「離島診療はまさに命がけの仕事でもあった」戦後沖縄を支えた“阿嘉島の神様”西田医介輔の壮絶な日々とは《診療のため嵐の海を小舟で...》

「離島診療はまさに命がけの仕事でもあった」戦後沖縄を支えた“阿嘉島の神様”西田医介輔の壮絶な日々とは《診療のため嵐の海を小舟で...》

  • 文春オンライン
  • 更新日:2022/06/23

《38年にわたって医師ではない自分が島の健康管理に貢献してきたことを自負するとともに背筋が冷たくなる》

【画像】“阿嘉島の神様”西田医介輔の素顔

この言葉を残したのは、沖縄県にある離島・阿嘉島で医介輔として活動した西田由太郎さん(享年96)だ。

医介輔という言葉を聞き慣れない人も多いかもしれない。医介輔とは深刻な医師不足解消のため、戦後の沖縄で設けられた医療職で、当時の琉球列島米国民政府が日本軍の衛生兵など医療業務経験者に対して資格を与えた。6月23日に沖縄は「慰霊の日」を迎えたが、医介輔は沖縄における戦後の厳しい生活を支えてきたのだ。

戦時中、満州で衛生兵として陸軍病院に勤めていた西田さんは、医介輔としてアメリカ統治下時代の1953年から38年間に渡り、阿嘉島など沖縄の離島医療に従事した。島の診療所は医療設備なども限られている上、本島への急患搬送で今のようにヘリが使われることもない。そうした環境での医介輔としての生活には、多くの苦労があっただろう。

約60年の時を経て見つかったカルテの束

そのような日々が垣間見える診療カルテが、ことし2月、当時の診療所が入っていた建物内で発見された。現在はダイビングショップとなっているその建物の倉庫を、ショップのオーナーが掃除していたところ、およそ1万枚に及ぶカルテの束が約60年の時を経て見つかったのだ。

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発見されたカルテの束(筆者撮影)

「コロナでお客さんが減ってしまって時間ができたタイミングで、ほぼ手付かずだった倉庫を掃除していたら、古い新聞紙に包まれたカルテが大量に出てきたのです。西田先生のことは島の人から聞いてはいたが、島のために身を捧げられていたのだなと再認識しました」(ダイビングショップオーナーの吉村強さん)

現在、カルテは近隣の診療所の医師が管理を引き継いでいる。診療所の医師によると、見つかったカルテは1960年代のものが主で、患者の病状や訴え、病気の診断や処方薬など、当時の診察の様子が淡々と綴られているという。

西田医介輔とはどのような人物だったのだろうか。

西田医介輔の長男、吉嗣さんに尋ねると、「吾が人生の軌跡」と書かれた原稿用紙254枚を差し出した。

「この原稿は、父・由太郎が生前に残した自伝です。東京出身の父が、沖縄出身の母と出会って島へ移り、医介輔として島の医療を支え続けた記録が残されています」

自伝に克明に描かれていたのは、アメリカ占領下の沖縄・阿嘉島で医介輔として命懸けで診療にあたる波乱の日々だった――。

◆◆◆

西田さんは東京出身だったが、妻・ヨシさんの生まれ故郷である座間味島に移住した。1952年11月に医介輔試験を受験し、合格。座間味島の診療所に8年間勤務した後、隣にある阿嘉島の診療所の新設に伴い、阿嘉島へ移った。

東京出身で灰色の戦時下を生きた西田さんにとって、初めて目にした慶良間は楽園のようだった。座間味に来た際の印象をこう述懐している。

《深緑豊かな嶺々が大きく、羽でも広げたように、左右に雄々しく展開しており、その峰々を額区にして、あくまでも透明なコバルトブルーの海が広がり、奥深く変化に富む入江が何個所にも亘って形成されている様は、まさに自然美の最たるものである(中略)茅ぶきの大きな家が軒を連ねて立っている集落の様相は、まさに一幅の名画でも見ているようであり、感激の極みであった》

看護師の免許を持つ妻・ヨシさんと一緒に、診療所で働き始めた西田さん。しかし島に医師はおらず、一定以上の医療行為ができるのは自分だけ。初期の頃は思うようにいかない日々が続いた。

「免許を持っていない医者は信用できない」

西田さんは内科や外科のみならず、眼科や皮膚科、耳鼻科など全ての疾患に対応せざるをえず、《正規の医師であっても全科の診療はむずかしい。ましてや吾々医介輔に於てをやである》とこぼしてもいる。

現在、阿嘉島で介護ヘルパーをしている仲村竹子さんによると、医師免許を持たない医介輔で、東京出身の西田さんに対する厳しい目線も当初はあったという。

「『免許を持っていない医者は信用できない』『内地の人は口ばかり』という評価も正直あったんですよ。それでも、だんだんみんなから『神様』と言われるようになってね。『西田先生じゃないと私は診られたくない』という人もいたくらい。どんな患者さんに対しても、真面目に、真剣に取り組む姿勢が、そう感じさせたんでしょうね。

西田先生の机の手元には大きな医学書が置いてあって、どんな病気でも必ずその本で確認しながら診療していたの。その本には赤や青の書き込みがたくさんあって、手垢で汚れていましたよ」

重責から《急激に痩せていったのである》

当時の西田さんも、日々増していく島民からの信頼は感じていた。しかし島民の健康を一手に引き受ける責任の大きさは、想像以上だった。

《助けることの出来ない己の不甲斐なさ、無力さに、私自身懊悩するばかりであった。そうした思いが強烈なストレスとなって、胃部に異常を来すこととなり、食欲不振、胃部のもたれ感や胃痛などが出現し、急激に痩せていったのである》

一度は東京に帰って療養生活を送ったが、自分を頼りにする島の人たち、そして家族の存在が西田さんを島に引き戻し、支え続けたようだ。

《人情豊かな村人たちの温かい支援を受けて、ようやく、私たちは、立ち直ることができた(中略)もう迷いはない。この愛しい妻子のためなら、どんな犠牲を払ってでも、護り抜いていく覚悟を、固く決意したのである》

台風で大荒れだったある日、こんなことがあった。

嵐の日にやってきた「褌一本の青年」

《玄関戸を激しく叩く音あり、何事かと戸を開けたところ、そこに褌一本の青年が立っていた。そして子供が高熱を出して苦しんでいるので、向いのゲルマ島(慶留間島)まで往診してほしいと言うのである。こんな暴風雨の最中、海は大時化、とても往診できるものではない、無理だと断ったところ、「先生が行かないと家の子は死んでしまいます。昨日から40度の高熱を出しているんです。どうか助けてください」と、強く求められた》

聞くと、その青年は「適当な船がないので自分は泳いできた」という。海を隔てた慶留間島には診療所がないため、往診を求めての決死の来訪だった。西田さんは聴診器や薬が入った鞄は濡れないようゴム布で巻いて、青年が見繕ったという小舟に向かった。

《往診用の船はと見ると、船らしいものは無いが、墜落したアメリカの飛行機の付属品である補助タンクを改造した小舟のようなものが、浜辺にぽつんと置かれてあった。彼の青年はこれで渡ってもらいたいという。呆気にとられた私は、しばし無言のまま立ち尽くしていた》

西田さんは泳ぎが不得手だった。こんなタンク舟で荒波をわたることは不可能に思えただろう。「これが往診用の船かね」と言ったが、青年は泣かんばかりに声を震わせ、こう言った。

《「先生の命はこの私が必ず守りますから」》

青年の熱意におされ、意を決してタンク舟に乗り込んだ。波しぶきを浴びて船には海水が溜まり、全身すぶ濡れになりながら、青年と慶留間島を必死に目指したのである。

《荒れ狂う波の力は強く、タンク舟を押す彼の青年一人の力では前に進まない。こうなると私も腕も折れよとばかり櫂を漕いだ》

悪戦苦闘の末、2人は慶留間島に到着。解熱剤や抗菌薬を注射するなどの処置をして、男の子は無事に回復したという。

現在、離島からの搬送では、県のドクターヘリのほか、自衛隊や海上保安庁のヘリコプターなどが出動しているが、当時はそうした体制が整備されていなかった。医療者が命がけで体を張って、島の健康を守っていたのだ。

座間味島から患者が訪れたこともあった。

やってきたのは具合の悪そうな生後10カ月ほどの赤ちゃんを抱えた夫婦。1週間ほど発熱と嘔吐、下痢が続いているという。座間味島には診療所がある。なぜ阿嘉島に来たのか聞くと、座間味診療所に派遣されている医師に受診したが症状が良くならず、周囲の人たちから「阿嘉島の西田先生に診てもらいなさい」と勧められて来たのだという。

《これは一寸まずいと思った私は、座間味の先生には、阿嘉診療所に連れて行くと、ことわって来たのかと聞くと、何も言わずに来たというのである。派遣医の医師とはなるべく係わりたくないので、まずいとは思ったが、わざわざ船を仕立てて来所した人を、追い返すわけにもいかず、一応は診ることにした》

いまでこそセカンドオピニオンは当たり前の世の中だが、当時は事情が違っていた。その上、自分は医介輔であり “医者ではない”。医師免許を持つ隣島の派遣医の顔を潰すことになるという懸念もあったことだろう。

それでも診察をしたところ、その症状はかなり深刻だった。

2日間の絶食、点滴… 赤ちゃんの体調は?

貧血や頻脈、手足の冷感、筋肉の弛緩などを確認した西田医介輔は、重度の消化不良が引き起こされていることを疑い、那覇の小児科の専門医に診てもらうよう両親に伝えた。すると両親は、こう言って阿嘉島での診療を求め、懇願した。

《私の手では治すことはできませんと答えたところ、「先生が診てくれて、それでこの子が治らないなら、この子の運命はそれまでと思って私ども夫婦は諦めますので、どうか先生診てやってください。那覇に連れて行けと言われても、自分たちには那覇に連れていくだけの力がありませんので、すみません」と涙ながらの話となり、余計に困ってしまった》

沖縄では本土復帰前、国民健康保険の対象外で制度が整備されておらず、多くの住民は医療費を全額自己負担していた。当時の離島の住民にとって、診療所のほかに那覇の病院で診てもらうことは、ただでさえ安くはない診療費がさらにかさむ上、往復の交通費や滞在費がかかるなど経済的負担があまりに大きかったのだ。

小児科の専門医でもなければ、医師免許も持たない西田医介輔だが、またしても子を思う親心に応えようと決意した。その日から2日間の絶食、点滴を施したほか、嘔吐しないよう、食べ物として流動食、つぶし粥、おかゆ、野菜を徐々に増やして与えるなど細心の注意を払った。その結果、体温は正常に戻り、嘔吐もなくなり、赤ちゃんの体調は改善したのである。

阿嘉島で働くことになった「愛の物語」

《沖縄の無医地区に於て、医師でも無い私如き者が、「医介輔」という職名のもと、医師に代わって、医療行為を多年に渡り実施して来たことは、見る人から見れば、ナンセンスかも知れないが、当事者の私としては、正に命がけの任務遂行であった》

医師免許を持たない「医介輔」として医療行為を続けてきた葛藤と、危険にさらされながらも体を張って島の健康を守り続けた西田さん。38年に渡る離島診療所での勤務を終えた西田さんは、退職時に寄せた回想記で以下のように離島での生活を振り返っている。

《離島診療はまさに命がけの仕事でもあったのである(中略)心労と負担過重のため健康を損なうおそれすらあり、何度辞めようと思ったことか測り知れない(中略)しかし私は医介輔になって良かったと思っている。人間としての生き甲斐をこの職を通して深く知ることができた》

ところで、西田さんは東京出身である。遠く離れた沖縄の阿嘉島で、医介輔として働くことになったのはなぜなのか。そこには、戦後の混乱と、そこで知り合った妻との愛の物語があった――。

《戦後沖縄の離島医療》東京出身の青年が“阿嘉島の神様”になった愛の物語「清純にして容色もよく人並み以上。“一目惚れ”した女性に偽装結婚を申し込んで…」へ続く

(坂爪 航一郎/Webオリジナル(特集班))

坂爪 航一郎

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