「ひょうきん族」はNGも笑いに 山田邦子「ウケないことが一番のNG」

「ひょうきん族」はNGも笑いに 山田邦子「ウケないことが一番のNG」

  • AERA dot.
  • 更新日:2021/04/07
No image

山田邦子 (事務所提供)

ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子……そうそうたる顔ぶれが80年代の土曜夜のお茶の間を笑わせた伝説のバラエティー「オレたちひょうきん族」の放送開始から今年で40年。出演者の“証言”も交え、「ひょうきん族」の革新性を解体していきます。

【写真】閲覧注意?ひょうきん懺悔室「ブッチー武者」

*  *  *

昭和56(1981)年。フジテレビのバラエティー番組「オレたちひょうきん族」の放送がスタートした。

単発番組として数回放送された後、10月からレギュラー放送がスタート。ビートたけし扮する正義の味方「タケちゃんマン」と明石家さんま扮する「ブラックデビル」や「アミダばばあ」などの悪役怪人が戦うコント仕立てのコーナー「タケちゃんマン」をはじめ、「ひょうきんベストテン」や「ひょうきんニュース」「ひょうきん絵かき歌」など、数々の人気コーナーが誕生した。

島崎俊郎の「アダモステ」や安岡力也の「ホタテマン」、ビートきよし・松本竜介・島田洋八という、今で言う「じゃないほう芸人」による「うなずきトリオ」など人気キャラも続々登場した。

「ひょうきん族」の開始前、フジテレビの「花王名人劇場」「THE MANZAI」をきっかけに、B&B、ツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんちなど若手を中心とした“漫才ブーム”が巻き起こった。ブームの真っただ中の80年10月、フジテレビは月曜から金曜までのお昼の帯生番組「笑ってる場合ですよ!」をスタートさせる。司会のB&Bやツービート、山田邦子、紳助・竜介、明石家さんま、のりお・よしおらが名を連ねた。

お笑い評論家で江戸川大学教授の西条昇さんは、

「『THE MANZAI』でネタを、『笑ってる場合ですよ!』ではコーナーバラエティー、そして『ひょうきん族』でスタジオにセットを組んだコントバラエティーと、ほぼ同じメンバーをメインに、どんどんバリエーションを増やしながら人気を広げていきました」

と分析する。これらの番組を手掛けたのが、フジテレビの横澤彪プロデューサー(当時)だった。

「『楽しくなければテレビじゃない』というキャッチフレーズをかかげ、漫才ブーム以降に若者世代の支持を得ていきます。『ひょうきん族』は、フジテレビが大きく躍進するきっかけになった番組といえます」(西条教授)

これまでのバラエティーと違い、アナウンサーを“ひょうきんアナウンサー”、ディレクターは“ひょうきんディレクター”と銘打ち、それまで「裏方」だった存在にスポットを当てスター化させた。西条教授は言う。

「とにかくノリと勢いで、おもしろいと思ったことはすぐやっちゃう。スタッフたちが登場するようになったのもそれが反映されたものですね。ノリでやっている楽しさ、そこから派生するタレントやスタッフの裏話や楽屋オチが出てくるのも新鮮でした。これはのちの、とんねるずの番組の笑いなどにもつながっていきます。スタッフたちの笑い声が流れるようになったのも、『ひょうきん族』からです。みんなで楽しんで作っているという空気が画面を通して視聴者に伝わってきたのだと思います」

「オレたちひょうきん族」が放送されるまでの土曜夜8時のテレビ界は、高視聴率で“オバケ番組”と称された「8時だョ!全員集合」一強の時代が続いていた。その裏番組として登場した「ひょうきん族」は、放送を重ねるごとに視聴率も上昇、二つの人気バラエティーがしのぎを削るさまは、世間では「土8戦争」とも呼ばれ注目された。80年代なかばに視聴率が「全員集合」を追い越したことも当時の話題を集めた。

二つの番組は、そのつくりにも大きな違いがあったと西条教授は語る。

「入念なリハーサルを繰り返し、ひたすらコントを作り込んでいくスタイルの『全員集合』とは逆のやり方です。すぐに本番にのぞみ、その場のノリを最優先する。『全員集合』をフィクションの笑いとするならば、『ひょうきん族』はノンフィクションの笑いです。NGすらも笑いに変えていきました」

番組内でのNGを笑いに変える錬金術的手法は、ひとつの人気コーナーを誕生させる。収録中にNGを出した出演者やスタッフを、教会の懺悔室をイメージしたセットに呼び、「懺悔」させる。神父に扮した横澤プロデューサーの「心ゆくまで懺悔をなさい」という声に促され、NGを出したことに許しを請う。壁の十字架にはりつけにされた白塗りの「神様」が、両手で○か×のジェスチャーをしてその懺悔は裁定される。×のときには、頭上から水が降ってきて、全身びしょぬれになる。

現在、舞台・スタジオ・飲食店などの空間プロデュースを手がけるBMCエンタープライズ代表をつとめる“神様”ブッチー武者さんが、当時を振り返る。

「台本もなくて、自分の判断で○か×かを裁くんだよって言われ、そんなに責任重いの!?って(笑)。はじめは緊張して、わずかな時間がすごく長く感じました(笑)。レギュラー陣やスタッフには、ほとんど×を出してましたね(笑)。スタッフのみなさんも、失敗してもそこで映れるもんだから、楽しんでやってましたね。タレントもスタッフも、自分がどれだけ目立てるかという世界でした。横澤さんも、ああいった形でテレビ出演したのは初めてだったそうですね」

ブッチーさんが「ひょうきん族」のすごさを語る。

「台本は1時間番組としては薄いもので、決まりもほとんどない世界。だから、タレントさん個人の実力やすごさを見せる番組でした。島崎俊郎さんのアダモステもたしか、追い込まれて追い込まれてとっさに出てきたフレーズが、『ンーーーーー、ペイ!』だったと思います(笑)。『懺悔室』でも、みなさん自分の失敗からおもしろい言い訳をふくらませて懺悔するわけですから、さすがにすごいなと思いながら見ていました。それぞれ力を持った人たちによる“出たとこ勝負”のおもしろさ、何が起こるかわからないところが大きな魅力だったんでしょうね」

横澤さんが主賓のあるパーティーで、神様に扮して、横澤さんの半生を裁定するという大役をつとめたことがあった。

「たしか、『×』だったと思います。終わったあと、『ありがとうな、盛り上げてくれて』と言われました」

「ひょうきん族」を代表するスターの一人が、山田邦子さんだ。3月に出版された、芸能生活40年と60年の人生を振り返る著書『生き抜く力』(祥伝社新書)には、当然「ひょうきん族」のことも書かれている。

<メンバーだけでなく、ひょうきんディレクターズやスタッフ全員で毎週アイデアを出し合いながら、一緒に泣いたり笑ったり夢中で過ごしました>

邦子さんが、当時を振り返る。

「強烈な個性に囲まれ、みんなで手探りで作り上げていった8年間でした。たけしさんや紳助さん、のりおさんなど、コンビやトリオをバラして組み合わせて新しいおもしろさを出していくというのも斬新でした。台本も、書いてあることを無視して進んでいくことも多かったです。最初はそれを『おもしろいなあ』って、視聴者のように楽しんでしまっていたのですが、それだと私の出番がなくなってしまうんですよ(笑)。私は一番年下だったので、先輩たちが作り出す空気にくらいついていくので精いっぱいでした」

番組スタッフから、「来週はコレね」と、歌マネのお題を「宿題」のように出されることも多かったそうだ。

「1週間しかないですからね。必死で考えて、練習して、終わったらまた次のネタで。いいネタが浮かばないと、『1週間何やってたんだ』と怒られました」

邦子さんも、当然「懺悔」の洗礼を何度も受けた。

「NGもウケればOK、ウケないことが一番のNGなんです。だけど、水をかぶって、真夜中の真っ暗な廊下をびしょびしょのままお風呂に向かうんですが、情けないやらくたびれたやら(笑)。だけど、ウケたからそれでいいんだって、選ばれることが嬉しくもなりました。途中から私も悪ノリして、髪にはじめからシャンプーを塗っておいて、水をかぶったら泡立つように仕込んだこともありました(笑)」

その後、超人気タレントの仲間入りをした邦子さんは、「オレたちひょうきん族」を、「青春」と振り返った。

「みんな仲がよくて、みんな忙しかったです。誰かの家に集まってワイワイ過ごすこともありました。家に帰らずそこからそのまま『行ってきます』と次の現場に向かう人もいましたね。私は年下でしたが、どこか学校の同級生のような感覚もありました。同じ時間を一緒に過ごし成長した、私にとってはタレントとしての青春のような番組でした」

放送開始から40年。主要メンバーの多くは、現在も第一線で活躍を続け、いまもお茶の間に笑いを届けている。(本誌・太田サトル)

※週刊朝日  2021年4月16日号

太田サトル

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加