地方は消滅しない――長崎県波佐見町の場合『名もなく形もなく変化する焼き物』

地方は消滅しない――長崎県波佐見町の場合『名もなく形もなく変化する焼き物』

  • 文春オンライン
  • 更新日:2017/11/14
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イラストレーション:溝川なつみ

「かわいいっ」

「これも、かわいいな。いっぱいあって迷っちゃう」

長崎県波佐見(はさみ)町の観光物産館「くらわん館」。ずらり並んだ波佐見焼を前に、県内から訪れた三十歳の女性二人が食器を選んでいた。

「料理が楽しくなるようなデザインが多いので、私達の年代には特に人気があります。波佐見焼は東京でも流行っているんですよね」

「かわいい焼き物」としてブームになっている波佐見焼だが、ほんの何年か前までは、地元を除いてほとんど知られていなかった。

波佐見焼に関係する事業者で作る波佐見焼振興会の山下雅樹・事務局次長(41)は感慨深げだ。

「『はさみ』と言うと、だいたい切るハサミに間違われました。『焼き物です』と説明したら、今度は『どんな食べ物?』と誤解されて……。陶磁器として知名度がアップしたのは、この四、五年でしょうか」

波佐見焼は不思議な焼き物だ。

特徴をひと言では説明できない。カラフルでかわいいデザインは、全体の一部でしかなく、地味な茶碗や湯飲みもある。

それだけではない。例えば、波佐見有数の窯元「和山(わざん)」では、おしゃれな生活雑貨メーカーの食器から、牛丼チェーンの丼や湯飲み、飛行機の機内食の皿まで作っている。廣田和樹社長(49)は「うちの商品数は三千〜四千ほどだと思います。多すぎて数えたことがありませんが」と笑う。波佐見ではありとあらゆる食器を作っており、焼き物としての形やスタイルがないのだ。

しかも、美濃焼(岐阜県)、有田焼(佐賀県)に次ぐ国内第三位の産地で、出荷額は年間四十五億円以上にもなるというのに、無名だった。

なぜなのか。その秘密を探っていくと、波佐見焼が「かわいい」になる理由が見えてくる。

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「かわいい」。若い女性が目を輝かせる(波佐見町、くらわん館)

波佐見の陶磁器生産の歴史は古い。豊臣秀吉の朝鮮出兵(一五九二〜九八年)の際、大村藩主が陶工を連れ帰ったのが始まりという。初期には質の高い青磁などを生産した。

その後は転換に転換を重ねた。

まず一六五〇年代、中国が内乱で陶磁器輸出をストップさせると、空隙を狙って東南アジア方面に鉢などを大量に輸出した。「当時の日本では使われていない食器でした。それでも商人が求めればどんどん生産しました」と山下次長が解説する。

一六八〇年代、内乱の収まった中国が海外市場を取り戻すと、国内向けに安価な日用食器を作った。江戸後期には百メートルを超える巨大な登り窯が八つも同時に稼働し、波佐見産の食器は全国で流通した。

ところがこの時代、「波佐見焼」は存在しなかった。搬出港が佐賀県の伊万里だったために「伊万里焼」と呼ばれていたのだ。「紀伊の商人が扱えば『紀伊焼』、筑前の商人なら『筑前焼』と呼ばれて流通したケースもあります」と同町教育委員会、中野雄二学芸員(51)は話す。

隣の佐賀県有田町で明治期、有田駅が開業して鉄道での出荷が始まると、「有田焼」として流通した。

「名は何であれ、市場の求めに応じて、とにかく売れる食器を安く作ってきました」と山下次長は語る。実を取る商売をしてきたのだ。

壁にぶつかったのは、バブル経済の崩壊後だ。市場の縮小に加え、安価な中国産品や、プラスチック製品など様々な材料の食器に押された。食も多様化し、従来型の「唐草模様の茶碗」(廣田社長)を置く百貨店や量販店では売れなくなった。

経営が苦しくなった有田焼の産地からは、波佐見に「有田」の名称を使わせないようにする動きも出た。その煽りで、四百年強の歴史で初めて「波佐見焼」と名乗ることになった。十年ほど前のことだ。

「もう崖っぷちでした」と焼き物問屋「西海(さいかい)陶器」の会長で、波佐見焼振興会の会長も務める児玉盛介さん(68)は振り返る。

「何とかしよう」と三人が動き出した。児玉さん、小さな問屋を営む深澤清さん(75)、そして一瀬政太町長(74)だ。「窯業という核を使って何かできないか」(児玉さん)、「窯業に替わる産業を起こそう」(深澤さん)と知恵を絞り、農業や陶芸が体験できるツアーを仕掛けるなどしたが、起爆剤にはならなかった。

そんな時、若い陶芸家が町を訪れた。東北芸術工科大(山形市)の大学院修了後、東京芸大の研究生としても作陶してきた長瀬渉さん(40)だ。二〇〇三年のことだった。

長瀬さんはさらに焼き物を学ぼうと、韓国への移住を考えていた。その前に一年間、妻が佐賀県立有田窯業大学校(有田町)で絵付けを勉強することになり、隣の波佐見町に住んだのだ。児玉さんの娘が大学の後輩で「住んでみたらどうか」と勧められたのもあった。ただ、長瀬さんはそれまで「波佐見焼」という名を聞いたことがなかった。陶芸家にすら知られていなかったのである。

「かわいい」を持ち込み「おしゃれな」まちにする

長瀬さんは滞在中にケガをしたため、韓国行きを諦め、波佐見で作家活動を続けた。児玉さん、深澤さん、一瀬町長の三人組が気さくで面白い人物だったのも、町に残った理由だ。「生涯で初めて話を聞いてくれる大人に出会った」と話す。

〇五年、児玉さんに頼んで、競売にかけられた旧製陶所を、西海陶器で落札してもらった。その一角に工房を構えた。

その頃、長瀬さんは西海陶器の若い女性社員が「好きでもない商品を売るのが苦痛だ」と漏らすのを聞いていた。「それなら好きと思える商品を作ったらいい。問屋でも窯元に発注して自社ブランドを持つべきだ」と考え、児玉さんに提案した。

「どうしたらいいんだ」。児玉さんは身を乗り出した。長瀬さんは大学の先輩で、スウェーデンに留学経験を持つ阿部薫太郎(くんたろう)さん(42)をデザイナーとして紹介した。

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「おしゃれ」を持ち込んだ阿部薫太郎さん

〇六年、西海陶器に入社した阿部さんは、在庫を見て驚いた。「唐草模様」ならまだしも、現代風に変えようとして失敗し、何の絵柄か分からない食器が大量にあったのだ。

阿部さんは在庫と重ならないよう新商品を作り始める。最初は白い鍵だった。キーホルダーやアクセサリー、箸(はし)置きとしても使える。周囲は冷やかだった。「こんなものが売れるはずがない」。受注に難色を示す窯元もいた。ところが、売れた。

阿部さんは「おしゃれな」商品を次々と発表していった。靴下を模したスプーン、そろえたら家族のように見える平たい花瓶、並べると家並みになる胡椒(こしょう)入れ、下半分だけ色を変えたマグカップ……。青地に白の水玉模様の懐かしい急須の色を、反転させた商品も出した。

折しも食器は、衣食住に関する様々な商品をそろえ、暮らし方まで提案する「ライフスタイルショップ」や雑貨店で売れる時代になろうとしていた。阿部さんはいち早く、その変化を読み取っていた。

これが波佐見焼の「かわいい」の始まりである。阿部さんの商品は波佐見が変わる発火点になった。

「和山」の廣田社長も影響を受けた。最初に作ったのは、自分が欲しかった焼酎サーバーとコップだ。コップは色にバリエーションを持たせ、内側の底を丸くして洗いやすくすると、たちまち人気商品になった。

「不思議なことに、唐草模様ばかり描いていた五十代の男性デザイナーが突然、北欧調の皿のデザインをして、ヒットを飛ばしたのです」

波佐見の技術力はもともと高い。変化を始めたら早かった。

その頃、問屋や窯元の若い跡取りが相次いでUターンした。彼らの中から「波佐見」の名を全国に轟かせるブランドを生む人物が出る。問屋「マルヒロ」の馬場匡平(きょうへい)さん(32)だ。

福岡県で働いていた馬場さんが町に戻ったのは〇八年だ。実家の問屋は倒産寸前だった。「僕は焼き物に興味がなく、手伝いもほとんどしなかったので全くの素人でした。何をしていいか分かりません。取引のあった奈良の雑貨店がブランド化で成功し、コンサルを始めると聞いて第一号でお願いしました」と話す。

馬場さんも自社ブランドを作ることにした。最初はコンサルに影響されて、品のいい食器を目指した。だが、社員に「馬場さんには似合わない」と指摘されて方向転換した。

「焼き物には興味がない。でも洋服は好き、音楽も好きという友達ばかりです。そんな友達が、お金を出しても買いたくなるような日用の食器を作ろうと考えました」

古きよき時代のアメリカをほうふつとさせる肉厚のマグカップを作った。どんな大きさが好まれるかは漫画雑誌の景品などを参考にした。絵柄はなくし、思い切って単色にした。色は持っているTシャツを並べて研究し、原色ではなく中間色が売れると判断した。自分で釉薬を買って来て、紫、赤、黄、緑、灰、水色の六通りの製品を作った。焼き物としては常識外れだった。

「紫? 赤? 料理を食べる気がしなくなりますね」。一〇年に発表した時の評価は散々だった。売れなければ倒産だ。ただ、追い詰められるのは初めてではなかった。専門学校を卒業後、最初に働いた雑貨屋は八カ月で潰れた。最後の三カ月は給料もなかった。

最初に注目してくれたのはインテリア店だ。発売から一年が経つ頃から爆発的な人気が出て、今では波佐見焼の代名詞のように言われる。

一方、長瀬さんが工房を設けた旧製陶所は、長瀬さんの友人が製陶所の建物をそのまま生かして飲食店を開いた。これが呼び水となり雑貨店など約十店が進出した。「西の原」と呼ばれ、「おしゃれなまち」として国外からも観光客が訪れる。ちなみに長瀬さんの工房は現在、別の地区の旧製陶所に移っている。

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西の原には旧製陶所を利用した飲食店や雑貨店が集まる

ほかにも、馬場さんら主に三十代のUターン者約十人がグループを作り、町をPRする物販イベントなどを行っている。メンバーは窯業以外が多く、自動車販売や観光を手がける山脇慎太郎さん(33)は「町をもっともっと面白くしたい」と意気込む。波佐見では「元気」が方々に伝染し始めている。

その活力の源は何か。焼き物の歴史が育んだ気風なのだろう。名前にこだわらず、形にもこだわらず、人々が日常生活で欲しているものを感じ取り、商品もまちも変化させる。その答えが、今は「かわいい」であり、「おしゃれ」なのだ。

波佐見焼はこれからも変化を続ける。次はどんな「波佐見」に会えるだろうか。

(葉上 太郎)

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