今夜も金縛りがきた。1ページ先も予測不可能、珠玉の心霊探偵小説! 有栖川有栖『濱地健三郎の呪える事件簿』「呪わしい波」試し読み#2

今夜も金縛りがきた。1ページ先も予測不可能、珠玉の心霊探偵小説! 有栖川有栖『濱地健三郎の呪える事件簿』「呪わしい波」試し読み#2

  • カドブン
  • 更新日:2023/09/20
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残暑を吹き飛ばす「心霊の謎」、読んでいきませんか?
「怪と幽」で絶賛連載中の、有栖川有栖さんによる「濱地健三郎シリーズ」。その最新刊の『濱地健三郎の呪える事件簿』から期間限定で「リモート怪異」「呪わしい波」の2話を配信いたします!

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呪わしい波(中編)

>前編はこちら

買い物に出るのが億劫だったし、食欲もわかないので、夜はレトルトカレーで済ませた。今日はろくに野菜を摂らなかったが、たちまち健康を害するわけでもない。朝から三杯目のコーヒーを食後に飲みながら、ふう、と溜め息をついた。
性懲りもなく彦山がやってきたのは不快だったが、ネットでの注文が午後からも三件入り、なかなかの売り上げが立って悪い一日ではなかった。
夕方に持ち込まれた品も気に入った。「こんなものも買っていただけますか?」と初老の男性が出したのは、洒落たデザインの鏡だ。古びてはいたが鏡面には小さな瑕もなく、木製のフレームにあしらわれた蔦の絡まり具合が素晴らしかった。腕のいい職人の手になるものと見えたし、すぐに買い手がつきそうだったので、喜んで引き取った。男性は買値には頓着しておらず、「大事にしてくれる人の手に渡ったらありがたいです」と満足げだった。とりあえず店頭に飾り、明日にはネットに商品として上げるつもりだ。
テレビをだらだら観ていたら、八時半頃に電話が入った。
「用事があるわけじゃないの。どうしてるかな、というご機嫌伺い」
未妃だった。新型コロナの感染が広まった三月から行き来が絶えているが、月に二回は電話をしてくる。
「変わりはないよ。そっちはどうだ?」
「元気にしてる」
「晴也君も?」
「うん。こんなご時世でも、あっちに行ったりこっちに行ったりしてるけどね」
義理の息子は自衛官だった。仕事熱心で優秀らしく、三十四歳で佐官の手前まできている。性格的にも誠実で、婿として不足はなかった。
「ねえ、ちゃんと食べてる?」
「当たり前だろう。日に三度、朝昼晩と食ってる」
「だったらいいけど……。なんか声が違ってる。ちょっと弱々しい」
妻を亡くして四年。娘が結婚して家を離れてから二年。とうに一人暮らしに慣れているのに、まだ無用の心配をしてくる。
「静かな部屋で電話してるから、大声を出していないだけだ。おかしな言い方をするな」
「正直に言うと、前に電話した時から気になってたの。──近いうちに行こうかな。コロナも収まってきているし」
「埼玉から県境を越えてこなくてもいい。困ったことがあったら、こっちから連絡する」
娘夫婦は朝霞市の官舎で暮らしていた。
「車で行くから大丈夫。──もしかして、例の不動産屋がしつこく言ってきてるんじゃないの? それが頭痛の種になっているとか」
「あんな奴らに悩まされたりするもんか。今日ものこのこと顔を出しやがったから、追い返してやった」
ねちねちと様子を話したら、娘のうんざりした声が返ってくる。
「もう判った。向こうも遊びじゃないから今後もうるさく言ってくるだろうけど、喧嘩腰になったりしないでね。興奮したら体にも心にもよくないし」
「近々そっちに行く」「こなくていいぞ」のやりとりを繰り返してから、電話を終えた。
風呂に入り、だらだらテレビを観ているうちに夜が更け、十一時を過ぎる。妙な疲労感があったので、早めに寝ることにした。
戸締りを確かめ、仏壇に手を合わせてから二階へ上がりかけたら、倉庫にしている階段脇の部屋から物音がする。キュルキュルという金属が擦れるような音だ。
ドアを開け、明かりを点けて室内を見回した。椅子やテーブルといった家具を押し込み、その上にランプや花瓶を置いてある。未整理の雑貨は、箱に詰めて床に積み上げたまま。品物にも窓の施錠にも異状はなく、耳を澄ましても何も聞こえない。気のせいか、と階段を上がった。
電灯を消して布団に入ると、静けさが彼を包む。あらかじめ点けていたエアコンの微かな機械音がするだけだ。
よけいなことは考えずに早く眠ってしまおうとしたのに、ここを買いたがっている業者のことに気持ちが行ってしまい、忌々しい。東京でも空き家の増加が問題視されている。マンションを建てたいのなら、土地は他にいくらでもあるだろう。気に入ってそこに住み、商売をしている人間に狙いを定めなくてもいいではないか、と寝床で憤慨する。
ここで古物を扱う店を始めたのは、彼の祖父だ。二代目店主の父が十年前に没すると亘輝が継いだ。ささやかながら三代にわたって続けてきた店である。自分の代で終わりになりそうだが、あと十年や二十年は守りたい。
父が店主だった時代には地価が異常に高騰するバブル景気があり、その時もここを売れと言い寄ってくる不動産業者がたくさんいたと聞いた。さぞや迷惑だったであろう。
暗い天井を見上げながら、記憶にぼんやり残っている父の面影をたどっているうちに眠気を催し、瞼が重くなってきた。これでよし、と思っていたら──。
今夜も金縛りがきた。
体の自由が利かなくなった後、いつもは次第に不穏なものが出現するのだが、今夜は展開が急だ。何かが侵入してくるのではなく、すでに部屋にいる。人だか何だかわからないものが、何人も、いくつも。
砂袋をずるずる引くような音をさせながら、それらが布団のまわりを回り始めた。耳をふさぎたいのに、腕どころか指先すら動かせない。
これは単なる生理現象。とうに医学的にメカニズムが解明されている現象。そう自分に言い聞かせようとしても、今夜はうまくいかない。襲ってくるものの厚みが異なるように感じられた。
また足元から幻の波が寄せてきたかと思ったら、たちまち布団全体が冷たい水に浸かった。波音が聞こえる。最初は足元から。やがて四方から。それに呼応して、部屋中の空気が細かく振動するのが感じられた。
布団のまわりでは奇怪な何かの円運動が続いていた。魑魅魍魎が足を引きずりながら舞踏を楽しんでいるかのようでもある。円舞が時計回りなのか、その逆なのかが何故かどうしても判らない。
氷のように冷たい手が左右から伸びてきて、彼の両腕を撫でる。怖気を震わずにいられなかった。
悪夢の中に閉じ込められたがごとき時間がどれだけ続いたのか、それが去った後、見当がつけられなかった。はてしなく永く思えたが、去ってしまえば慣れ親しんだものしかない、いつもの部屋だ。
──心身の疲労のせいだろう。リラックスして生活しよう。
寝ようとしたら同じことが起きるのではないか、と不安になったが、階下でミネラルウォーターを呷ってから床に戻ると、恐怖で疲れてしまったせいか、ほどなく眠りに落ちた。

車をコインパーキングに駐めた未妃は、仏壇に供える花と父が好きな洋菓子を入れた袋を両手にして降りた。今年は六月に入っても雨が少なく、今日も快晴だ。
実家に足を向けかけたところへスーツ姿の二人組がやってきた。四十代と三十代。上司と部下らしく、若い方から話しかけている。
「もうひと押しってところでしょうか。あれは効いていますよ」
年嵩の方が応える。
「いや、まだふた押しぐらいは要るかもしれない。いずれにせよ、ここまできたんだから焦ることもないだろう」
もしや、と思って見ていると、彼らはカンナギ開発の社名とロゴが入った車に乗り込む。父を訪ねていたらしい。
もうひと押し、とはどういうことか? 父には土地を明け渡すつもりが微塵もない。あれだけ店を大事にしているのだし、母との想い出がいっぱい残っている家だ。好条件を提示されて心変わりをしかけているということなど考えられない。それでも胸がざわついた。
ガラスに〈雑宝堂〉と金文字が入った引き戸を開けると、古物の匂いが鼻を衝く。久しぶりに嗅いだ。甘さと苦さがブレンドされた幽香だ。子供時代に「これって時間の匂い?」と父に訊いたら、「おまえは面白いことを言うねぇ」と喜んでくれたことがある。赤い着物の市松人形が怖くて「あれだけは嫌」とべそをかき、父に片づけてもらったことも。
「きたわよ。お父さーん」
店内に姿がなかったので、マスクをしたまま奥に呼びかけた。返事はなかったが、ごそごそと人が動く音がして、背中を丸めた亘輝が出てきた。掠れた声で言う。
「本当にきたのか。暑い中、車を走らせてこなくていいのに」
顔を見るなり、未妃は息を吞んだ。張りのない電話の声から健康状態を案じていたのだが、三ヵ月ぶりに対面した父のやつれ方は想像をはるかに超えていた。体重はどれほど落ちたのだろうか。目の縁にははっきりと濃い隈があり、頰がこけてしまっている。そして、血色の悪さといったらない。
電話の翌日にでもくればよかった。美容室の予約を入れていたし、スマートフォンが壊れて買い換えるなどの雑用が重なったせいで、あれから一週間も間が空いてしまったのが悔やまれる。その間にも父のコンディションは悪化していったのだろう。
「お父さん……。病気なの? お医者さんに診てもらってる?」
「人の顔を見るなり病人扱いするな。このところ体調があまりよくないが、店を開けてちゃんと働いてる」
「働いちゃ駄目でしょう。休まないと。今にも倒れそう」
「どこも悪くないのに休めるか」
凝ったフレームの鏡が店頭に飾られていた。未妃はそれを取り、父に突きつける。
「毎朝、洗面台で鏡を見ているはずだけど、ほらこれ。病人の顔じゃないの。全体が土色。そんなに瘦せちゃって、猫背で出てくる時の足取りはゾンビみたいだった」
「何ともないだろ」鏡を覗いて、平然と言う。「わざわざ気分の悪くなることを聞かせにきたのか?」
強がっているふうでもないことに不安は募った。鏡に映る自分が「何ともない」ように見えているのなら、精神も変調をきたしているのだ。
コインパーキングで見掛けた二人のやりとりを思い出した途端、とんでもないことが閃いた。あまりにも突飛な発想だったが、反射的に口に出してしまう。
「不動産屋の人がきていたでしょ。そこですれ違った」
「今日は二人、な。けんもほろろに追い返してやった」
「『お瘦せになりましたね』とか言われなかった?」
「おれの機嫌を取ろうとしているのに、そんな失礼なことは言わん」
それはそうだが、言わない方が不自然に思える。まさか、と嫌な想像をした。
「あの人たち、手土産を持ってきたりする? それを食べて具合が悪くなったことは?」
亘輝はかぶりを振った。最初は羊羹などを持参してきたが受け取らなかったし、その後は何も提げてこない、と。
若い方の男の「もうひと押し」という言葉が引っ掛かったのだ。いくら頼んでも交渉に応じない父に対して、彼らは毒入りの菓子を食べさせるといった非常手段に訴えたのでは、と疑った。
「真剣に聞いて。三ヵ月前とは全然違っていて、お父さんは明らかにおかしい。見るなりびっくりした。絶対に体を壊しているはずよ。調子が悪くなったのはいつ頃から?」
未妃は、鏡をかざしたままだった。亘輝はそれを再び覗いてから、ぶっきらぼうな態度で答える。
「ひと月ぐらい前から、体が何とはなしにだるかったりする。たまにあることだ」
自分で自分をごまかしながら過ごしていたようだ。健康管理がなっていない。これだから独り暮らしの男は、と未妃は嘆息した。
「十日ほど前から──」
「えっ?」
床に就くと激しい金縛りに襲われる、とぼやき始めた。亘輝はそんなものには慣れていて、怖がることなどなかったのに。狐狸妖怪や幽霊、呪いや祟りといったものを一切信じていない父が、怯えを帯びた口調で話す。
「これまでとは別物で、あれは金縛りじゃないのかもな」
「別物ということは……?」
難しい顔になり、黙ってしまった。
亘輝は若い頃から体重が変わらないことを自慢していた。それがどうだ。わずか三ヵ月のうちに、七十キロから五十キロぐらいまでに減ってしまったように見受ける。親しい者がそばにいたら、どうかしたのか、と訊かずにいられないだろう。そういう人との接触がないせいで、事態がどんどん悪化したのかもしれない。
コロナ禍が人とのつながりを断ち切ったのも一因だろう。のみならず、昔から交わっていた高齢の隣人や顧客が他界したり転居したりしたことが響いていると思われる。買い物に利用していたスーパーも新しい店になり、父を取り巻く環境は大きく変わっていた。
ネット販売は順調だったらしいが、パソコンを通して、買います、売りますといくら盛んにやりとりをしても、売り手と買い手に対面での接触はない。父は孤立したまま過ごしていたのだ。
立ちっぱなしで話し込んでいた。未妃は手にしていたものを商品のテーブルに置いた。それから来客用の椅子に座り、三ヵ月前の父の写真をスマホの画面に呼び出して、先ほどの鏡を並べて見せた。
「よく見て、お父さん。だいぶ変わっちゃったよね。それは認める?」
今度はじっくりと見てから亘輝は答えた。
「どこが? 同じ面だろう。何の変化もない」
「……瘦せたよね? 鏡を見なくても判るでしょ。腕まで細くなってるもの」
「おれは昔から体重が変わらない。高校時代から瘦せも太りもしないんだ」
とぼけているようでもない。未妃は寒気がした。
「金縛りに関しては、『これまでとは別物』だと感じるのね。体の状態が別物になっているのよ。お医者さんに行こう。すぐに」
若い頃から変わらないのは体重だけではない。白衣を見るのも好きではないほど病院を苦手にしていた。
「内科か? 外科か? それとも、こっちか?」彼は、人差し指で額をとんとん叩いた。「おれの挙動を怪しんでいるんだろう。何回も鏡を見せては、答えを聞くたびに首を傾げていた。おまえは脳の検査を勧めたいみたいだ」
おかしなものだ。父の頭がしっかりしていることは、その言いぶりで判った。息苦しさを覚えて未妃は深呼吸をした。気持ちがいくらか落ち着いた。
金縛りのことが引っ掛かる。それについては父も解せないようだ。
「『これまでとは別物』って、どういうこと? くわしく説明してみて」
「ああ、金縛りな。頻繁に出るようになった。ここ一週間は毎日だ。体が動かない時間も長くなっていて、気味の悪さも増している」
「お化けみたいなのが、いっぱい出てくるの?」
未妃自身は、そのような体験をしたことはない。以前に父の話を聞いて、わが身に起きないことに安堵していた。
「入れ代わり立ち代わり登場する。ただ、三日ほど前から様子が変わって、真っ暗な海を漂流するようになった。真の闇。その中でかろうじて浮かんで、陰々とした水音を聞きながら漂う。お化けの類は出てこないんだが、いたるところで嫌なものの気配がするんだ。前にも後ろにも、頭の上にも水の下にも何かがいる。そのうち上から頭を押され、下から足を引っ張られるんだろうな」
「眠れないじゃないの。わたしだったら布団に入るのも嫌」
「人間なんだから、ずっと起きているわけにもいかない。日中働けば、疲れて夜は眠くなる。別物っぽくなったとはいえ、たかが金縛りという名の錯覚だ。気味の悪さがグレードアップしたのなら、それに慣れてしまえばいい」
無理にでも自分を環境に順応させようとする癖が亘輝にはあったが、ものには限度があり、時に挫折する。身近に相談相手がいないせいか、また無駄ながんばりをしているようだ。
「放っておいてもよくならないかもしれない。どうしてそんなことになったのか原因を突き止めないと」
「原因ったって、思い当たるものはない。同じような日が続いていただけだ。変な客がきて揉めたりもしていない」
土地を売れ、と業者が押しかけてくるようになったのは今年の二月頃からだ。煩わしいながら、それまた日常のひとコマと化していたと言い張る。コロナ禍も落ち着きを見せていたし、そもそも自分はあまり神経質になっていないのだ、とも訴えた。
「とにかく上がれ。せっかく花を持ってきたんだから仏壇に供えてこい」
「うん」と腰を上げた。
レジの脇を通り過ぎる際、ふとカウンターにやった未妃の目にあるものが留まる。
──何なの、これ?
思わず手が伸びた。

(つづく)

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作品紹介

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濱地健三郎の呪える事件簿
著者 :有栖川有栖
発売日:2022年09月30日

江神二郎、火村英生に続く、異才の探偵。大人気心霊探偵シリーズ最新刊!
探偵・濱地健三郎には鋭い推理力だけでなく、幽霊を視る能力がある。彼の事務所には、奇妙な現象に悩む依頼人のみならず、警視庁捜査一課の刑事も秘かに足を運ぶほどだ。リモート飲み会で現れた、他の人には視えない「小さな手」の正体。廃屋で手招きする「頭と手首のない霊」に隠された真実。歴史家志望の美男子を襲った心霊は、古い邸宅のどこに巣食っていたのか。濱地と助手のコンビが、6つの驚くべき謎を解き明かしていく――。

カドブン編集部

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