中森明菜に新事務所社長が用意した現在の“隠れ場所”は 元マネージャーが忘れられない“自宅台所の光景”「近藤真彦と買った家具のほかに大量の...」

中森明菜に新事務所社長が用意した現在の“隠れ場所”は 元マネージャーが忘れられない“自宅台所の光景”「近藤真彦と買った家具のほかに大量の...」

  • 文春オンライン
  • 更新日:2021/11/25

「中森家の戸籍を抜けたい」明菜の自殺未遂から2年後も燻る“近藤真彦との事件”…最も信頼した男性の出現と、最愛の母の死から続く

ドラマで幕を開けた98年頃、中森明菜のレコーディング現場には必ずお酒が用意されていた。ウォッカ、しかも彼女が指定するスミノフ50度の青ラベル。これを炭酸で割って、スクイーザーでレモンを絞り、ウォッカ・リッキーを作る。彼女はそれを飲みながら、レコーディングの準備に入るが、唄う準備は整ってはいない。

【写真】自殺未遂前、マッチと中森明菜のツーショット

持参した小さなラジカセを持ってブースに籠り、30分から40分かけて曲を聴く。そして、スタッフに「唄う」と一声掛けると、4回か5回唄ううちに、“明菜節”になっていくのだ。(「文藝春秋」2021年12月号より、全2回の2回目/#7から続く)

◆ ◆ ◆

当時を知る元マネージャーが明かす。

「経験を積んで来たといっても、やはりレコーディングに向かう怖さのようなものがあったのでしょうか。とくに1回目はお酒の力を借りないとダメでしたが、お酒は3杯までと決めていました。本人もそれ以上飲むと酔っ払ってくることは自覚していましたし、周りも3杯目になると、そろそろどうやって帰らせようかと思い始めていましたね」

そして完成したガウス移籍第一弾のアルバム「SPOON」を引っ提げ、98年6月から1カ月をかけて全国14カ所15公演のツアーがスタートした。

ところが、このツアー中、思わぬハプニングが発生する。

「このツアーは老舗プロモーターで、キョードーグループの創立者の一人、内野二朗さんの会社が全面的にサポートしていました。明菜さんも乗り気で、朝は誰よりも早く起き、いつ寝ているのかと思うほどでした。コンサートの最後の見せ場で、『冷たい月』の主題歌だった『帰省~Never Forget~』という曲を唄っていたのですが、この曲は高い音域のところはかなり高い。レコーディングの時のキーでは、正直キツそうでしたが、『ファンが楽しみにしているからオリジナルのキーで行きたい』とギリギリまで粘っていました。ツアーは順調でしたが、ある時、急遽予定されていた会場が変更されたことがあったのです」(同前)

「明菜がそこでやるならウチのタレントは使わせない」

荷物を抱えて何度も移動を強いられるうち、明菜も「なんでこんなスケジュールになっているの」と苛立ち始めた。

すると、キョードー側からは、「ジャニーズ事務所のメリー(喜多川)さんから電話があったみたいで。明菜がそこでやるならウチのタレントは使わせないと言っている」と説明があったという。

「それを聞いた私も耳を疑いました。自殺未遂から10年が経とうとしているのにそんなことがあるのかな、と。明菜さんも急な変更に苛立っていましたが、キョードーの説明を伝えるとひと言、『ああ、私嫌われているからな』。それで終わりでした」(同前)

このツアーは、収支も黒字となり、まずまずの成果を残したが、看過できない問題がいくつも持ち上がっていた。ツアーに先立ち、大手資本の音楽事業会社から、「費用は全額こちらで持つので、ツアー映像を撮らせて欲しい」とオファーがあり、マネジメントの責任者として江田敏明にも話が伝えられた。

先方から「明日までに答えが欲しい」と迫られ、江田も「分かった」と答えていたものの、翌日、江田の電話は一向に繋がらなかった。そして、この契約はご破算となった。すべては杜撰なマネジメント体制に起因するが、そのルーズな体質は、さらに深刻な問題を引き起こした。

「明菜の事務所と提携していた『インディジャパン』が、ディナーショーなどの興行権を二重に売っていたのです。当初は、芸能界の重鎮が役員を務める興行会社と契約していたのに、契約を1年残して別の演歌系の興行会社と契約。当然クレームが入ったのですが、事情がよく分かっていない江田さんは『二重契約ではない』と言うばかり。結局、数千万円の契約金を巡って大揉めに揉めました」(元インディジャパン関係者)

いずれも明菜の与り知らないところで起こったトラブルだったが、彼女を支えるチームの歯車は、確実にズレ始めていた。この頃から「明菜がホテルで暴れて調度品を壊し、出入り禁止になった」といった奇行の風聞が囁かれるようになる。

「明菜にラーメンを掛けられているのを見たことが」

彼女の怒りの矛先は、唯一甘えられる“身内”の江田に向けられた。「私は一度、江田さんが明菜にラーメンを掛けられているのを見たことがあります。それでも江田さんは逆上することなく、彼女を宥め、守っているような印象があった」(同前)

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中森明菜(1987年当時)

明菜に手を焼いた江田は、外部から新たに幅広い人脈を持つ男を招聘した。NAPCの顧問となった男は、人脈を駆使して仕事をとり、現場にもまめに顔を出したが、その実体は山口組の元組員だった。

「本人も元組員であることを隠そうとしなかった。明菜の仕事を手掛けることで、芸能界で一発勝負を賭けようとしたんでしょう。ある時、彼がとって来た仕事を明菜がすっぽかした。すると、彼は江田さんをボコボコに殴り、江田さんの目の周りは真っ黒になっていました」(同前)

もはや瓦解は時間の問題だった。

年が明け、99年2月、明菜はドラマ「ボーダー 犯罪心理捜査ファイル」(日本テレビ系)に出演。しかし、番組は最終回を待たず、途中で打ち切りとなった。表向きの理由は、明菜の骨折とインフルエンザだったが、それはカムフラージュに過ぎなかった。

明菜が朝方まで飲み明かしては、酔っぱらって現場入り

「明菜が朝方まで飲み明かしては、酔っぱらって現場入りし、撮影もいつものマイペース。それで共演者のスケジュール確保が難しくなったなどと言われました。ただ、撮影が夜中の2時、3時まで続き、帰宅した後に眠れなくてお酒を飲む。そしてまた早朝から撮影という悪循環で、とくに彼女が常軌を逸した行動をしていた印象はありません。制作者側から『病気を理由に引いて欲しい』と言われて降りただけで、批判を受けても『私は悪くない』というのは、彼女にとっての正論なのです」(前出・当時を知る元マネージャー)

番組降板で、芸能メディアは挙って明菜の奇行癖を書きたて、その旗振り役を山口組の元組員が担った。そして99年11月、所属レコード会社、ガウスの社長は記者会見を開き、明菜のわがままを糾弾したうえで、「(明菜は)業界に置いてはいけないアーチストだ」と引退を勧告し、最後通牒を突き付けたのだ。

明菜はまた、すべてを失った。

こうして暗黒の90年代が終わりを告げようとしていた。

自宅食器棚から大量のフォークやナイフが

彼女の元マネージャーは、今でも忘れられない光景がある。

それは、明菜に頼まれ、自宅に引っ越しの整理に行った時のことだ。

「そこには近藤真彦と一緒に買った黒い家具があって、『縁起が悪いから茶色に塗って』と言われましたが、そのことよりも、台所の引き出しでみつけた夥しい数のフォークやナイフ、スプーンに驚きました。フォークだけで約80本出てきました。ふと、彼女がホテルでルームサービスを頼んだ時、フォークやナイフを持ち帰ろうとしていた場面を思い出しました。スタッフに一声掛けるのですが、ツアーを回ると彼女の鞄がみるみる膨らんでくる。その中身はナイフやフォークでした」

マネージャーが明菜に問い質すと、「家に持ち帰っても使わないんだけどね」と笑うだけだったという。

幼い頃、裕福ではない家庭に育った明菜にとって、自分と家族、それぞれが専用の煌びやかな食器類を持つことは憧れだったのかもしれない。心の奥底で、本当は近しい人たちと食卓を囲むような“温かなもの”を求めているのではないか。不器用ゆえの潜在意識が、そこに現れているように思えて仕方がない。

新事務所の社長兼マネージャーが与えた“隠れ場所”

2000年代に入ると、明菜の仕事のペースはスローダウンし、演歌やムード歌謡、フォークソングなどのカバーアルバムを次々と発売。歌い手としての力量を見せつけたが、往時の人気が戻ることはなかった。彼女はNAPCの後の、新しい事務所の社長兼マネージャーが与えてくれた“隠れ場所”に籠り、今も息を潜めている。

87年にリリースした名曲「難破船」は冒頭、溜を作って、“たかが恋なんて”と畳み掛けていく、アウフタクト(弱起)で始まる。メロディー先行で作られた曲で、サビまで完成したところで、出だしの歌詞が浮かばなかった。そこにアウフタクトのアイデアが浮かぶと、音符が躍動を始め、一気に詞が完成したという。

歌手の加藤登紀子が作詞作曲し、元々は彼女がステージで唄っていた作品だ。加藤が語る。

「『難破船』は、絶対に別れないと誓っていた私の20歳の恋の終わり、23歳の頃を唄った曲です。作ったのは40歳を過ぎ、愛から遠ざかる自分を切なく感じていた頃でした。偶然、明菜さんがテレビで22歳の誕生日を祝ってもらう場面をみて、『誕生日の何が嬉しいの』というような不貞腐れた表情に、失恋のイメージが重なった。40代で過去を俯瞰している私ではなく、まさに恋愛の真っ只中にいる彼女にこそ唄って欲しいと思ったんです」

表舞台から姿を消して約4年、長い沈黙の意味は

歌番組で時々一緒になる明菜は、誰もいないスタジオの壁際にポツンと佇み、そのシルエットが加藤の心を捉えてもいた。加藤は明菜に、「もしよかったらカバーしてください」と「難破船」を吹き込んだカセットテープを手渡した。

「その数日後、地方での私のコンサートに彼女から花が届きました。言葉は一切交わさなかったけれど、それが彼女の返事であり、やり方なんだと思いました」(同前)

そのカバー曲は神懸った迫力を備え、聴く者の心を激しく揺さぶった。明菜も節目節目で、この曲を唄い、時には涙を流して、曲の世界を一層引き立てた。

「『難破船』から十数年後に、私のマネージャーだった人が明菜さんの仕事に関わっていた縁で、2曲ほど彼女に曲を作ったことがあります。彼女からは『ゼロ』というタイトルにできますかと返事を貰ったのですが、結局、実現はせず、音源も今は残っていません」(同前)

実は、明菜は02年、デビュー20周年記念で、「ZERO album~歌姫2」と題したカバーアルバムをリリースしている。ジャケットはCG処理された彼女のスキンヘッド姿で、まさにゼロからの出発を期したコンセプトになっている。加藤が書いた「ゼロ」を、もし彼女がこの時に唄っていたなら、そこから新たな伝説が始まっていただろうか。

中森明菜が表舞台から姿を消して約4年。長い沈黙は、彼女が才能を開花させた80年代への郷愁をいやが上にも誘う。80年代の芸能界は、元日に発表された沢田研二の「TOKIO」で幕を開けた。それまでジュリーの作詞を手掛けてきたベテランの阿久悠ではなく、コピーライターの糸井重里が作詞を担当し、新たな時代が始まったことを印象付けた。同じくコピーライター出身である売野雅勇は明菜の初期のヒット曲で作詞家として名を売った。

隆盛を極める音楽業界には才能溢れる人材が集結し、時代の必然としてアイドル文化と良質なシティポップが生まれた。そのど真ん中を、全力で駆け抜けた。それが、中森明菜だった。

(連載完結/文中敬称略)

(西﨑 伸彦/文藝春秋 2021年12月号)

西﨑 伸彦

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