野田義治氏 堀江しのぶとの破天荒な二人三脚

野田義治氏 堀江しのぶとの破天荒な二人三脚

  • NEWSポストセブン
  • 更新日:2016/11/30
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元イエローキャブ社長・野田義治氏

「胸が大きい女は売れない」という芸能界の常識を覆し、巨乳を武器に雑誌グラビアから女優やタレントを育て上げるビジネスモデルを開発した元イエローキャブ社長・野田義治氏(70)。彼はいかにして芸能界に革命を起こしたのか──。

「うちの子たちには『自分のことを“グラビアアイドル”なんて言ったら承知しないぞ』と言ってます。グラビアはあくまで夢を叶えるために名前と顔を覚えてもらう場所。女優にも歌手にもなる気がなくて、『夢はグラビアアイドルです』なんて言う子には遠慮してもらっています」(野田氏。以下「」内同)

そうグラビア哲学を熱く語るサンズエンタテインメント・プロデューサーの野田氏が芸能界にかかわるきっかけは映画だった。高校時代に高橋英樹の大ファンになり、俳優を志し上京。取次会社でアルバイトしながら劇団に通うも、やがて歌舞伎町に入り浸り、ディスコの副支配人としてミュージシャンらと交流を深めながら芸能界の基礎を学んだ。その後、渡辺プロの系列事務所でいしだあゆみのマネージャーなどを務め、1980年に34歳で芸能事務所イエローキャブの経営を担った。

野田氏のその後の人生を変えた堀江しのぶとの出会いは1983年7月。クラリオンガールの最終選考の20人に残った17歳の堀江に目が留まった。

「過去に夏木マリさんや朝丘雪路さんのマネージャーをしたこともあって、そんな女優さんたちと共通するオーラを感じた。胸が大きいなんてまったく気づかなかった」

優勝を逃した堀江はイエローキャブに所属することになった。しかし、無名の新人に仕事はない。野田氏は「とにかく顔を売りたい」と出版社に営業をかけまくった。そしてようやく『週刊少年マガジン』別冊の男性誌で、ハワイでのグラビア撮影の仕事にありついた。

水着になることを躊躇する堀江に野田氏はこう説得した。

「お前は海に行く時に何を着る? 水着だろ。どんな水着だ? セパレートか。じゃあ、海に行ってビキニでやろう」

当時、まだビキニが少なかった漫画雑誌のグラビアで、堀江の「巨乳ビキニ」は目を引いた。さらに男性誌、青年漫画誌の創刊ラッシュも堀江の人気を後押しした。次に野田氏が仕掛けたのが、雑誌のアンケートである。

「編集部に営業に行った時に必ず言われるんですよ、『いやぁ、返りがね』って。つまり、読者アンケートの結果がよくないってこと。そこで、かつてアルバイトしていた取次会社に頼み込み、返品雑誌の山からアンケートハガキだけ集めて、全部『堀江しのぶ』って書いたんです(笑い)。200枚くらい送ったのかな」

そんな努力が実を結び、堀江は『毎度おさわがせします』(TBS系)や『真田太平記』(NHK)などのドラマに出演。ついに自動車関連企業のCMにも起用された。

その頃、堀江の仕事を詰め込めるだけ詰め込んだため、業界で「トリプル(ブッキングの)野田」と呼ばれたほどだった。

「ある日、次の仕事への移動時間がほとんどない状態になってしまったので、TBSの緑山スタジオから次のイベントがある名古屋まで、ヘリをチャーターして移動したんです。イベントのギャラが50万円で、チャーター代も50万円でしたね(笑い)」

順風満帆だったのも束の間、人気の絶頂を極めた1988年3月、堀江を病魔が襲った。医師は野田氏に胃がんの病名と余命2か月を告げた。23歳の誕生日を迎えてから1か月も経たない9月13日、堀江は短い人生を終えた。野田氏に囁いた最期の言葉は「社長、私、仕事がしたい」だった。

撮影■山崎力夫

※週刊ポスト2016年12月9日号

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