「自分とは無縁の職業と思っていました」 黒柳徹子が女優になり、NY留学を決意した理由

「自分とは無縁の職業と思っていました」 黒柳徹子が女優になり、NY留学を決意した理由

  • 文春オンライン
  • 更新日:2021/05/03

1953年にNHKが初めて募集したテレビ女優の第一号としてデビューした黒柳徹子さん。1958年には自身初となるNHK紅白歌合戦の紅組司会を務め、1961年には第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞するなどテレビの第一線で活躍し続けてきた。1971年、働きづめだった仕事を休んでNY留学することを決意。将来の夢は「いい母親になること」だった彼女が女優になり、アメリカに留学することを決めた理由とはーー。

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黒柳徹子氏の著書『チャックより愛をこめて』(文春文庫)から一部抜粋して紹介する。(全2回中の1回。後編を読む)

◆◆◆

〈【A】  アメリカ〉

いま私は、アメリカでこの手紙を書いております。くわしくいうと、アメリカはニューヨーク、ニューヨークはマンハッタン、マンハッタンは西七十三丁目、セントラル・パークまで歩いて二十メートルの、小さいアパートの五階の、またまた小さい部屋の、台所に近い椅子の上で、書いているのであります。

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ニューヨークのリボン専門店の前に立つ黒柳徹子さん

テレビの仕事と別れて、もう二カ月以上になります。日本をたったのは一カ月半くらい前ですが、ヨーロッパを廻り、最後にオランダのロッテルダム・フィルハーモニーオーケストラでヴァイオリンを弾いてる弟に二年ぶりで逢い、生まれて八カ月の彼の息子のお守りを十日ほどして、やっと一週間まえに、このニューヨークにたどりついた、とこういうあんばいなのです。これから私は、ここに一年いるつもりでいます。その間に、毎月「アルファベットだより」をお送りします。一年は十二カ月で、アルファベットは二十六ですから、Aから始めて毎月、二つずつ、時には三つ、お送りすれば、だいたい一年でZまでいく、という計算になるので、それで「アルファベットだより」としたわけなのです。

私がどうして女優になったのか

さて、何故アメリカに来たのか、ということを、最初にお話ししたほうがいいと思って、Aはアメリカにしました。それには、まず私がどうして女優になったか、ということから始めましょう。

私は「女優になろう」なんて、だいそれた望みなど持ったことは一度もなく、自分とは無縁の職業と思っていました。ところが、ある時偶然に、人形劇を見ました。大人の人たちが指人形を動かしながら、歌ったり喋ったり汗だくになってやっています。その頃、私はオペラ歌手になるべく音楽学校に入ったのに、ちっとも声はよくならないし、曲も込みいってくると間違えてばかりいるしで、オペラ歌手になれる望みはまったくなく、しかも卒業は近づくで、なんとなく憂鬱な気分でいたのでした。人形劇を見て喜ぶ子供たちを見て、結婚して母親になったときに、こんなふうに上手に話のしてやれるお母さんになりたい、とふと思いました。

その直後に新聞で、NHKが放送劇団員を募集していることを知り、それなら、子供に話をするやりかたを教えてくれるに違いないと、なんとなく試験を受けたのです。人生とは不思議なものだと思います。いい母親になりたい、とただそれだけの気持で受けた試験だったのに、いっこうに母親にならず、いつのまにかこんなニューヨークのアパートに一人で住むことになるのですから。

アメリカに来た理由

さて、試験にパスして、NHKの専属になってからの十五年間、とにかく一生懸命やってきました。でも、なにによらず一生懸命やるとくたびれるし、そのことだけにかかりきっていたのですから、ほかのことにゆっくり目をむけたり、新しい何かを常に吸収する、というチャンスはあまりないわけです。そこで私は、一年くらい前に、しばらく仕事を休んで、ひと息いれようと決心しました。ひと息いれるのには、アメリカじゃなくて日本にいても、またよその国でもよかったのですが、まるまる仕事から離れるのと、生活を少し変えてみるためには、やはり日本から出たほうがよさそうだし、言葉の関係とか、友だちがたくさんいるということで、いちおうアメリカにしてみました。これだって絶対ここというわけじゃないので、途中でよその国へ引越してもいいし、というような、いたって自由な考えで、来てみました。

私は今度のこの決心を、汽車がレールからちょっとはずれて引込み線に入るのだ、というふうに考えています。引込み線にじーっと止まっている汽車は、時に寂しげに、またレールを走ってる汽車からすると置いてきぼりをくっているように見えます。たしかに寂しかったり心細かったりもするでしょうけど、案外、いままで急いで走ってるときには気がつかなかった景色を発見したり、新しいことがまわりで起こったりで、自分なりに居心地よくしていられるかもしれません。

とはいうものの、知らない土地で、しかも悪評高いニューヨークに、生まれて初めてのアパート生活を始めようというのですから、やはり相当の度胸がいるとは思っています。というわけで、長くなりました。前説は短いに限ります。では、AのつぎはBにまいりましょう。

〈【B】  ベッド〉

ベッドといっても、いまはやりの×××シーンとかいうものではなく正真正銘の寝床のことであります。小さい部屋とはいっても、アパート難のニューヨークの、しかも、こんな街の真中に見つけられたということは奇跡に近いのです。でも何故か、家具なしなのであります。そこで、なにはさておいてもベッドを手に入れなきゃ、と早速行動を開始しました。

「こんな趣味の悪い家具にかこまれて一年も暮すの?」

くわしい人に聞いたら「どうせ来年、日本に帰るのなら、上等のを買ってもつまらないから、貸し家具屋がいいんじゃない?」「へーえ、貸し家具屋か!」と感心しながら、そういう店に行ってみると、なるほど、ザーッと家具が並んでいます。ベッドも、シングル、ダブル、ソファーベッドに、ベッド兼用長椅子と、よりどりみどり。ところがよく見るとどれも新品なのですが、そのデザインというのが、どれも安物をなんとなく高く見せている、といった趣味の悪さがチラリとうかがえ、どうも感心しない、という代物(しろもの)。それにしても、いったい、いくらくらいで借りられるのだろうか……。

ネクタイをきちんとしめ、愛想はいいけど、どこか気の許せない小父さんが、シングルベッドをなでながらいう。「一カ月、十ドルで結構。もし買うなら即売もしてますよ。百八十ドル……」。「なるほど」と私はバッグから、小さい手帳と鉛筆をとり出す。知らない土地に一年もいようというのだから、態度もおのずとしっかりしてきて、ちゃんと計算してみようというわけです。「えーと、買えば五万九千円。借りれば月に三千三百円。一年で三万九千円か……」。でもこれだけじゃ足りないから、あと椅子にテーブルにじゅうたんに……なんていうと、最小限でも、月に七十ドル、一年で二十八万円。「えっ! ただ借りるだけで? しかも、こんな趣味の悪い家具にかこまれて一年も暮すの? こりゃいやだ!」と、私は「貸し家具屋? へーえ」と感心したことも忘れて、早々に店をとび出しました。

ほかの店もだいたい似たりよったり。さりとて、趣味のいい家具を新品の店屋で買うとなったら、ロックフェラーか、オナシスでも探さなきゃ。

コマーシャルで使われた「小道具」

そこで、いまはやりのアンティクのショップ、つまり骨董屋(こつとうや)、昔流にいえば、古道具屋を探してみることになりました。偶然見つけた店が、テレビ局や映画会社、またコマーシャルフィルムなどに、あれこれ「小道具」として家具を貸してる、という、とても変わった大きい店で、私が女優であるといったら、ひげをはやした店主はすっかり親近感をおぼえたらしく、なんでも安くしてくれる。私がベッドが欲しい、というと「じゃ、これがいいでしょう」と、店の表に止めてある車の中の、クラシックでたっぷりとゴージャスなベッドを指さしていいました。「いいけど、いくら?」「一万九千円でどうです? 新しいマットレスつきで」「安い! 買いましょう」「ただし、これからコマーシャル撮るのに持って行くから、明日の朝、届ける、というのでどうです?」「えっ!?」というような話し合いの結果、その日の本番が終り次第に夜、運んでくれる、ということで話がつきました。どんなシーンを撮ることやら。でも来年、いらなくなった時に、傷つけてなきゃいい値段でひきとってくれるという親切な申し出もあり、結局、買うことにしました。

それ以来、私はそのベッドに寝ているわけですが、寝心地は結構であります。

明日には、テレビドラマで使った緑色の長椅子と、コマーシャルに使ったじゅうたんが届くはずです。

願わくば「撮り残しがあったから、ちょっと返して!」なんて、ベッドを持っていかれるなんてことのないことを!

【続きを読む】「僕と一緒にいれば、百パーセント満足できたのに!」黒柳徹子がNY留学中に出会ったプレイボーイたち

「僕と一緒にいれば、百パーセント満足できたのに!」黒柳徹子がNY留学中に出会ったプレイボーイたちへ続く

(黒柳 徹子/文春文庫)

黒柳 徹子

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