ミッドウェー海戦大敗北は「利根四号機」の責か 重巡「利根」とその艦載偵察機の戦い

ミッドウェー海戦大敗北は「利根四号機」の責か 重巡「利根」とその艦載偵察機の戦い

  • 乗りものニュース
  • 更新日:2021/11/25

ミッドウェー海戦の敗因に挙げられる「利根四号機」とは

太平洋戦争の勝敗の分水嶺となったミッドウェー海戦、その日本側敗北の原因のひとつが、重巡洋艦「利根」のカタパルト故障による零式水上偵察機「利根四号機」のアメリカ空母発見の遅れだとする説は長く唱えられてきました。ウォルター・ロード著『Incredible Victory(信じがたい勝利): The Battle of Midway』にもそうした記述があり、そして「利根四号機」はすっかり有名になってしまいました。敗北の責任は「利根」にあるのでしょうか。

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「利根四号機」としても使われた零式水上偵察機。戦艦や巡洋艦など主力艦艇に搭載され、文字通り海軍の目となった。

「利根」は1938(昭和13)年11月20日に竣工した、索敵力を重視した特異形態の水上機母艦的な巡洋艦で、巡洋艦の戦闘力を持ちながら捜索力も強化し空母の艦載機戦力を割くことなく、機動部隊の索敵能力を補完する目的で建造されました。

従来の巡洋艦は後部砲塔近くに水上機を配置しており、発砲の衝撃で水上機が破損してしまうので、砲戦前に発進させなければなりませんでした。「利根」はこの問題を解決するため、主砲塔4基を艦前部に集中配置し、後部は水上機運用甲板とする一見、特異な主砲の前方集中配置としたのです。水上偵察機6機まで搭載可能でしたが、4機から5機を定数として運用されました。

その形状のおかげで「利根」は、砲塔や弾薬庫といったバイタルパートが小さく収まって重量をあまり気にせず装甲を厚くでき、日本海軍の重巡としてはもっとも防御力が高くなりました。集中配置した連装の主砲を斉射すると複数の砲弾が干渉しあって、命中率が悪くなる欠点がありましたが、左右両砲の発砲に0.03秒差をつけるように改修されて解消しています。

ほか、艦内スペースに余裕ができて居住性が良い、艦橋が艦の中心にあって操艦しやすい、航続力も巡洋艦の中では最大、など、使い勝手の良く評判も高いフネでした。

時代にマッチした重巡「利根」のコンセプト

「利根」の索敵能力はハワイ作戦(真珠湾攻撃)でいかんなく発揮され、搭載する水上偵察機「利根一号機」は第1次攻撃隊の1時間前にハワイ上空へ侵入して偵察活動を行い、攻撃直前の現地天候や敵情など攻撃隊に有益な最新情報を送りました。

この索敵能力の真価を問われたのがミッドウェー海戦でした。空母中心の機動部隊は戦艦に比べても高速で、艦載機による攻撃リーチも戦艦の主砲よりはるかに長くなります。先に敵を見つけた方が有利で、索敵能力が勝敗を決するといっても過言ではありません。

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重巡洋艦「利根」。1937年撮影(画像:アメリカ海軍)。

敵味方ともに高速で広い海域を動き回っている機動部隊同士です、その索敵には綿密なプロットが必要になります。我の予定航路と敵の想定航路を勘案し、索敵機の機数から発進のタイミングまで偵察網のメッシュがなるべく細かくなるように計画を立てます。

しかし、索敵機の数を多くすれば攻撃に回す機数が減ることにもなります。雲の量など天候にも左右されますし、当時の無線機や航法機器もあまり頼りになりません。しかも低速の水上機は敵戦闘機に発見されたら逃げられませんので、接敵も慎重にならざるを得ません。索敵は多分に運任せでした。

そうしたなかで「利根」偵察巡洋艦というコンセプトは、索敵機の数を増やす意味でも先見性があったといえます。

「利根四号機」がミッドウェー海戦の敗因に挙げられるワケ

ミッドウェー海戦での実際のアメリカ空母の進路をたどると、「利根四号機」が予定どおり発進していたら彼らを発見することはできませんでした。「利根四号機」の航法機器が狂っており、飛行コースが予定より南にずれ、しかも何らかの理由で予定よりも短い距離で引き返しています。その結果、空母「ヨークタウン」を発見することができたわけですが、しかし航法機器の狂いは後々まで影響します。同機は敵空母位置を北に160kmもずれて報告しており、これが日本機動部隊司令部に、敵艦隊とはまだ距離があり敵機来襲まで時間的余裕があると誤った判断をさせてしまったともいわれます。

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ミッドウェー海戦、日本機動部隊からの索敵線。利根四号機は予定のコースを飛ばなかったため米空母と接触できたが、誤った位置を報告した(作図:月刊PANZER編集部)。

「赤城」「加賀」「蒼龍」の3空母が被弾後、単独で反撃することになった「飛龍」の攻撃隊が間違った位置情報の「ヨークタウン」を攻撃できたのは、ヨークタウン艦載機を発見、追尾できたという幸運によるものです。「利根四号機」が敗北の戦犯というのは言い過ぎでしょうが、敵空母発見の功労者とも言い切れません。

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1945年7月24日、呉で空襲を受ける「利根」。米空母「シャングリラ」の艦載機が撮影(画像:アメリカ海軍)。

「利根」はその後も、偵察戦という地味ながら重要な任務を黙々とこなします。レイテ沖海戦では姉妹艦「筑摩」を失いながらも生き残り、1945(昭和20)年1月1日付で練習艦となり、燃料不足から呉から動けず、大破着底状態で終戦を迎えます。1948(昭和23)年9月30日に解体完了、「利根」が呉地区に残っていた最後の大破艦でした。

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1945年10月8日に撮影された、呉で大破着底した「利根」(画像:アメリカ海軍)。

ミッドウェー海戦当時、「利根四号機」機長だった甘利洋司飛曹長(後に少尉)は、その後、練達の水上機パイロット主体で編成された夜襲飛行隊「芙蓉部隊」に配属されます。沖縄戦のなか、アメリカ軍に占領された北飛行場を夜間爆撃に成功するなど活躍し、やがて1945年(昭和20)年5月13日、艦上爆撃機「彗星」で索敵中にアメリカ空母を発見します。ミッドウェー海戦に続き敵空母発見の最重要電文を2度も発信したことになりますが、その直後、敵戦闘機に撃墜され戦死しています。

月刊PANZER編集部

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