿で最敬礼することを強制されていました。
尊敬すべき方が敬愛している尊徳、 どのような人なのか
戦争が終わると、戦前のすべてのことに対してあまりいい感情を抱けなくなったのは、私だけではないと思います。二宮尊徳に対してもしかり。「歩きながら本を読んだら転んじゃうわよね」などと、憎まれ口をきいたりしたものです。
「勤勉であれ」「親孝行せよ」という道徳の教えとセットとなって記憶されていることも、尊徳さんにとって分が悪いというか――戦争が終わってほっとして、もう少し自由で享楽的に生きたいという気持ちもあった時代です。なんだか古くさく、説教くさい感じがして、「尊徳さん、そんなに出てこないでよ」と、煙たく思う気持ちもありました。

(イラスト=マツモトヨーコ)
ところが、全国大会の共催者でもある社会福祉法人小田原福祉会の理事長・時田佳代子さんをはじめ、参加された市民のみなさんは尊徳を尊敬し誇りに思っていました。2022年に94歳で亡くなられた同法人の会長・時田純さんは、「介護で市民を困らせない」「人は人として存在するだけで尊い」という理念のもと、すばらしい高齢者福祉事業を実践なさっていた方。大会では、潤生園という高齢者施設の見学プログラムもあったので、私も同行、その運営のすばらしさに大感激したのです。
そんな尊敬すべき方が敬愛している尊徳とは、本当のところどのような人なのか。共催するからにはきちんと知るのが礼儀だろうと思い、尊徳に関する本を3、4冊買って読むことにしました。
尊徳さんと、 80年ぶりの再会
かくして約80年ぶりに二宮尊徳さんと再会することになった次第ですが、ページをめくりながら、「へぇ~っ、すごい!」と感心し、「これほどすごい人だったとは知らなかった!ごめんなさい」と謝ることしきり。わが身の無知と偏見を恥じる気持ちになりました。
江戸時代末期、農民出身の尊徳は荒廃した農村を再建するため、民主的な事業体による立て直しを実践し、村を再生させました。今でいう協同組合をつくったのですね。その手腕を買われ、藩の家老職を務める家の財政立て直しも命じられ、見事成功。これが評判を呼び、小田原藩の財政立て直しも命じられます。いわば地方再生の先駆者と言ってもいいようです。
なかには、尊徳が農民の出であるのに重用されることを妬み、足を引っ張ろうとする人たちもいました。しかし、今でいうところのマーケティングリサーチを徹底して行い、資料をきっちり揃えてぐうの音も出ないプレゼンをし、次々と改革を実践していきます。その方法論たるや、実に合理的で近代的です。また、身分制度が厳しかった時代なのに、身分が上の人に対しても忖度することなく自分の考えを表明したようです。経済人としてすぐれていただけではなく、時代を先取りした思考の持ち主であることもわかりました。
無教会主義を唱え、明治・大正時代に多くの人に影響を与えたキリスト教思想家の内村鑑三も、『代表的日本人』という著書で、日本を代表する5人の1人として二宮尊徳の名を挙げています。内村鑑三といえば平和主義を標榜し、戦争反対を訴えたことでも知られています。尊徳は、そういう人物からも一目置かれる存在だったのです。ちなみに内村鑑三は、尊徳が女性に対してフェアだったことも評価しています。
人を評価するのに 先入観は禁物
もしかしたら二宮尊徳は、戦争中、学校教育でもてはやされたことで、ちょっと損をしているかもしれません。なにを成し遂げた人なのか知らずに、戦前の軍国主義教育と結びつけ、イメージだけで敬遠してしまう人もいるでしょう。
人間を評価するのに先入観を抱いてはいけないと、改めて肝に銘じました。長寿時代だからこそ、「へぇ、そうだったんだ!」となにかを再発見する愉しみがあるものだと、つくづく思った次第です。
冒頭で紹介した「一円融合」についてひとこと。これは、「すべてのものは互いに働き合い、一体となって結果が出る」という思想とのことです。小田原大会では、この思想がこれからのまちづくりの理念であると捉え、テーマとして掲げたそう。そんなわけで90歳にして新たな学びの機会をいただけたことに、おおいに感謝しています。
樋口恵子