ベストセラー新書「人新世の『資本論』」に異議あり 「脱成長」思想の裏にある“弱さ”とは何か

ベストセラー新書「人新世の『資本論』」に異議あり 「脱成長」思想の裏にある“弱さ”とは何か

  • 文春オンライン
  • 更新日:2022/01/15

かつて、批評家の吉本隆明は『共同幻想論』の中で、人間の正常と異常について書いている。普通では理解しがたいことを、人間はするものだ。個人で冷静なときには変だとわかっていても、私たちは状況が変われば簡単に巻き込まれて悪行をなす。その理由は、人と人との関係がもたらす「幻想」に憑かれて状況判断ができなくなるからだ――これが吉本の主張だった。言いかえれば、僕らの正常・異常の判断など曖昧なもので、てんであてにならないという意味である。

【写真】「コミュニズムか、しからずんば死か」

イデオロギーへの“熱狂”という危険

吉本は戦時中、今回の戦争が絶対に正しいと考え、疑いをもたなかった。でも8月15日を境に、善悪の基準は正反対になってしまった。善悪の基準の瓦解を体験した吉本は、深刻な精神的危機に陥ってしまう。もがき苦しみながら、吉本は人間にとって「信じる」とは何なのかを終生の批評課題に据える。自分の考えを絶対に正しいと「信じる」人間、眼を輝かせて正論を語る人たちを警戒しつづけたのである。例えば戦後、民主主義を声高に主張し、戦前の日本を批判する者たちが知識人を中心に続出したが、吉本がこれを支持することはなかった。なぜなら、自分が常に正義の立場にたち、理想を完全に信じ、他者を糾弾するその目つき、しぐさが、戦前の天皇制支持者とまったく同じだったからである。天皇制絶対主義者と民主主義者は、表面上のイデオロギーの違いがあるにもかかわらず、各々が「信じる」理想にいささかの疑いももたない点で、違いはないと思ったのである。

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ベストセラーとなった『人新世の「資本論」』著者の斎藤幸平氏

またもう一つ、吉本は戦争体験から、批評課題を取りだしてみせた。それが「関係の絶対性」という有名かつ難解な言葉である。この概念で吉本が主張したかったのは、人間にとって、他人と連帯することの難しさだった。人間同士の関係は、自分を絶対的に拘束してくることがしばしばあり、自分独自の考えをもつことはとても難しい。周囲に流されず、反対を恐れずに自己主張することの困難さを、吉本は「関係の絶対性」という言葉に込めたのだった。

吉本は、自分に熱狂し信じ過ぎることを警戒しつつ、一方で、他人と安易に連帯し、同じ方向に滑走していく個人の弱さを戒めてもいる。つまり吉本にとって、人は、常に、どこか醒めていなければならないのであって、自分にも連帯にも陶酔してはならないのである。

37万部超のベストセラーには何が書いてあるのか

私がこんな半世紀以上も前の批評文を引っ張りだし、錆びついた言葉に油をさしているのも、最近、こうした人間洞察が言葉の世界からすっかり消えてしまったからである。例えば、斎藤幸平氏の「人新世の『資本論』」にたいする読後感などは、私に改めて、批評とは何かを考えさせるよい機会を与えてくれた。ここでいう批評とは、国語の伝統に身を置きながら時代状況をえぐりだし、人間の最深部を私たちに向かって差しだしてくる作品のことである。

斎藤氏のこの著作は、気候変動問題を資本主義との関連で論じたものである。氏はこう述べている。二酸化炭素の急激な増加が地球環境に激変をもたらし、温暖化を後戻りできない地点にまで進めてしまった。永久凍土が溶けだし、大量のメタンガスが放出される。それは凍土に閉じ込められていた細菌やウイルスが現代に蘇ることを意味するし、ホッキョクグマが行き場を失い、サンゴは死滅するだろう。最終的に、人間は超富裕層を除けば平穏な暮らしを奪われてしまい生き延びることすら危ういのだ。では、どうしてこのような状況に陥っているのだろうか。答えは明瞭である。「資本主義」こそが、気候変動問題の諸悪の根源である。では資本主義の特徴とは何だろうか。最も鋭く資本主義の問題点にメスを入れた人こそ、『資本論』の著者マルクスに他ならない。

資本主義に閉じ込められた私たちの生活を、「帝国的生活様式」という。先進国の生活は、グローバル・サウスと呼ばれる南半球貧困国からの収奪で成り立っている。もともと資本主義とは、価値の増殖と資本蓄積のために、絶えず新しい市場を開拓しつづける運動のことである。例えば環境破壊が起きたとしても、資本家の眼からみれば利潤を生みだすチャンスと映る。資本家にとっては公共性の高い水でさえも、カネを生みだす商品にしかすぎず、貧困国で強制するアグリビジネスの農業用水のためならば、たとえ地域住民が飲料水に事欠くことがあっても優先的に使用されてしまう。

私たちが商品を買う理由は、それが生活必需品であるよりも、かっこいいからとか、最先端品を身に着けている優越感のために消費する。つまり資本主義は、新たな欲望を強制的につくりだし、購買意欲を刺激せねばやまないシステムなのだ。

貧者の苦悩はお構いなし?

カネをめぐって、斎藤氏がマルクスの概念で注目するのが、「価値」と「使用価値」の対立である。「使用価値」とは、土地や空気や水のように地球上に潤沢に存在し、あらゆる人に使用を許すような、資本主義以前から私たちの手元に分かち与えられた資源である。これは「富」とも呼び変えられるもので、無料で無制限かつ自由に使えるものである。個人的な所有物ではなく、地域の人、あるいは地球全体の人類がつかえる共有物である点に特徴をもつ。

一方で「価値」とは、市場でいくらの商品になるかが重要な指標になる。例えばまっさらな未使用のノートでも、大思想家が一生涯かけた思索の結晶である古本であっても、同じ100円の値がつく場合がある。大思想家の作品に、ノートとは比べようがない無上の価値を認める人は多いだろう。だがそれは、大思想家に独自の個性を認めているからなのであって、資本主義とは、各々の個性をわきに置いて、あらゆる存在を「商品」とみなし、貨幣の前に平等に額づかせる行為にほかならない。人間の命の値段まで数値化されて車の値段と比較できてしまうのが、資本主義の特徴なのだ。

そして「価値」を基本原則とする資本主義は、「使用価値」もすべて商品にしてしまったのである。水や空気、土地などの地球の恵みに価格をつけて、商品化し、貨幣で売買できるようにしてしまったのだ。

資本主義の歯車にからめとられている限り、私たちは環境を破壊しつづけ、また幸福になることもできない。超富裕層だけが利潤を世界中に嗅ぎまわり、貧者の苦悩も環境破壊もお構いなしなのだ。

理想社会に潜む“偽善”とは

ではどうすればよいというのか。レジ袋を削減するなど、小手先の手段は通用しない。もう、それでは間に合わない、遅いのだ。必要なのは資本主義の終焉だ。マルクスの手を借りて現代資本主義の分析を終えた斎藤氏は、「だからより良い未来を選択するためには、市民の1人ひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければならないのだ…正しい方向を目指すのが肝腎となる」(6頁)と主張する。

私たちには「正しい方向」というものがあり、それを目指せば「より良い未来」がやってくる。そのために人々は「行動」すべきであり、正しい道はマルクスを読んだ斎藤氏が知っているというわけだ。

営利目的とは別の小規模の市民による経営、地産地消し、地域コミュニティ内部で循環する経済イメージこそ、「コモン」なのである。それによって生まれる世界と、そこで働く人々の姿は、とても美しい。労働現場での競争はなくなり、意思決定は民主主義的に行われるという。また「自分らしく働く」ために人々は汗をかくのであり、相互扶助の精神があふれている。消費の欲望一辺倒だった資本主義社会が終焉した際の人々を、斎藤氏は次のように描くだろう――「スポーツをしたり、ハイキングや園芸などで自然に触れたりする機会を増やすことができる。ギターを弾いたり、絵を描いたり、読書する余裕も生まれる」(267頁)。また「ボランティア活動や政治活動をする余裕も生まれる」(同)。

このような「脱成長コミュニズム」に、私たちは到達せねばならない。逆に到達しようとしなければ、地球は滅びる。資本主義を停止し、気候変動問題に関心をむけなければ、人間は確実に滅びるのだ。だから「こう言わねばならない。『コミュニズムか、野蛮か』、選択肢は2つで単純だ!」(287頁)。

弁舌が熱を帯び、理想世界を誇らしげに語るこの瞬間、斎藤氏の言葉が硬直化しはじめていることに気づかねばならない。瞳に映る美しい世界に、斎藤氏はいささかの疑いも持っていない。人種や階級、ジェンダーによる分断は、斎藤氏の処方箋によって美しい世界に確実に変わる。これ以外の方法はないと自分を「信じる」知識人の姿がここにはあるのだ。

かくして、斎藤氏は資本主義を乗り越えるために、直接行動を求め始める。保育士一斉退職、医療現場からの異議申し立てにはじまり、ストライキや階級闘争、デモや座り込みといった「直接行動」による連帯こそ、今、世界を変えるために必要だというのだ。世界大の行動につなげていく必要があるというのである。

「コミュニズムか、しからずんば死か」

世界を牛耳る1%の超富裕層に立ち向かい闘争するために、すなわち99%の人々を救うために、私たちは立ち上がる必要がある。それは二者択一の前でコミュニズムの方を選択した少数精鋭たち、例えば3・5%の覚醒した人々によって担われることだろう。「もちろん、その未来は、本書を読んだあなたが、3・5%のひとりとして加わる決断をするかどうかにかかっている」(365頁)。

この鬼気迫る斎藤氏の演説からわかることは次の3つのことである。第一に斎藤氏はこの世界を終末論的に描きだし、「コミュニズムか、しからずんば死か」という選択の前に立たせること。他者を緊張の中に追い込み、一方の選択肢しか選べないような仕方で、決断をうながすために言葉を使う人物であること。第二に、自分が語る世界観の美しさを「信じる」ことに疑いがないこと。そして第三に、他者との連帯と世界への拡張を求めて、声を荒げていること、以上の三点である。

このとき、斎藤氏の演説が、吉本隆明の批評とは別の言葉の使い方をしていることに、私は驚く。吉本にとって、批評とはまず何よりも自分の正義感を「信じる」ことの放棄から始まったからだ。また「関係の絶対性」とは、他者と連帯することがいかに危うい可能性を秘めているのかを指摘した概念であり、自らの手で個性を放棄し、戦争を含めた、集団化した社会運動に没入することを戒める言葉であった。ところが斎藤氏の演説には、この感受性のいずれもがなく、言葉の「しなやかさ」が欠如している。他者との連帯は無条件に善だと信じられていて、際限なく拡張すべきだとされているからだ。そもそも、地域コミュニティとは、時間の蓄積をもち、長年の付き合いと郷土愛によってつくられるはずである。にもかかわらず、地域への愛情による「つながり」が、怒りの連帯、世界大のデモ運動にまで一気に飛躍するのはなぜなのか。斎藤氏はここで、2種類の「つながり方」を無意識のうちに粗雑な手つきで扱っている。

(先崎 彰容/文藝春秋 2022年2月号)

先崎 彰容

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