『LEAN IN』はどこからやってきた? フェミニズム的ビジネス書がベストセラーになった背景

『LEAN IN』はどこからやってきた? フェミニズム的ビジネス書がベストセラーになった背景

  • wezzy
  • 更新日:2022/05/25

フェイスブックのCOOであるシェリル・サンドバーグが2013年にネル・スコヴェルの支援を受けて執筆し、刊行した『LEAN IN――女性、仕事、リーダーへの意欲』(日本語訳も同年日経BPより刊行、2018年に日本経済新聞出版にて文庫化)はベストセラーになり、フェミニズム的なビジネス本として大きな影響力を持つようになりました。

刊行当時は大企業でもトップレベルの職にある女性が「いまこそ私は、誇りをもって、自分をフェミニストと呼ぼう」(訳書p. 254)と自己規定するような本は珍しく、それだけで話題になったのです。

本書は仕事で成功したいと考えている女性に対してさまざまなアドバイスを提供し、フェミニズム的な考え方を受け入れて、後に来る人々のためによりジェンダー平等が達成された職場を作ろうということを主張しています。

手厳しい批判

しかしながら、『LEAN IN』に対しては刊行当時から批判もあり、そうした批判は経済や社会の変化とともにどんどん強まってきています。ミドルクラスの白人で、仕事で出世したいと思う女性だけをターゲットにしたものであり、結局は企業に都合が良いだけの著作だというのが主な批判でした。ベル・フックスは刊行後にこのような観点から批判を行い、サンドバーグを「えせフェミニズムの新しい顔」と呼んでいます。

富の偏在や大企業による非倫理的な営業方法がより大きな問題になり、さらにフェイスブックについてケンブリッジ・アナリティカをめぐるスキャンダルが発覚して以降、本書と著者であるサンドバーグの評価は非常に低下しました。

ハーヴァード大学の教員で監視社会を専門とする研究者のショシャナ・ズボフは、サンドバーグがフェイスブックの問題行動に関与したことを手厳しく非難しています。シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザーによる『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院)は、サンドバーグは「職場での搾取と社会全体における抑圧を司る仕事が、支配階級の男女によって等しく分担される世界」(p. 11)を目指す企業中心的な資本主義の標榜者であると批判しています。

こうした手厳しい批判には頷けるところも多いのですが、一方で私が研究者として興味があるのはまったく別のところです。なぜ『LEAN IN』はこんなに流行って、そして文化的にはどういう影響力を持ったのでしょうか? 現在行われている『LEAN IN』批判には、そうした文化的背景への目配りはあまり無いように見えます。この記事では、『LEAN IN』の流行の理由と影響を出版文化の観点から考えてみたいと思います。本記事は前編と後編に分かれており、前編では『LEAN IN』が出てきた背景を探ってみたいと思います。

ビジネスと自己啓発

誰かがジャック・ウェルチ(あるいはウォーレン・バフェット、もしくはドナルド・トランプだって)のベストセラーを手に取って、それが家族の生活のためにいくつもの職をかけもちしなければならない労働者階級の男性たちに同情的でないと不満を言ったのは、いつが最後だったろう? (Elizabeth Spiers, ‘Beware of Broken Glass: The Media’s Double Standard for Women at the Top’  The Verge, 6 March 2013、翻訳は『バッド・フェミニスト』訳書p. 377より)

『LEAN IN』はビジネス書です。上の『ザ・ヴァージ』からの引用でエリザベス・スピアーズが明確に述べているように、ビジネス書というのはそもそもドナルド・トランプのような男性の企業家が、多くは男性の読者を想定して書いて売るものでした。この記述が示唆しているように、サンドバーグのような女性の企業家がビジネス書でヒットを出した先例はそれほど多くはないのです。

完全に一致するわけではないのですが、ビジネス書は所謂自己啓発本と重なるところがあり、読んで自分の仕事に生かすための本です。アメリカ合衆国における自己啓発本の市場は拡大しており、2013年から2019年までで倍近くなったと推定されています。『LEAN IN』も書店や書評などではself-help、つまり自己啓発の本の一種として認識されていました。

このように活況を呈しはじめていた自己啓発本市場ですが、ビジネス業界、とくにIT業界で成功した女性が書いた自己啓発系のビジネス本というのは2013年時点ではあまり存在しませんでした。前例としては、ライフスタイル企業の経営者であるマーサ・スチュワートが2005年に、自分の経験や失敗談を交えつつ、主に女性向けにビジネスや社交のコツを語る『マーサの成功ルール』(日本語訳は2006年にトランスワールドジャパンより刊行)を出しており、これは意外と『LEAN IN』にテイストが似ています。しかしながらフェミニズム色はあまりなく、また伝統的に女性の家事に結びつけられやすいと考えられるライフスタイル業界を扱ったものでした。

『LEAN IN』は自己啓発本の市場が伸び始めているところに、これまで自己啓発的なビジネス本のターゲットとして見なされていなかった女性読者を対象とする、女性企業家が書いた本として登場しました。一見したところでは新しい動きのように見えますが、実際のところ、女性読者はこれ以前から自己啓発本じたいには親しんでいました。

1992年にジョン・グレイの『男は火星人女は金星人』がヒットしており、女性向けに恋愛論や人間関係を説くような自己啓発本がかなり流行しました。1990年代に英語圏で作られた小説やドラマなどを見ていると、女性登場人物が自己啓発本を読んでいる描写がよくあり、これはそのあたりの事情と反映と考えられます。

1990年代のアイコニックなヒロインであるブリジット・ジョーンズは、1992年に出たジョン・グレイの『男は火星人女は金星人』(日本語訳は2005年にソニーマガジンズより刊行、なお最初に刊行された時の日本語タイトルは『ベスト・パートナーになるために』)などの自己啓発本にハマっていますし、1996年に放送されたアメリカのドラマ『フレンズ』シーズン2第19話では3人のヒロインが全員Be Your Own Windkeeperというフェミニズムっぽい自己啓発本に夢中になっています。『女になる方法』(日本語訳は2018年に青土社より刊行)の著者であるキャトリン・モランも述べているように、自己啓発本を読む文化系女子というのは1990年代の定番でした。

そうした自己啓発本に既に慣れていた女性読者が『LEAN IN』のようなビジネス書を受け入れたのは自然な成り行きと考えられます。既に出版市場は準備ができていました。1990年代に『男は火星人女は金星人』を読んでいたブリジット・ジョーンズのような女性たちは、2010年代には職場や家庭で20年前とは違う種類の問題に直面し、おそらく『LEAN IN』を手に取るでしょう。娘とか女友達にも貸して読んでいたかもしれません。

テクノロジー業界の埋もれた女性たち

一方で『LEAN IN』がテクノロジー業界についての本だったということも重要です。IT業界は技術革新や起業などに関心がある人のみならず、ゴシップ的な興味をも引くものとなっていました。IT業界の大物の伝記本などはいくつも刊行されており、2010年にはフェイスブックの創業を扱った映画『ソーシャル・ネットワーク』が、2015年にはApple創業者の伝記映画『スティーブ・ジョブズ』が公開されています。お金と才能が集まるシリコンヴァレーは下世話な興味の対象にもなっていました。

さらに2010年代は、フェミニズムの文脈からテクノロジー業界で軽視されていた女性の働きを掘り出す動きが加速した時期でもありました。2012年にはアメリカでコンピュータ業界の女性の歴史を追ったジャネット・アバテのRecording Genderが刊行されました。イギリスでは2000年代末から2010年代初頭にかけて、第二次世界大戦期に暗号解読の基地として使用されたブレッチリー・パークが博物館として整備され、そこで働いていた女性たちが注目されるようになりました。

こうした過去の掘り起こしが進む中、『LEAN IN』は、「多くの点でプログラマ、企業所有者、STEM専門家としての経験について語っていたより以前の世代の女性たちを想起させる」(Blair, p. 65、拙訳)ものとして受け入れられたのです。

こうしたわけで、『LEAN IN』が出版市場でヒットとなる条件は揃っていたと考えられます。しかしながらこうした条件ゆえ、『LEAN IN』はおそらく当初想定していた層よりも幅広い読者にリーチしました。

バイセクシュアルの黒人女性であり、フェミニストの文筆家であるロクサーヌ・ゲイは、先程のスピアーズの記述を引きながら『LEAN IN』を「女の子にとってルールはいつもそれぞれに違っているものだということを、改めて思い出させるもの」(p. 378)だと述べていますが、そもそも『LEAN IN』はビジネス書というかなり特定のターゲットを想定したジャンルに属する本であり、言ってみれば「ルール」を共有した読者層に向いた本です。それがいろいろな要因で売れすぎたとも言えるでしょう。

今回の記事は『LEAN IN』が売れた背景を考察しました。後編では『LEAN IN』がその後の出版に与えた影響について扱いたいと思います。本作は英語圏の出版界に相当に大きな影響を与えたと考えられます。

参考文献

アルッザ、シンジア、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー『99%のためのフェミニズム宣言』惠愛由訳、菊地夏野解説、人文書院、2020。
ゲイ、ロクサーヌ『バッド・フェミニスト』野中モモ訳、亜紀書房、2017。
サンドバーグ、シェリル『LEAN IN――女性、仕事、リーダーへの意欲』川本裕子序文、村井章子訳、日経ビジネス文庫、2018 [Sheryl Sandberg, Women, Work, and the Will to Lead, Knopf, 2013]。
シェーン、スコット・A『〈起業〉という幻想――アメリカン・ドリームの現実』谷口功一、中野剛志、柴山桂太訳、白水社、2017。
スチュワート、マーサ『マーサの成功ルール』槇原凜訳、トランスワールドジャパン、2006。
ハイルブラン、キャサリン『女の書く自伝』大社淑子訳、みすず書房、1992。
橋迫瑞穂『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』集英社、2021。
フィールディング、ヘレン『ブリジット・ジョーンズの日記』亀井よし子訳、ソニーマガジンズ、2001。
牧野智和『自己啓発の時代――「自己」の文化社会学的探究』勁草書房、2012。
牧野智和『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ』勁草書房、2015。
モラン、キャトリン『女になる方法―ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記』北村紗衣訳、青土社、2018。

Abbate, Janet, Recoding Gender: Women’s Changing Participation in Computing, MIT Press, 2012.
Blair, Kristine L., Technofeminist Storiographies: Women, Information Technology, and Cultural Representation, Lexington Book ,2019.

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