名将・小嶺忠敏さんの功績 指導者としての原点は「焼山に行ってこい」

名将・小嶺忠敏さんの功績 指導者としての原点は「焼山に行ってこい」

  • デイリー新潮
  • 更新日:2022/01/15

「巨星墜つ」とは、まさにこのことを言うのだろう。

長崎県立国見高校を率いて全国高校サッカー選手権では戦後最多タイ記録となる6度の優勝を達成し、数多くの名選手を輩出した小嶺忠敏氏(長崎総合科学大附属高監督)が1月7日に肝不全のため長崎市内の病院で死去した。76歳だった。

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小嶺忠敏総監督

【写真5枚】”弟子”である大久保嘉人は、自身のインスタグラムでも小嶺監督を追悼した

小嶺氏が指導者の道に入ったのは、大阪商業大学を卒業した1968年のこと。母校の長崎県立島原商業高校に商業科の教諭として赴任し、サッカー部を指導した。

当時の島原商はすでに高校選手権出場10回を誇る強豪だったが、高校サッカー界は“御三家”と言われた広島県、静岡県、埼玉県に加え、山梨県の韮崎高、千葉県の習志野高、東京都の帝京高などが台頭し、島原商をはじめとする九州勢はベスト4の壁をなかなか破れなかった。

小嶺監督は、その巨体から「ダンプ先生」と呼ばれ、親しまれていた。しかし練習は超ハードで、指導は私生活も含めて厳しいものだった。

サッカーに限らずスポーツの基本にランニングがあげられる。島原商時代の小嶺監督は、島原駅からクルマで15分ほどのところにある焼山(やけやま)へのランニングをどの年代の選手にも課した。「焼山へ行ってこい」と。

それは国見高に異動してからも変わらず、市内から6キロほど離れた狸山(たぬきやま)への往復ランニングを課した。

痛い“才能流出”

この強化方法は、他の指導者も取り入れるようになった。小嶺監督が選手にハードワークを課したのは、当時の九州のレベルが低かったせいもあるだろう。テクニックでは静岡や埼玉勢に敵わない。となるとスタミナとフィジカルを強化するしかないからだ。

地図をご覧になっていただければわかると思うが、島原半島は鉄道網より自動車道の方が整備されている。そこで小嶺監督は自ら大型自動車の免許を取得して、中古のマイクロバスを購入。県内はもちろん九州から本州まで、1人で運転して強化試合に奔走した。

若かりし頃はランニングシャツ1枚にサンダル履きでバスを運転する小嶺監督の姿がテレビで取り上げられたものだ。それでも、九州の“タレント”流出を止めることはできなかった。

宮崎県日南市出身の早稲田一男氏(後に日章学園高の監督に就任)が帝京高に進学し、77年度の第56回高校選手権で優勝すると、彼に倣うように川添孝一氏(鹿児島県桜島町[現・鹿児島市]出身)も帝京高に進学し、79年度の第58大会で優勝する。

その後も平岡和徳氏(熊本県松橋町[現・宇城市]出身。現在は大津高の総監督)と前田治氏(福岡県福岡市)も帝京高に進学し、83年度の第62回大会で優勝するなど、優秀な選手が相次いで東京の帝京高に進んだ(その後も熊本小川町[現・宇城市]出身の礒貝洋光氏[元G大阪ほか]や福岡県北九州市出身の本田泰人氏[元鹿島]らも帝京高に進学)。

悲願の初優勝

もちろん彼らには彼らなりに特段の事情があって帝京高への進学を決断したのだろう。遠く親元を離れての生活には多くの苦労があったことは想像に難くない。そして当時の帝京高は、国見高に勝るとも劣らないハードな練習を実践していた。

元日本代表のOB選手によると、東京・板橋区にある学校から環七通りを走り荒川の河川敷に出ると、土手沿いに足立区を通り越して葛飾区まで延々とランニングが続いた。目的地が教えられていないため、黙々と走るしかなかったそうだ。そして折り返して学校の近くまで戻って来たと思ったら、学校に戻らず環七通りを通り越して荒川を北上することもしばしばだったという。

話を小嶺監督に戻そう。そんな流れに変化が起きたのは84年度の第63回大会で、島原商が帝京高と両校優勝ではあったが九州勢として初優勝を果たしたことだった。

すでに小嶺監督は国見高へ異動していたものの、チームを育てたのは小嶺前監督であり、島原商ベンチで教え子たちの活躍を見守っていた。そして九州の学校でも選手権で優勝できることを証明した。

温和な表情

そして国見高を率いて3年目、86年度の第65回大会で初出場を果たすと、決勝まで勝ち上がった。翌87年度に初優勝を飾ると、21年連続出場で優勝6回、準優勝3回の偉業を達成した。

育てた選手には、高木琢也(相模原監督)、三浦淳宏(神戸監督)、永井秀樹(前東京V監督)、大久保嘉人、平山相太(仙台大コーチ)ら日本を代表するFWも多い。永井氏は大分県大分市、大久保氏は福岡県北九州市から「ダンプ先生」の指導を受けるため国見高の門を叩き、全国制覇という夢を達成した。

高校サッカーを現場で取材することはほとんどない。このため小嶺監督と直接話をしたのは06年ドイツW杯で、日本の初戦が行われたカイザースラウテルン中央駅のホームで偶然お会いした時が最後だった。

小嶺監督と、鹿児島実業高(選手権優勝2回、準優勝3回。OBに城彰二氏、遠藤保仁、松井大輔ら)の松澤隆司監督(17年8月に逝去、奇しくも76歳だった)という高校サッカー界の重鎮であり、監督としてよきライバルである2人との遭遇だった。

小嶺監督の柔和な表情と、年下の記者にも敬語で話される謙虚さに、いつも恐縮したものだ。

高校サッカーに人生のほとんどを捧げ、100回という節目の高校選手権で監督という現役のままで天寿を全うされた「ダンプ先生」。心からご冥福をお祈りします。

六川亨(ろくかわ・とおる)
1957年、東京都生まれ。法政大学卒。「サッカーダイジェスト」の記者・編集長としてW杯、EURO、南米選手権などを取材。その後「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。

デイリー新潮編集部

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