源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【八】

源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【八】

  • Japaaan
  • 更新日:2020/09/16
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源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【七】

おごり高ぶる平家一門を討伐するべく挙兵した源頼朝(みなもとの よりとも)に付き従った北条義時(ほうじょう よしとき)は、数々の困難を乗り越えて鎌倉に入り、坂東に勢力基盤を築き上げます。

そんな中、頼朝の浮気が発覚して妻・北条政子(まさこ。義時の姉)が激怒。実家の北条一族を巻き込んだ壮絶な夫婦喧嘩の挙げ句、一時は鎌倉が分裂しそうな大騒動に発展。

……幸い事なきを得たものの、平家討伐の戦いはまだ始まったばかり。こんなところで内輪揉めをしている場合ではないのでした……。

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長男・泰時の誕生、そして平家の滅亡

さて、気を取り直して武勲を目指す義時でしたが、鎌倉分裂の危機を回避した一件以来、なかなか頼朝が手元から放してくれません。

「あの、それがし戦さ働きを……」

「よい。そなたが我が傍らにおることこそ、何よりの忠功じゃ」

「……はぁ」

よっぽど北条一族に見放されるのが怖いのだろうな……それならば妻(姉の政子)を大切にし、浮気などせねばよいのに……そんな事を思っていた義時も寿永二1183年、長男の北条泰時(やすとき)が誕生しました。

しかし、まだ結婚はしておらず、母親の阿波局(あわのつぼね)はその出自も不明となっています。

(※史料を見る限り、阿波局と明記された女性は父・時政の娘つまり義時の異母妹と、佐々木高綱の孫娘がいますが、前者だと近親相姦になってしまいますし、後者はまだ生まれていないため、また別の「阿波局」がいたのでしょう)

要するに庶子(私生児)ですが、それでも我が子の可愛さに、嫡子と何の違いもありません。

「おぅ、よしよし……金剛(こんごう。泰時の幼名)よ、父は必ず手柄を立てて、鎌倉一の御家人になるからな」

そんな義時の願いが通じたのか、元暦二1185年に源範頼(みなもとの のりより。頼朝の異母弟)の軍勢に加えてもらい、都落ちした平家を追う九州上陸作戦(蘆屋浦の合戦。2月1日)に臨みます。

いっときは兵糧の不足に苦しんだものの、四国戦線で奮闘していた源九郎義経(くろうよしつね)らとの連携もあって勝利を収めました。

壇ノ浦の決戦を制した義経たち。『平家物語絵巻』より。

そして運命の3月24日。後世に伝わる「壇ノ浦の合戦」では、範頼と共に陸地を押さえて平家の軍勢を海上に締め出します。それを義経らの率いる船団が討ち滅ぼし、ここに治承四1180年から始まった「源平合戦(治承・寿永の乱)」に終止符が打たれたのでした。

功に驕る義経、周囲との確執を深める

こうして見ると非常にあっけなく、また義経の華々しい活躍に比べて非常に地味な印象ですが、義経の奇襲は平家の本隊を範頼たちが釘付けにしていたからこそ成功した側面も強く、義経一人の功績とするのは、いささか判官贔屓に過ぎるようです。

軍記物語『平家物語』などでは範頼たちはロクに戦いもせず、兵糧不足にも関わらず陣中で酒宴三昧だったかのように描かれていますが、それは義経を引き立てるための脚色である可能性があります。

しかし、義経は実際に「平家を滅ぼした第一の功名は自分にある」と考えており、その言動が周囲の御家人たちから疎まれ、頼朝も頭を悩ませていました。

「あやつは目の前の敵を倒すことこそ長けておるが、全体を見据えた戦略というものを知らぬ……」

義経としてみれば「もっともっと手柄を立てて、兄上に喜んで欲しい!」という純粋な思いから出た振る舞いだったのかも知れませんが、頼朝は個人的なスタンドプレーよりも、団結や協調性を重視していました。

「そんな事を言ったって、蒲の兄者(蒲冠者=範頼の別名)の窮地を打破できたのは、この九郎の働きがあったからでしょう!?」

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派手なスタンドプレーで手柄を立て、頼朝に喜んで欲しかった義経だが……『源平合戦図屏風 一ノ谷』より。

では、最初から義経だけで平家をことごとく討ち滅ぼせたかと言えば甚だ疑問であり、やはり御家人みんなの連携プレーによって初めて勝利を勝ち取れたのです。

それを説き、義経を諫めた梶原平三郎景時(かじわら へいざぶろうかげとき)はまるで悪役のように言われがちですが、それはみんなの本音であり、頼朝の弟であるが故に忖度して言えないからこそ、景時が嫌われ役を引き受けていたのでした。

「よいですか。我らの勝利は佐殿の勝利であり、我らみんなの勝利であって、誰が手柄を立てたのどうのという小我(視野の狭い、小さなこだわり)にとらわれ過ぎてはなりませんぞ」

もし、義経にこうした苦言を聞き容れる度量があれば、その運命もまた違っていたかも知れません。

そんなやりとりを目の当たりにして、また頼朝の傍近くに仕えていた義時は、頼朝が何を好んで何を嫌い、また武士という生き物がどのように動くのか、動かせるのかといった、ある種の帝王学(大将学とでも言うのでしょうか)を身に着けていった事でしょう。

滅び去った義経と、これからの課題

その後、頼朝の真意を汲みとることなく義経は暴走を続けて周囲から孤立し、ついには後白河法皇(ごしらかわほうおう)に対して兄・頼朝の討伐を命じさせます。

「……九郎殿は、完全に(後白河法皇に)取り込まれてしまいましたな……」

事ここに至って看過できなくなった頼朝は、御家人たちに義経の討伐を命じます。もちろん、義経に謀叛を暗にそそのかした朝廷に対する脅しも忘れてはいません。

一方の義経は、人望のなさから呼びかけに応じる者も少なく、わずかな供を連れて京の都を脱出。時は文治元1185年11月3日、壇ノ浦に平家を滅ぼし、凱旋してからわずか半年余りの栄華でした。

さて、都を追われた義経は奥州一帯を支配している藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)を頼って落ち延び、それを討つべく頼朝が朝廷の後白河法皇に義経討伐の宣旨(せんじ。命令)を求めましたが、大切な手駒を失いたくない後白河法皇は、なかなか首を縦に振りません。

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奥州の覇者・藤原秀衡。義経のためなら十万の兵をも動かし、我が子以上に可愛がったが……。毛越寺蔵「三衡像」より。

「困ったのぅ……このままでは大義名分のない私闘となってしまう……」

朝廷の許可がないまま義経を討つべきか否か……喧々囂々(けんけんごうごう)と議論が紛糾する中、大庭平太郎景義(おおば へいたろうかげよし)が口を開きました。

「……『六韜(りくとう。古代中国の兵法書)』には『軍中の事は君命を聞かず、皆将より出づ(軍中之事、不聞君命、皆由将出:立将第二十一)』と申します。御殿は天下を平らげるべく鎌倉に陣を布いている総大将なれば、戦場(いくさば)の判断については、必ずしも朝廷の命を待つ必要はございませぬ」

おぉ……流石はインテリ、頼朝の願望に上手く根拠づけして、「朝廷のお墨付きなしで義経を討つ」という心理的ハードルをグッと下げてくれました。

「ナイスだ平太郎……その手で行こう!いざ出陣じゃ!」

後から朝廷に抗議を受けた時の言い訳が出来たので、頼朝たちは意気揚々と奥州征伐の兵を興し、義経はもちろん、義経を匿った奥州藤原氏(秀衡は病死、その嫡男・藤原泰衡ら)も討ち滅ぼします。

※余談ながら、実は義経が生きていたという説もあるようです。

身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【上】

身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【下】

この奥州征伐には義時も従軍しましたが、これと言った武功はなく、景義の当意即妙な進言を自分が出来ていたら……と、少し悔しく思うのでした。

頼朝の意を酌(く)み、実現していく。そういう経験の一つ一つが後に「武士の世」を築くビジョンを育て、それを裏づける頭脳を鍛えていったのですが、この時点では、まだまだ修行が必要な義時でした。

【第一部・完】

※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫、2019年10月
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年12月
阿部猛『教養の日本史 鎌倉武士の世界』東京堂出版、1994年1月
石井進『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』平凡社、2002年11月

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