DDTプロレス・木曽大介が30歳で修業を始めてレフェリーになるまで。試合中は選手のキックで顔面流血も

DDTプロレス・木曽大介が30歳で修業を始めてレフェリーになるまで。試合中は選手のキックで顔面流血も

  • fumufumu news
  • 更新日:2023/03/18
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レフェリーの木曽大介さん 撮影/fumufumu news編集部

アントニオ猪木さんや、武藤敬司さんなど名レスラーの試合には、必ず名レフェリーの姿があります。リング上のルールブックとして存在するレフェリーですが、彼らはどのようにしてこの職業に就いたのでしょうか。そして意外に知られていない仕事内容とは?

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今回は、人気プロレス団体『DDTプロレスリング』所属のレフェリー・木曽大介さんに、レフェリーになった経緯をお聞きしました。

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木曽さん(写真中央) 写真提供/DDTプロレスリング

レフェリーになるためにプロレス団体に入社したのに、カレー屋に!?

──レフェリーになって何年目ですか?

「DDTプロレスリング(以下、DDT)に入社して15年目で、レフェリーとしては13年目です」

──DDTに入社された当時(2008年)は、団体はどのような状況でしたか?

「2009年にDDTが初めて両国国技館で興行を行ったんです。僕が2010年にレフェリーデビューして、'11年とか'12年には、チケットが取りにくい状況になっていました。HARASHIMA(DDT所属)さんと飯伏(飯伏幸太。元DDT、元新日本プロレス)さんとケニー(ケニー・オメガ。元DDT、元新日本プロレス、AEW所属)がいて、本当に団体が大きくなっていった時期でしたね」

──レフェリーになる前は、何をしていましたか?

「栄養士をしていました。スポーツ選手の栄養指導や、スポーツトレーナーの専門学校で栄養学の講師をしていました。『Tarzan』(マガジンハウス刊)に記事を書いたりもしましたね。その後、いろいろあって栄養士の仕事を辞めて無職だった時期に、ボストン・レッドソックスに所属していた岡島(秀樹)選手が、巨人戦で東京ドームに登板したんです。その姿を見て、スポーツを含めたエンタメ業界のすごさに感動しました」

──栄養士を辞めて、どうしてレフェリーになろうと思ったのですか?

「仕事を辞めたときは30歳だったのですが、“生活のために仕事をしなきゃならないのか……”ってマイナス思考になっていた。そんなときに、たまたま澤宗紀(元プロレスラー。国内外の団体に参戦し活躍した)と、タノムサク鳥羽さん(フリーのプロレスラー。手にグローブをはめたスタイルでの試合が特徴)のシングルマッチがDDTの後楽園ホール大会で行われたんです。もともとふたりと知り合いだったので試合を観に行って。そうしたら、高木さん(高木三四郎。DDTプロレスリング代表取締役社長)の入場がすごくカッコよかったんですよ」

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高木社長の決めポーズ! 写真提供/DDTプロレスリング

──高木社長の決めポーズは象徴的ですよね。(高木社長のインタビュー記事はこちら

「そうなんです。決めのポーズで観客と一体化するじゃないですか。岡島選手の登板のときに東京ドーム中にフラッシュが焚(た)かれた瞬間と、高木さんの入場が重なって、すごく胸に響いた。そこで“最後にもう1回だけ、やりたいことに挑戦してみよう”って決意したんです。鳥羽さんに“DDTに入りたい”と連絡をして、面接してもらったのがきっかけです」

──レスラーになりたいとは思わなかったのですか?

「子どものころは漠然と夢見たこともありましたけど、大人になってからはレスラーになりたいとは思わなかったですね。DDTの試合に、松井さん(松井幸則。DDTのレフェリー)と和田京平さん(全日本プロレスの名誉レフェリー。愛称は京平)が出ていたんですよ。レフェリングの塩梅(あんばい)によって会場が盛り上がる。こんなにもお客さんの心を動かすんだって感動しました。僕はサンボ(ロシアの格闘技)の審判員の免許を持っていたこともあって、自分もやってみたいって思った。鳥羽さんは“紹介はするけれど知らないよ”みたいな(笑)。高木さんもどこの馬の骨かわからないやつよりは、知り合いがいいって思って入れてくれたんだと思う」

──入社してからレフェリーになるまでは、順調でしたか?

「いえ。入社当初は“松井さんと、もうひとりレフェリーがいるから空きがない”って言われたんです。ちょうどそのころ、DDTがカレー屋をオープンすることになって、僕は栄養士の資格を持っていたので、カレー屋を手伝うことになった。プロレス団体に潜り込めば、いつかチャンスが来るだろうと思って1年半くらい働いていたんです」

──レフェリーのつもりが、カレー屋さんになったのですね。

「ところが、あるとき『週刊プロレス』(ベースボール・マガジン社)でDDTがレフェリーを募集していたんです。これは何かのネタかなって思ったのですが……(苦笑)。周りから“レフェリーをやりたいってことを忘れられてますよ”って言われたんですよね。それで、高木さんに確かめたら“もっと早く言えよ!”って怒られちゃって。最初に言っていたんですけどね(笑)」

レスラーたちと一緒に練習することがレフェリー修業

──念願のレフェリーにはどのようにしてなったのですか?

「レフェリー見習いになったけれど、僕のほかにももう1人、見習いがいたんです。高木さんから“松井さんに無理だって言われたらきっぱり諦めてくれ”って言われていて、もう1人の彼はデビューまで至らなかった。その後、修業をして半年後の2010年にレフェリーとしてデビューしました」

──レフェリーとしての修業はどのようなことをしたのですか?

「選手と一緒に練習するんです。僕は30歳から始めたので、10歳下の練習生と一緒に合同練習に出ていました。途中まではレスラーと同じ練習をして、レフェリーもやるって感じですね。基本的なルールもあるんですけれど、結局、実際にプロレスをやらないとわからないというか……。とにかく練習をして慣れるしかない。上司だった松井さんが、練習中の道場にもよく来てくれて、“こうしたほうがいいんじゃないか”と指導してもらった。それを半年くらい続けていましたね」

──レスラーと一緒に練習することに対して、抵抗はありませんでしたか?

「僕自身も練習することで、選手との信頼関係を築くという意味があったんです。急にレフェリーとしてやってくるよりは、一緒に練習をしているほうがちゃんと努力しているって認められる。やっぱり実際にリングに立つと、想像とはかなり違うんですよ。選手が走ると“こんなにもリングって揺れるのか!”って体感したり。背中にロープが当たらないようにしても当たってしまったり……。そういう感覚的なものが、実際にやってみると違いましたね」

──レフェリーを始めて、ほかにも違和感や戸惑いなどはありましたか?

「格闘技の審判をやっていたから、選手との距離が近いって言われました。レフェリーとしてデビューしたてのころは、選手との距離が近すぎて投げられた選手の足が当たったことも。危ないのでめっちゃ怒られましたね。ある試合で、なるべくテレビカメラの前を遮(さえぎ)らないようにしつつ、お客さんからも見やすいようにずっと動いていたんですが、そうしたら、タッグマッチの控えの選手から“邪魔だよ!”って言われたんです。怖い選手だと、本当にもう背中にナイフを突きつけられているような(笑)殺気を感じるんですよ」

──基本的に、レフェリーはリング内にいるんですよね。

「リング内ですね。そこでお客さんとマスコミの邪魔になりすぎないように気を遣いつつ、試合の状況を見ているんです。フォールを取るときは、どうしても肩のほうから見て数えないと技を返したか見えない。だから位置取りが必要っていうのはありますね」

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レフェリーはリング上での位置取りが重要 写真提供/DDTプロレスリング

レフェリーに技をかける選手も。試合中、選手のキックが入り流血!

──試合を観ていると、それでもレフェリーのもらい事故ってありますよね。

「選手って、みんなデカいじゃないですか。だからみなさんが思っている以上に衝撃がすごくあるんです。例えば、佐々木さん(佐々木大輔。DDT所属)は、なぜか試合後に僕にみちのくドライバーという技をかけて帰っていたんです。控室に戻ってしばらく休んでから“大丈夫です”って言っていても、次の日になると首の後ろがムチ打ちのような感じになって。軽い交通事故に遭ったくらいの衝撃はありますよね」

──木曽さんはほかのレフェリーよりも選手からよく投げられていますよね。

「僕は身体が小さいので投げやすいんですかね(笑)。子どものころ、レフェリーのジョー樋口さんが失神しているのを見て“なんで!?”って思っていましたけれど、実際にそうなっちゃうんですよね」

──試合中、危険だったなと感じたことはありましたか? DDTでは男色ディーノ選手(注:男性にキスをしたり、相手選手の顔に、露出したお尻をぶつけたりする)からキスをされたりもありますが……。

「あ~、おじさんからキスされるのも嫌ですね……(苦笑)。お尻もお尻で嫌ですけど。いちばん大変だったのは、場外乱闘をしている佐藤光留さん(レスラー、格闘家)を止めに行ったとき。佐藤さんが場外乱闘でめっちゃ怒っていて、蹴られたんですよ」

──90キロほどあるレスラーから蹴られたら、致命傷ですよね。

「まず場外で蹴られる前に、コーナーポストのところで僕の前に立っていた選手が佐藤さんの蹴りを避けたんですが、僕の顔に佐藤さんのブーツが当たって昏倒してしまって。目を覚ましたら鼻血まみれでしたね(笑)。それで佐藤さんが場外乱闘をしていたので止めに行ったら、キックをくらって。佐藤さんレベルになると、バットで叩かれたみたいな衝撃でしたよ。骨が硬いんです。たぶん、蹴っているうちにどんどん足が強くなるんじゃないですか(笑)。めちゃくちゃ痛かったです」

──お聞きしているだけでおぞましいです……。DDTではキャンプ場プロレスなど変わった場所での試合がありますが、そちらでは大丈夫でしたか?

「あのときは車でひかれそうになっていますからね(笑)。キャンプ場は石や枝があるので選手は終わった後は傷だらけです。選手が打ち合った花火で、僕も髪の毛が燃えています。どんな状況でも、フォールを取るために選手が“レフェリー!”って呼ぶんですよ。だからどんな場所でもカウントを取らないといけないんです」

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木曽大介さん 撮影/fumufumu news編集部

レスラーから言われて嬉しかった言葉

──レフェリーをしていてよかったと感じたエピソードはありますか?

「天龍さん(天龍源一郎。元レスラー、2015年引退)ですね。天龍さんは子どものころから見ていましたから。DDTでは天龍さんの試合のレフェリーは普段、松井さんがされていたのですが、その日はたまたま試合後に移動があってできなかった。それで一生に一度だけ、天龍さんのレフェリーをさせていただきました」

──まさに、感激の瞬間だったのですね。

「オーラがすごかったですね。天龍さんはガウンを着て入場するんです。そのガウンから市川海老蔵さんの着物と同じ匂いがしたんですよ! 以前、歌舞伎座の花道に海老蔵さんが来たときに僕が感じた匂いと本当に同じだって気がついたんですよ」

──スターの匂いなのかもしれませんね。では、レフェリーとレスラーはどういう関係だと思いますか。

「単純に信頼関係がある間柄だと思います。この前、ある選手に“どうしても伝えたいことがある”って言われて絶対に文句だと思ったんです。そうしたら、“いろいろな団体に出るようになって、木曽さんのレフェリーがいちばんやりやすいです”って言われて。嬉しかったですね」

◇   ◇   ◇

謎が多いレフェリーという職業。後編では、いいレフェリーの条件について、レフェリー以外の仕事やDDTの魅力について語っていただきます。

(取材・文/池守りぜね)

〈PROFILE〉
木曽大介(きそ・だいすけ)
1978年1月24日生まれ、石川県金沢市出身。2年間の下積みを経て2010年にレフェリーデビュー。栄養士、ライターの肩書を持ち、元サンビスト、元講師でもある。地方巡業ではリングトラック班として深夜の高速道路を疾走中。

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池守りぜね

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