小学校長だった父、死の直前「学校は? 子どもは?」 震災27年、同じ道歩む息子が伝える後悔

小学校長だった父、死の直前「学校は? 子どもは?」 震災27年、同じ道歩む息子が伝える後悔

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  • 更新日:2022/01/15

小学校の校長だった父は、阪神・淡路大震災で崩れた家の下敷きになり、命を失った。それから27年。兵庫県立家島高校(姫路市)の教頭を務める息子が今、生徒たちに伝えたいことがある。「今を生きてほしい。後回しはあかん」。おやじともっと話しておけば良かった、と悔いているから-。長い間、震災の記憶を遠ざけてきたけれど、四半世紀を経て「語り部の責任感」を胸に宿している。(中島摩子)

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父の晃一さんについて語る家島高校教頭の小山健治さん=姫路市家島町(撮影・鈴木雅之)

小山健治さん(56)。震災当時は29歳で、姫路市の私立高校に勤めていた。父の晃一さん=当時(59)=は神戸市灘区の市立高羽小学校の校長だった。

1月17日、同市東灘区本山南町4にあった木造の自宅は、激しい揺れで倒壊した。母と弟は脱出できたが、晃一さんは家屋の下敷きになって動けず、近所の人に助け出された時、体は紫色に変色していたという。

近くの小学校に避難した晃一さんは、「高羽は大丈夫か? 子どもはどうか?」とあえぎながら口にし、病院に向かう車中で息を引き取った。

姫路市から車と原付バイクで駆けつけた健治さんは、病院で父と対面する。「認めたくなくて、体をよう触らんかった。よう見れんかった。ただぼうぜんとして、涙は出なかった」

悲しみとともに、たびたび後悔に襲われた。「いろいろ話したい、アドバイスをもらいたいと思ってたのに、『今度でいいわ』『いつでもおるやんか』と後回しばかりだった」

教育者の先輩であり、人生の先輩の父と、語り合う機会は永遠に失われた。

◇   ◇

健治さんはそれからずっと、震災の話を避けてきた。話そうとすると、胸のあたりがキューっとなって苦しく、声が詰まる。

家族以外に初めて話したのは、2004年に発生した新潟県中越地震の直後だった。阪神・淡路の記憶とだぶり、父の死を周囲にぽろっとこぼした。

次の機会は、11年の東日本大震災の直後。当時は県立神崎高校に勤務し、担当していた生徒たちに初めて打ち明けた。

そして一昨年末、背中を押される出来事があった。教職員向けのオンライン研修で、大阪教育大付属池田小学校で01年に起きた児童殺傷事件の遺族らの話を聞いた。再発防止を願い、つらい経験を語る遺族の姿に「このままずっと逃げている場合じゃない。自分が経験したことが、生徒の役に立つなら」と奮い立った。

昨年3月、家島高校の生徒たちに震災講話をした。阪神・淡路の被害状況、父のこと、自分が抱いている後悔を吐露し、「今を生きる」というメッセージをスクリーンに映し出した。そして、「大切なことは先延ばしにしないでほしい」と語り掛けた。

今年も2月2日、1年生たちに語る予定だ。「父を思うと、息苦しさは消えない。でも、これからは自分にできることをやっていきたい。伝えなあかん、と思うんです」

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