
「佐原の大祭」は、「佐原の山車行事」として国の重要無形民俗文化財にも指定されている。写真は2016年撮影(写真:Duits/アフロ)
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されている「佐原の大祭」(千葉・香取市)。毎年7月の夏祭り、10月の秋祭りで、日本三大囃子「佐原囃子」の音色とともに、小江戸と呼ばれる町並みを山車が進む。歴史的資源を活用した観光まちづくりの成功事例として紹介されるが、一時は存続の危機もあったという。打開のヒントは古文書を読み解いて見つけた「歴史」にあった。
(*)本稿は『ヒストリカル・ブランディング 脱コモディティ化の地域ブランド論』(久保健治、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
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「このままでは、祭りもできないまちになる」
「お祭りが下火になってきてしまい、祭りがあるのは迷惑だというのが昭和60年ですよね。祭りなんか、もうやらない方がいいという人が多くなっちゃったんです」
佐原商工会議所顧問である小森孝一さんは、当時をこのように語る。小森さんは、大祭をまちづくりの原点とする運動の中心的人物。何よりも大祭を愛する佐原人。大祭があるところに小森さんありだ。そんな小森さんが本格的にまちづくりを開始したのは、自身が経営する会社の代表を務める一方で、東関戸地区の区長として大祭運営の中心を担うことになった時だった。

小野川沿いに美しい街並みが広がる(写真:アフロ)
佐原の大祭は、小野川両岸にある本宿地区が夏に、新宿地区が秋にと、それぞれが行う祭りの総称で、約300年の歴史がある。ユネスコ無形文化遺産に指定され、各町内がそれぞれの大人形を山車に載せた勇壮な引手と、和楽器のオーケストラと称される佐原囃子、山車の前で披露される手踊りが共演する山車祭りだ。今日では、夏と秋で40万人以上が来場している。しかし、小森さんが責任者の時は、状況が違っていた。
当時、国の機関から大祭に関するアンケート調査の依頼があった時のことだ。
「職員から『皆さん、どうなんですか、お祭りに対して』と聞かれたからさ、『いやあ、皆さん喜んでお金を出してくれていますよ』と、言ったんだ。そうしたら真逆の結果が出てきたわけだ。みんな、やめてもらいたいというのが圧倒的に多かったんだよ。職員から『小森さん、言っているの噓でしょう。みんな、こんなお祭りやめてもらいたいと言ってますよ』と(笑)。これは参ったなと思ってさ。
こんな金を使う馬鹿な祭りはやめてもらいたいと。それで危機感を持ったんですよね。こんなことをやっていたんじゃあ、祭りもできないまちになっちゃうねと。何とかしなくちゃいけない、これは」
大祭を愛する小森さんの中に生じた「祭りもできないまちになる」という危機感。祭りには特別な力があると思っていたが、当時は「佐原のまちづくりをやろう」という声がけをしても、「無理だ」「ダメだ」という否定の議論から始まり、誰も協力をしてくれる状況ではなかったという。
「祭りは観光のためのものじゃない」と反対の声
けれども、大祭の担い手たちは祭りの話になると俄然白熱して、各町内が競ってより良いものにしようとする熱に溢れていた。祭りは外の人間には、わずか数日のことだ。しかし、運営する地域にとっては、準備を含めてとてつもない労力が必要になる。祭りの運営には、経済力のみならず、人的ネットワークを含めた、まちの総合力が必要となる。このエネルギーをまちづくりと繫げられないだろうか。大祭をまちづくりの出発点にするという発想は、ここから生まれた。

毎年大勢の見物客が集まる。写真は2016年撮影(写真:アフロ)
出発点という言葉が重要である。まずは大祭を観光の目玉にする。それによって佐原が観光地として魅力的になっていけば、それを基にまちの産業が活性化していく。そのように小森さんは考えた。
「当時、観光というのは、人がたくさん集まっているところで団子を売るといった発想だったんだよね。でも、そうじゃない。観光を軸にしてまちづくりをする。産業を作る。こう思ったわけだ」
ところが、まちの反応は「そんな馬鹿なことあるもんか」というものだった。
頼みの祭りの仲間も多くは、「祭りはそもそも観光のためのものじゃない」「祭りを金もうけの道具にするようなことは間違っている」という反応。どちらも、大祭を愛し、もっと良くしたい、続けていきたいという気持ちは同じ。言い分も分かる。このままでは平行線をたどるばかりか、対立を深めることになるのは明らかだった。
「まちのみんなを集めてそういう話をすると、ほとんどが『お前、そんなこと言ったってできっこねえよ。やってみろ』と言うから、『じゃ、やってもいいんですね』って言った。すると、『やってみろ』って言うので、『よし、分かった。やりますよ』って、言葉尻をつかんで始めたんだよね」
とにもかくにも、始める準備はできたものの、完全なる手探りであった。敵は多いが、味方はほぼいない。そんな状況の中でどうすればよいのか。課題は山積みだったが、何はともあれ、まずはまちのみんなが納得する理由を考える必要があった。
現在の観光の目玉、小野川は悪臭で埋め立て案も
まちの意見をまとめるために、小森さん達がとったアプローチは、大祭と地域により深く向き合うことだった。それは、佐原の「歴史」への着目だ。歴史を学ぶ中で、小森さんの中でまちづくりのコンセプトが明確になっていく。
例えば、大祭とならんで現在観光の目玉になっている小野川。小森さんによれば、当時の小野川は「巨大排水路」のようなもので、みんなゴミは捨てる、水は濁るで、メタンガスのためひどい悪臭だったそうだ。埋めて駐車場にしてしまおうという計画すら持ち上がる状況だった。実は、小森さん自身も当初は駐車場に賛成していたそうだ。

今でこそ観光資源とされる小野川だが、かつての環境は劣悪だったという(写真:アフロ)
しかし、まちの歴史を調べる中で、小野川が大動脈になって江戸と繫がっていたことを改めて深く知ることになった。そして、とある企業役員にまちを案内した時に、「この川が江戸と繫がっていたんですね。小森さん、まちづくりをするなら、この川は残さないとダメですよ」と言われる。
その後、小森さんは「小野川を埋めてはダメだ。佐原の昔からの命綱なんだ」と主張し、清掃運動も開始する。まちの人からは「お前、この間まで埋めろ、埋めろ、って言ってたじゃないか、先頭に立ってたのに何だ」という批判もあったそうだが、「君子は豹変するんだ」といい返したそうだ。
歴史を学ぶ中で、小森さんのまちづくりが大きく変化したことが分かる。
話を大祭に戻そう。前述のように歴史全体を調査していたのだが、特に大祭については念入りに行っていた。当時、祭りの歴史は口伝以外に知る方法はないとされていたが、まちの神社に資料があるらしい、との情報を入手する。
歴史が対立から対話にいたる道を拓く
最初は「ない」との返事だったそうだが、「そういうものがあるらしいから、もう一度だけ調べてくれ」と引き下がらずに頼み込んだ。しばらくすると、宮司が奥の戸棚から分厚い大福帳をパンパンパンパンとほこりを払いながら持ってきた。パラパラとめくると、そこには祭りに関する記述があった。
「あっ、これだ」
小森さんは、祭りを運営する視点から、それが引継書であることを理解した。
過去の引継書とは、具体的な手順のみならず、先人たちの祭りへの思いを伝える資料でもある。そう考えた小森さんたちは、早速引継書を読もうとした。貸し出すことを渋る宮司を何とか説得し、数日間貸し出してもらう。そこから、みんなで手分けして一気にコピー。
ところが、さて読むぞとなったところで壁にぶつかってしまう。歴史資料において、古文書を読めるということ自体が特殊技術だが、実は単に古文書が読めるだけでは完全に理解はできない。
特に地域資料や私文書には、その時代や地域にとって当たり前すぎることは説明されていないことが多いからだ。これが、後世の我々が読むときに大きな課題となる。歴史から学ぶためには、その時代の空気を現代の我々が理解できるようにしなければならない。
「その引継書、文章が書いてあったと思ったら、突然、鶴が出てくるんだよ。鶴の絵が。その次に亀が出てくるんだ。『あれ? 何だろうな』と。その店の何か記号だね」
寺子屋で学んだ人が書いた、全国で比較的共通していた近世文書であれば、古文書を解読できる人は多いだろう。近年は、AIで解読する手法も出てきている。けれども、地域商店独自の記号だとすると、これは難問だ。地域のことを知っている人でなければならない。

初めて実測による日本地図を完成させた伊能忠敬は佐原に長年暮らした(写真:アフロ)
2年かけて古文書を読み解く
では、誰がそんな事ができるのか。それは郷土史家である。小森さんたちは、古文書が読めるのはもちろん、佐原の歴史に詳しい郷土史家や専門家などを交えながら、文書を丹念に読み解く作業を始めた。その期間は、2年にわたった。

小野川沿い並ぶ柳とガス灯(写真:アフロ)
文書を読み進めるうちに、だんだんと大祭の特性が見えてくる。もちろん神事ではあるが、屋台を曳く山車行事自体は付け祭りといって神社の祭礼とはある程度切り離されており、実施可否についても町内で決められるなど、まちの意向で決められる要素が大きかった。
なかでも小森さんが衝撃を受けたのが、次の記載だ。「大祭につき汽車賃及び各乗り物会社へ、祭日中、賃金割引、汽車・自動車増発の件、町役場、観光協会、商工会等へ宣伝応援の件」。祭りをやるので、集客のために交通機関の割引、増便を促し、役場、観光協会、商工会へ宣伝応援を頼めという引継ぎ内容だった。つまり、昔の佐原では祭りが商業振興として活用されていた歴史を突き止めたのだった。
なぜ、変化してしまったのか。はっきりとは分からないが、小森さん達は、戦争における公職追放などを含めた急速な変化の過程で、こうした引継ぎが行われなくなってしまっていたのだろうと考えている。
古文書によって大祭の特徴が分かってきた。対立する意見がありつつも、資料が共通基盤となることで、対話が成立するようになっていった。今までは、頭ごなしに「昔からそういうものだ」と否定してきたが、歴史的には商業振興としても活用されていたという事実が分かった。そうなると、今の佐原にとって大祭をどのように位置付けるべきなのかといった視点での対話へ場を変える事ができたのだ。
こうした話し合いを進めていきながら、「一回でいいから協力してくれ。終わった後の掃除から、色々な手続きや準備は全部こちらでやる」という熱意に対して、「一度ならいいよ」といって協力してくれる態勢ができあがりはじめた。

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久保 健治