もしも七年戦争でフランスが勝っていたら......――学校では学べない世界近現代史入門

もしも七年戦争でフランスが勝っていたら......――学校では学べない世界近現代史入門

  • 文春オンライン
  • 更新日:2017/11/15

北米、インドでの植民地戦争でイギリスが敗れていたら
大英帝国ではなく大仏帝国ができていたかもしれない

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1984年に在外研修でパリ第三大学のマックス・ミルネール教授のゼミに出ていたときのこと。完璧なフランス語で発表するインド人の女子学生と親しくなり、なんでそんなにフランス語がうまいのかと尋ねてみると「だって、私、ポンディシェリー出身だから。フランス語は母国語(マザー・タング)なのよ」という答えが返ってきたので驚いた。インド史はおろか世界史にも疎かった私は1947年のインド独立までポンディシェリーを始めとするフランス植民地がインド亜大陸に数カ所残っていたことを知らなかったのである。

このときの驚きが大きかったので、フランス領インドというものに興味を持つと同時にインドの領有を巡って英仏で18世紀に戦われたカーナティック(カルナータカ)戦争について調べ始め、さらには北米での英仏植民地戦争であるフレンチ・インディアン(正式にはフレンチ・アンド・インディアン)戦争、およびそれらと連動して行われたヨーロッパ大陸での七年戦争そのものにも強い関心を抱くようになった。そして、これら18世紀の英仏植民地戦争の勝敗が、その後の英仏の運命を大きく変えたことが見えてきた。

ルイ14世、植民地経営に乗り出す

フランスが新大陸やインドにおける植民地貿易に本格的に参入したのはポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスに比べるとずいぶんと遅く、ルイ14世の親政開始4年目の1664年のことである。財務長官コルベールが重商主義に基づき、1604年に創設されながら機能していなかった「フランス東インド会社」を国策会社として改組・再建し、英蘭との競争に乗り出したのである。

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ルイ14世騎馬像 ©iStock.com

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コルベール ©iStock.com

コルベールは重商主義を強力に推し進めるために、原料(綿糸)の供給地として、またフランス製の贅沢(ぜいたく)品の消費地としてインドを開拓するしかないと信じて、「東インド会社」に莫大な資金を注ぎ込んだのである。

その結果、フランス東インド会社は後発であるにもかかわらず、イギリス東インド会社、オランダ東インド会社の牙城に食い込むことに成功し、これらの有力な対抗馬にまで成長した。国策会社として豊かな資金を用いてインド洋に浮かぶブルボン島(現レユニオン島)、フランス島(現モーリシャス島)を中継基地として整備できたことが大きかった。さらに、インドの拠点として藩王からインド東海岸のポンディシェリーを買い取り、ベンガル地方にもシャンデルナゴルを確保することができた。幹部に元オランダ東インド会社平戸商館長だったフランソワ・カロンを迎え、ポンディシェリー商館長にフランソワ・マルタンなど貿易実務に長けた人材を配置したこともあり、貿易量は急速に拡大した。

ところが1682年にヴェルサイユ宮殿がほぼ完成し、宮廷の移転が完了したころから風向きが変わる。財政逼迫(ひっぱく)を理由にヴェルサイユの追加工事に首を縦に振らないコルベールに対して大王が不満を募(つの)らせ、彼のライバルである陸軍大臣ルーヴォワに寵愛(ちょうあい)を移したのである。コルベールがそのショックで1683年に死ぬと、「東インド会社」は総会で清算され、新会社として再出発することとなった。

しかし、東インド会社が立ちいかなくなった最大の原因は1680年代からフランスの野心が海洋覇権ではなく大陸覇権へとシフトしたことである。いいかえると、ルイ14世のアドヴァイザーがコルベールからルーヴォワに変わったことにより、ルイ14世の自己表現対象が築城から戦争に移り、海外覇権は関心の埒外(らちがい)に置かれてしまうのだ。

さらに事態を悪くしたのは、秘密結婚していたカトリック過激派マントノン夫人の差し金でルイ14世が信教の自由を保障したナントの勅令を1685年に廃止してしまったことである。これにより、コルベールが育成した産業の担い手であったプロテスタントが国外に追放され、フランスは貴重な人的資源を失うことになる。

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©iStock.com

1715年にルイ15世がわずか5歳で即位すると、摂政となったオルレアン公は財政再建のためスコットランドから流れてきた元銀行家で殺人犯のアヴァンチュリエ(山師)ジョン・ローが勧める「システム」を採用する。

すなわち、ローは兌換(だかん)銀行券の発券銀行として「バンク・ジェネラル」を設立し、次にそれを中央銀行に組織替えすると、金保有量をはるかに超えた銀行券(紙幣)を大量に発行する。ついで、「東インド会社」を再建して、これを他の国策会社と合併してインド貿易と北米貿易を連結させた「フランス両インド会社」へと改組する。それと並行して、北米のフランス植民地ルイジアナに河口港ヌヴェル・オルレアン(ニュー・オーリンズ)を建設し、ミシシッピー開発を業務とするミシシッピー会社(「西インド会社」)を設立、その株式を大々的に売り出すことにする。しかも、株式は額面価格の国債による株式転換が可能としたため、人気が沸騰(ふっとう)。目先の欲にくらんだ人々は政府に償還義務のある国債を償還義務のない株式に転換したので、政府の負債(国債)は大幅に減少した。ミシシッピー会社の株券は額面の20倍となり、フランスの歴史初のバブルが発生、証券取引所だったカンカンポワ通りは押すな押すなの大賑(にぎ)わいとなった。ローは財務長官の座に上りつめ、銀行券を安倍首相と同じく「ジャンジャン」刷りまくったから、通貨供給量は4倍となり、フランス人は急にみんな金持ちになったかのような多幸感に酔いしれた。

だが、夢はいつかは覚める。ミシシッピー会社が幽霊会社だという噂が流れると、売りが売りを呼び、人々は銀行の窓口に殺到して兌換を要求したから、たちまちフランス初の取り付け騒ぎが起きる。かくて一瞬のうちにバブルは崩壊し、ジョン・ローは財務長官を辞任すると国外に逃亡、最後は尾羽打ち枯らしてヴェネチアで死んだ。

このバブル崩壊で、民衆はなけなしの財産を失ったが、逆に国債がほとんど償還されて収支が改善されたフランス国家は1720年代後半にはかつてないほどの元気を取り戻していた。つまり国家デフォルトにより財政再建が成ったのである。

そして、財政が元気を取り戻すと、フランスは自らが海洋国家でもあったことを突然に思い出すらしく、1720年代後半から海洋覇権の奪取に再挑戦することになる。ヨーロッパでの七年戦争終結まで続く、インドと北米における英仏戦争はこうして準備されたのである。

フランスの北米進出

フランス植民地として先行していたのは北米である。起源は、北米の北側を抜けるアジア航路の存在を信じたサン・マロ出身の探検家ジャック・カルティエがフランソワ1世の保護を受けて1534年から探検に出発、現在のモントリオールまで到達して、フランスによるケベック領有の道を開いたことに求められる。

フランスは1603年、アンリ4世に交易独占権を与えられたピエール・デュ・グァ・ド・モンがサミュエル・ド・シャンプランとともにセントローレンス川の水路が狭くなる地点にビーヴァーの毛皮を交易する都市ケベックを建設する。これが北米最大のフランス植民地ヌヴェル・フランスの始まりである。しかし、ケベック建設で一気に入植者が増えたかというと、そうはならなかった。

「先住民の手を借りることのできた毛皮交易は、ヨーロッパ人の人手を多くは必要とせず、加えてヴァージニア植民地のタバコのような魅力ある商品作物がなかったため、ヌーヴェル・フランスは入植者を引きつけることができなかったのである」(木村和男編『カナダ史』山川出版社)

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リシュリュー宰相 ©iStock.com

ヌヴェル・フランスの入植者は1645年の時点でも600人、年季奉公人を入れても1000人足らずで近隣のイギリス植民地とは比べ物にならないくらい少なかった。理由はイギリス植民地が本国に居場所のないプロテスタントを積極的に受け入れたのに対し、ヌヴェル・フランスではルイ13世の宰相リシュリューが植民会社の特許状条項によってプロテスタント信仰を禁止したため、本国で住みづらくなったプロテスタントの受け皿とはならなかったことである。これが後々、フレンチ・インディアン戦争の敗因となる。

コルベールは重商主義政策の一環として植民の増加を図ったがヌヴェル・フランスでは極端に男女比が偏っていたので、「国王の娘たち」と呼ばれる770人の独身女性をヌヴェル・フランスに送ることにした。その大半はパリの孤児院の出身者で中には刈り込みにあって逮捕された娼婦もいた。アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』では詐欺容疑で逮捕されたマノンはアメリカに送られることになり、シュヴァリエ・デ・グリュがそれに同行するが、マノンはまさにこうした「国王の娘たち」の1人だったのである。

このようにコルベールはヌヴェル・フランスの植民の増加に心を砕いたが、換金性商品が毛皮に限られていたため人口は拡大しなかった。ヌヴェル・フランスの発展が始まるのは、1720年代以降、毛皮交易に代わって小麦取引が中心になってからである。だが、農業と商業が発展の兆しを見せはじめたころ、北米のフランス植民地全体に悲劇が襲う。ヨーロッパの戦争を反映したイギリス植民地との戦争である。

七年戦争よりも早く1754年に始まったフレンチ・インディアン戦争で、真っ先に被害を受けたのは、ヌヴェル・フランスとは別に形成されたフランス植民地アカディア(現在のノヴァスコシア、ニューブランズウィック、プリンスエドワード諸島など)である。アカディアには1633年頃からラ・ロシェル出身者300人が入植し、沼沢地を埋め立てて苦心のすえに開拓地を築いた。イギリス植民地ジェイムズタウンと隣接していたこともあり、ヨーロッパで戦争が起きるたびに支配者が目まぐるしく交替したため、住民は自らをアカディア人と名乗り、英仏どちらにも属さない自主独立路線を歩むことにしたが、フレンチ・インディアン戦争が始まるとこうした中立路線も意味をなさなくなる。

「彼ら(イギリス軍)は一七五五年ボセジュールなどシグネット地峡にある砦を攻略したが、この成功を契機に、彼らがこれまで腐心してきたアカディア人の処遇の最終的決着に踏み切った。同年八月ノヴァスコシア総督チャールズ・ローレンスは約一万五〇〇〇人のアカディア人にたいして強制追放を命じたのである。その結果、同年中に三〇〇〇人以上が土地や財産を没収されて十三植民地に離散した」(前掲『カナダ史』)

ロングフェローの『エヴァンジェリン――アカディアの恋物語』が伝えるこのディアスポラにより、アカディア人たちはヌヴェル・フランスやフランス本国、あるいはルイジアナ植民地に散っていった。ルイジアナに移ったアカディア人たちは現在アケイディアナと呼ばれる土地に定着し、ケイジャンという独特の料理を生み出した。

フレンチ・インディアン戦争はというと、こちらは前半はモンカルム将軍率いるフランス軍優位で推移した。フランス軍が軍事顧問団方式でインディアンの部隊を組織し、圧倒的に少数の自軍と同盟させて奇跡的勝利を勝ち得たのである。

ところが、大敗北の知らせがイギリス本国に届くと、ホイッグ党のウィリアム・ピット(大ピット)の強硬外交派がニューカッスル内閣を組織し、1758年に大規模な正規軍を北米に送り込むと同時に、フランス艦隊が出撃できないように大陸封鎖を行った。

これに対し、ヨーロッパの戦いに戦力を集中したいフランスはヌヴェル・フランスを救うために増援軍を送るのに消極的だった。

結局、この本国政府の姿勢の差がもろに北米での戦闘に影響を与えることになった。1758年、難攻不落のルイブール砦が陥落、翌年にはヌヴェル・フランスの中心都市であるケベックの砦が陥落して勝敗は決した。1760年9月に総督ヴォドリュイユ侯が降伏文書にサインしてヌヴェル・フランスはイギリスの軍政下に置かれることとなった。そして1763年のパリ条約でフランスはミシシッピー以東の北米植民地をイギリスに割譲、ミシシッピー以西のルイジアナもスペインに譲渡し、北米植民地をすべて失うことになったのである。

インドの運命を決めた英仏決戦

それでは、七年戦争に連動した植民地の戦いのもう一方の極であるインドでの戦争はどのように展開していたのだろうか?

フランスはジョン・ローのデフォルトで国債が帳消しになり、国力が回復すると1730年代からポンディシェリーを拠点にイギリスの「東インド会社」と激しい鍔(つば)ぜり合いを演じるようになる。

英仏の東インド会社の違いは、イギリスのそれがあくまで民営であったのに対し、フランスのそれは国策会社の色彩が強かったことに尽きる。そのため、フランス東インド会社の軍隊はフランス本国から派遣されたフランス領インド総督の指揮下に置かれ、実態的にはフランス植民地軍と同じだった。

このフランス・インド総督軍とイギリスの東インド会社の軍隊がインドの地方の太守国の内紛に介入して三次にわたって戦ったのがカーナティック戦争である。

カーナティック戦争では、第二次の戦争までは、フランス領インド総督ジョゼフ=フランソワ・デュプレックスの総指揮によりイギリスの東インド会社軍に対して有利に戦いを進めていた。

デュプレックスはフランス東インド会社の総書記をつとめた父親の勧めで1720年に「フランス両インド会社」に就職、ポンディシェリーに赴任すると、たちまち頭角を現し、1742年にはフランス領インド総督に任命された。

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航海道具イメージ ©iStock.com

デュプレックスが採用した軍事方針は、軍事顧問団方式でインド人歩兵にフランス式の操銃訓練を施して、フランス人将校の指揮下に置くというものである。こうして組織化された現地軍は騎兵中心のインド諸侯軍を撃破し、これを配下においたり、同盟を組んだりして、イギリスとの対決に備えた。

具体的には第一次カーナティック戦争(1744~1748)ではマドラスの戦いでイギリス軍を撃破してマドラスを占領、第二次カーナティック戦争(1749~1754)でも、ニザーム王国やカルナータカ太守国の内紛に介入して、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社軍と互角の戦いを展開したが、1754年に突如、デュプレックスが本国政府によって召喚(しょうかん)されたことで情勢は混沌としてくる。

本国政府は、出先機関であるインド総督府と東インド会社が戦線を拡大し、膨大な資金をつぎ込んで戦争を継続していることを憂慮し、戦争よりも貿易と判断して、独断専行の廉(かど)でデュプレックスを本国に召喚したのである。

このデュプレックス召喚はインド戦争に破局的影響を及ぼした。それは七年戦争と連動して起こった第三次カーナティック戦争(1758~1763)で鮮明となる。

もっとも、デュプレックスが召喚された後でも、フランス・インド総督軍はなお大きな戦力を保持しており、勢力圏はイギリスと拮抗していた。ところが、1757年に起こったプラッシーの戦いで勢力バランスが大きく崩れる。フランス・インド総督軍が支援したベンガル太守軍がクライヴ率いる東インド会社軍に完敗し、ベンガル地方は完全にイギリスの勢力下に置かれてしまったからである。とはいえ、教科書の記述にあるようにプラッシーの戦い1つでインドにおける英仏の戦いに決着がついたわけではない。プラッシーの戦いではフランス・インド総督軍の損害は軽微で、いまだに多くの領土と軍隊を保持していたからだ。

インドにおける英仏の戦いに決着がついたのは第三次カーナティック戦争後半の1760年、本国政府海軍からの大増援を受けたイギリス東インド会社軍がヴァンディヴァッシュの戦いでフランス・インド総督軍を完膚(かんぷ)なきまでに破ったときのことである。この戦いでもヨーロッパ戦線で苦戦を強いられていたフランス本国政府が増援部隊を派遣できなかったことが運命の分かれ目となった。

1763年2月にパリ条約が締結され、フランスはポンディシェリーとシャンデルナゴルを除くインド領をすべて失った。その後、フランス領インドは両都市を拠点に細々と貿易活動を続けたが、1947年のインド独立を機にインドに返還されたのである。

大仏帝国を夢想する

と、このように、ヨーロッパの七年戦争と連動して北米とインドで繰り広げられた英仏の戦いを概観してみると、海洋国家として首尾一貫していたイギリスに比べ、大陸国家と海洋国家という2つの側面で逡巡が繰り返されたフランスは不利だったことがわかる。フランスは2つの植民地戦で負けるべくして負けたのである。

ただ、そうはいうものの、パリ条約でイギリスが北米とインドの覇権を得たことは、その後の世界史に非常に大きな影響を及ぼした。

それは、もし七年戦争でフランスが勝利していたらと歴史にイフをかけてみればすぐに明らかになる。北米とインドにおけるフランスの勝利により、フランスは余剰人口のはけ口を北米とインドに見出すことができたので、パリへの人口集中は起こらず、したがってフランス革命も起こらなかったはずである。ブルボン王朝がいまも続き、フランスは王国のままであったろう。

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©iStock.com

反対にイギリスは17世紀にエンクロージャー・ムーブメントなどでマルクスのいう原始的蓄積(農民が土地から切り離され、労働力しかもたないプロレタリアとなること)が行われているにもかかわらず、植民地を失ったため余剰人口のはけ口がなくなり、プロレタリアがロンドンに溢れ、イギリス革命が起こったかもしれない。さらにマルクスの予言したとおりに、イギリスに初の共産主義政権が誕生していた可能性もある。となると、スコットランド、アイルランドは独立し、イギリス連合王国は空中分解していた可能性が強い。優秀なインド木綿の輸入超過に苦しんだイギリスが一計を案じて、綿花をアメリカに運んで安価な原料供給地とし、自国の綿織物工業の育成につとめるというようなことはなかっただろう。アメリカ綿花がなかったらイギリスに産業革命は起こらなかったはずだし、インドの綿織物工業が解体されることもなかったにちがいない。従って大英帝国も成立せず、19世紀はパクス・ブリタニカならぬパクス・フランカの世紀となっていたと思われる。

また、中国茶のこれまた輸入超過に業を煮やしたイギリスがインドのダージリンやアッサムなどの土地を選んで茶を栽培し、中国からの輸入を減らすと同時に、インド茶を北米への重要な輸出商品とすることができたのも2つの植民地を領有していた賜物(たまもの)である。

さらにいえば、インドを失ったフランスが紅茶消費国とならなかったことも七年戦争の影響だし、フランスがわずかに残された西インド諸島産のコーヒーに依存するコーヒー愛飲国となったのもパリ条約の結果なのである。そればかりではない。インドと北米がフランス植民地にとどまった場合、まちがいなく世界の共通語はフランス語になっていたものと思われる。となると、天の邪鬼(あまのじゃく)な私は専攻としてフランス文学ではなく英文学を選んでいたかもしれない。

と、このようにパラレル・ワールドが簡単に描けるのだから、七年戦争こそは現在に至る世界史の分水嶺であり、18世紀から21世紀にかけての世界史を完全に変えたのである。

(鹿島 茂)

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