【逆説の日本史】日本軍の総攻撃を大幅に遅らせた「山東百年來と稱する暴風雨」

【逆説の日本史】日本軍の総攻撃を大幅に遅らせた「山東百年來と稱する暴風雨」

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  • 更新日:2023/09/19
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作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その7」をお届けする(第1393回)。

* * *
ドイツの青島要塞攻略の最高司令官だった神尾光臣中将が取った戦略について、当時の新聞はどのように伝えたか? たとえば、『東京朝日新聞』一九一四年(大正3)十月六日付朝刊には、日本初の「航空母艦」とも言える『若宮』が機雷に接触して戦闘不能になった件を、次のように報じている。その前置きだが、

〈▲松村侍從武官語る
▽若宮丸の遭難を目撃す
=四日門司特電=
四日出征艦艇所在地より歸來せる御慰問使侍從武官松村海軍大佐は往訪の記者に對し左の如く物語れり
敕諚を奉ぜる予(松村海軍大佐。引用者註)は廿七日佐世保より某船に便乘して廿九日勞山灣に到着し直に御使たるの大任を以て第二艦隊司令官に會し茲に優渥なる▲御慰問の聖旨と有難き御下賜品を傳逹したるが長官を始め將卒は聖旨の海よりも深きに感泣し長官よりは辱なく奉答の辭を述べられたり〉

言わば、こうしたときの決まり文句である。大正天皇の現場激励の意を受けた侍従武官の松村大佐は、九月二十七日にたぶん九州の門司を出港し、二十九日には現地に到着した(詳細な日程は軍事機密になるので、ぼかしてある)。そこで海上封鎖の任務に当たっていた第二艦隊の司令長官に「優渥なる」陛下のお言葉を告げたところ、長官以下大変に感激したということである。そして松村大佐は「一駆逐艦(これも艦名は明記されない)」に搭乗して湾内の艦艇を激励していたが、そこで若宮の災難を目撃した。

〈當日午前八時恰も哨界▲司令船若宮丸の敵機械水雷に觸れ偶難に遭へるに會し且や述掃海船第三長門丸之れを救はんとして述も敵の水雷に觸れ轟然たる大音響を發し瞬間に於て船體の聳てると見るや水煙天に沖して凄じく船體を沒し去り戰死者を出したる〉
(引用前掲紙)

要するに、湾内には日本海軍来襲を予想していたドイツ海軍によって機雷が多数バラまかれており、大変危険な状況だったということだ。しかし「日本兵はそんなことでは屈しない」というのが、この時代の報道の「立場」である。

〈此處に臨める予は水雷爆破の爲めに頭部び顏面に甚だしく火傷を負へる一兵卒を見舞ひ嘸や痛みやすらんと尋ねたるに『イヤ少しも痛みを覺えず』と健氣にも答へたり〉
(引用前掲紙)

もちろん、こう報告しているのは松村大佐であって朝日新聞記者では無いが、こうした言葉の真偽を疑いもせずに他人が言ったことをそのまま報じているのだから「客観報道」だというのが、朝日新聞のみならず日本の大手マスコミの「手口」である。そして、戦前いわゆる「昭和二十年以前」は、軍部つまり陸軍海軍についてはすべてこのような応援団的報道をしていたのに、戦後になると自衛隊に一人でも悪いことをした人間が出現すると、自衛隊全体に問題があるかのような「客観報道」をしていたのも日本のマスコミである。

それは逆に、かつてのソビエト連邦や中国や北朝鮮については応援団的報道しかしないという「立場」にも通じる。もう少し高いレベルのマスコミが日本に存在しないものかと願うのは私だけでは無いだろうが、話を続けよう。

基本的にこの時代の航空機は偵察用であったと述べたが、戦闘機としてはともかく爆撃機としては有効であった。上空から搭乗員が爆弾を投げつけることは物理的に可能だからである。そしてこの松村大佐も爆撃を目撃している。

〈若宮丸遭難の際敵は遙に之を認めたりけん我所在艦艇び救助船を攻撃せんとして青島より一飛行機に搭じて予等の頭上に飛び來り爆彈を投下せしも外れて危くも附近に落ち徒らに海水を跳らしたり〉
(引用前掲紙)

初期の航空機は飛ぶのが精一杯で積載能力も低く、それゆえ大型爆弾は積めなかった。それどころか、上空から釘の束のようなものを投げて撹乱したという話すらある。ちなみに、前回紹介した東宝映画『青島要塞爆撃命令』を観ると航空隊は海軍にしかなかったように見えるが、陸軍にも「モ式」飛行機を中心とした航空隊があった。日本初の空中戦には、陸軍の飛行機も参加している。

「血河屍山の総攻撃」など必要無し

それでは、肝心の青島要塞に対する直接攻撃を朝日がどのように報じていたか見てみよう。この若宮の沈没記事と同じ紙面に、この戦いに「●眞先に火蓋を切つた ▽某艦長某大佐の實話」という見出しが躍っている。これは湾内の塔連島という拠点を占領したということであり、要塞本体とは関係無い。この戦いの中心は海軍第二艦隊による湾内封鎖では無く、あくまで山東半島の北側に上陸し南下して青島に向かった陸軍の要塞に対する直接攻撃である。

それは要塞を包囲する砲台陣地を構築し、多数の重砲を配置して徹底的に砲撃を加えるというものであった。その攻防がこの記事から四日後の『東京朝日新聞』十月十日付の紙面に、「●青島攻圍軍の經過」という表題で掲載されている。特派員「美土路春泥」の署名記事である。「春泥」の本名は美土路昌一。入社六年目の若手だが、後に朝日新聞社の社長になる人物だ。

記事は長文にわたるので要約すると、冒頭で敵の主要砲台であるイルチス砲台からわずか「二里」の攻囲軍総司令部にたどり着いた美土路は、「未だ滿を持して放たず重砲攻城砲の到着を待つて愈一擧敵の死命を制すべく血河屍山の總攻撃は愈本月二十五日前後を以て開始さるべし」と気勢を上げている。しかし、美土路は肝心なことがまるでわかっていない。その証拠が「血河屍山」というおどろおどろしい言葉である。

これは間違い無く日露戦争の旅順要塞攻撃をイメージしている。すでに述べたように、攻撃軍の総司令官である乃木希典大将は限られた期間内で要塞を陥落させる必要があったし、逆にそのために本来なら切り札となるはずの重砲が簡単には入手できなかった。戦場は旅順だけでは無かったからである。だからこそ歩兵による強行突撃という、兵士を多数犠牲にする作戦を取らざるを得なかった。その結果、争奪の地となった二〇三高地は屍が累々と並び多数の血が流れた。文字どおり「血河屍山」となったのである。

しかし、この青島要塞攻防戦ではそんなことをする必要がまるで無かった。主戦場はここだけだし、敵の援軍が来るはずも無い。だからじっくり時間をかけ、歩兵の突撃では無く砲兵の砲撃で攻撃すればよい。つまり、最初から「血河屍山の総攻撃」など必要無いし、結果的にそうなることもあり得なかったのである。それが総司令官神尾光臣中将の当初からの作戦だった。それなのにそういう言葉を使うということは、要するになにもわかっていないということである。

『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』でも述べたように、朝日に限らず当時の新聞記者たちの多くは、きわめて短期間で旅順を陥落させたと恐れた敵将クロパトキンのように乃木を名将として評価せず、一万五千人もの日本兵を「犬死に」させた愚将として軽蔑していた。にもかかわらず、乃木が明治天皇に殉死すると「嗚呼、忠臣乃木大将」と礼賛し、そのことによって旅順攻防戦を「聖戦」にしてしまった。

だからこそ状況を無視した「血河屍山の総攻撃」などという「美辞麗句」が出てくるわけで、もうおわかりだろうが、こういう見方は日露戦争終了後に締結されたポーツマス条約が日本にとっては大きな成果であったにもかかわらず、「屈辱講和」などと事実とまったく異なる報道をし大衆を扇動することによって日比谷焼打事件を起こした姿勢にも通ずるものだ。

しかし、実際の総攻撃は美土路が予測した十月二十五日前後では無く、三十一日に行なわれた。じつは、これよりずっと早い時期に総攻撃が行なわれると、新聞だけで無く東京の陸軍参謀本部も予測していた。だがそうはならなかったのは、異常気象とも言ってもいい天候不順があったからである。神尾率いる第十八師団は九州長崎から海を渡り山東半島の北にある龍口に上陸したのだが、ここに至るまですでに九州で暴風雨によって鉄道路線が寸断されるという「困難」に悩まされた。そして、じつは上陸してからも同じような困難に遭遇した。ここは美土路の文章を借りると、

〈然るに我軍は更に不可抗力の第二の困難に遭遇せり運送船は豫定の如く第一期上陸隊を乘せて豫定の如く九月二日龍口に到着直に上陸を開始せり。此時に際して何等敵軍の抵抗を受けざりしも此處にても山東百年來と稱する暴風雨の爲上陸に非常の困難を生じ時には全然上陸する能はざるの日もあり。夫が爲に我軍の全部龍口に上陸を完了する迄に凡そ十數日間遲延を生ずるの已むなきに至れり〉
(引用前掲紙)

この記事の「山東百年來と稱する暴風雨」というところは活字を大きくしてある。よほど印象的な大豪雨だったのだろう。そしてその猛威は上陸してからも収まらなかった。

〈加ふるに一度上陸を終りて前進を開始するや連日の暴風雨の爲めに濁水は山東の野に漲り時には腰、甚だしきに至つては路上水深乳部に逹するに至る〉
(引用前掲紙)

なんと、道路を歩いているはずなのに水が胸のところまで来たと言うのである。当然、橋なども流され肝心な糧食の輸送もままならない。こうしたなか、騎兵はまったく難渋しついに水馬術も使わざるを得なかった、という。水馬というのは戦国時代からある武芸の一つで、武士が馬に乗ったまま馬を泳がせることによって川を渡る技術だが、大正時代になっても日本騎兵に継承されていたようだ。

とにかく、最後尾から進軍した神尾司令官直属の部隊ですら糧食の補給がままならず、「數日間兵卒と同一の食事を取りつゝ前進を繼續せり」という有様だった。その内容は「一日に米二合を給せらるゝのみにて他は麥粉二合、粟二合、甘薯百匁宛を給して一日の糧とするに至れり」というものだった。ちなみに甘薯はサツマイモで、百匁は三百七十五グラムである。

ドイツ軍に妨害されることを恐れて山東半島北側の龍口から上陸したにもかかわらず、思わぬ「伏兵」の大豪雨に散々痛めつけられた陸軍は、方針を転換して一部部隊を南の労山湾から上陸させることにした。海軍の第二艦隊が湾を封鎖しているうえに、すでに述べたように援軍が来るはずも無く、上陸を妨害される心配は無い。唯一の障害は若宮を戦闘不能にした湾内にバラまかれた機雷だが、このころになると海軍の哨戒活動が進み湾内の航行に支障は無くなっていた。

陸軍の将兵を満載した輸送船が触雷して沈没するなどという可能性はゼロになったということだ。そこで陸軍は、龍口上陸部隊と労山上陸部隊を要塞付近の即墨(地名)で合流させた。九月二十四日のことで、九月二日に最初の部隊が上陸してからすでに三週間が経過していたが、二十六日午前六時には夜明けとともに進軍を開始した。もちろん目的は要塞への「歩兵突撃」では無く、重砲を設置できる要塞周辺の拠点を占領することだ。

目標拠点は、日露戦争の二〇三高地にあたる青島要塞を砲撃可能な浮山と孤山だったが、ドイツ軍はこの地点を死守する気は毛頭無かった。そもそも日本軍は陸海合わせて約二万三千人もいる(このほかに同盟国のイギリスから約二千人の応援が来ていた)。ドイツ軍は孤立無援で明確では無いが、兵員数は一万人を下回っていたようだ。これでは兵力を分散するわけにはいかない。青島要塞への「籠城策」を取るしかなかった。

これに対し、日本軍は余裕綽々である。何度も言うように、焦る必要はまったく無い。そこで神尾中将は全軍を挙げて強力な砲台の構築を開始した。ところが、またしても大豪雨が彼らを悩ませたのである。いかなる場所にせよ土木工事の最大の敵は大雨である。また重砲というきわめて重い「荷物」を砲台に設置するということは、坂道を運搬することでもある。高いところにあるから「砲台」なのだが、お気づきのようにこうした作業にもっとも障害となるのも大雨である。したがって作業日程は大幅に遅延した。

そういう現地の事情をまったく無視すれば、日本軍は九月の頭に上陸を果たしたのに十月が終わりに近づいても一向に総攻撃を始めないし、当然青島要塞を陥落させられない。いったいなにをしているのか、という見方が出てきても不思議は無い。もちろん、それはあくまでも「山東百年來と稱する暴風雨」という事情を無視すれば、の話である。ところが、正確に物事を伝えるのがジャーナリストの使命であるはずなのに、この世の中にはそうでは無い連中もいる。

(第1394回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2023年9月29日号

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