「絶対隠さないと...」 元阪神・井川氏が今だから明かせる高校時代の“大失態”

「絶対隠さないと...」 元阪神・井川氏が今だから明かせる高校時代の“大失態”

  • フルカウント
  • 更新日:2022/06/23
No image

阪神、ヤンキース、オリックスでプレーした井川慶氏【写真:槌谷綾二】

水戸商では甲子園出場を逃すが、能見らと共に「高校生左腕三羽烏」と注目を集める

阪神のエースとして沢村賞を獲得するなど、日米通算95勝をマークした井川慶投手。茨城・水戸商高時代は甲子園出場を果たせなかったものの、平安・川口知哉(元オリックス)、鳥取城北・能見篤史(現オリックス)と並んで「高校生左腕三羽烏」として注目を集めた。今回、Full-Countでは井川氏のプロ入りの原点となった高校時代を前後編で振り返る。

小、中学生時代は地元の軟式野球チームに所属していた井川氏。元々、左投げで背も高くエースとして活躍していたが「町内では普通の投手。○○代表などの肩書はなく最高成績も県大会出場でした」。高校進学の際にも「どうせ、やるなら強くない学校がいいなと。自分が試合に出られないと楽しくないなぁ、と考えていましたね」と、振り返る。

一旦は野球の実力も平均レベルだった私学に進学が決まっていたが、野球部の部長が水戸商の推薦を持ちかけたことで、一転して地元の強豪の門を叩くことに。「考えていることと違うことになりましたが、入ってみると自分のスタイルに合っていた高校でした」。水戸商は、井川氏が入学する前年(1994年)に夏の甲子園に出場するなど、現在まで春夏14回の甲子園を誇る名門。練習は厳しかったものの、「3年間続けることができたのは上下関係もなく暴力も一切なかったから。部活動に集中できる環境でした」。

入学当初は最速120キロも学年ごとに目標設定「その数字を達成できて嬉しかった」

入学当初のストレートの最速は120キロ。練習についていくのがやっとだった1年時はメンバー入りを果たせなかったものの、学年ごとに目標を掲げてトレーニングに没頭した。「自分のなかで一冬越えるごとに130キロ、140キロと設定した。1年、2年とその数字を達成できて嬉しかった」。ただ、マイペースなところは昔から変わっていなかった。

「僕は朝練習をやったことがなかった(笑)。周りの皆はやっていましたが、チームに強制的な朝練はなかった。朝は起きるのが苦手だったので、学校の授業に間に合えばいいと。いい環境でした」

初めて背番号を貰ったのは2年の春。公式戦の登板もあったが、1学年上の先輩投手も130キロ台を投げる好投手だったため、井川氏は控え投手としてベンチ入りした。2年の時は目立った成績を残すことはできなかったが、秋になって新チームを迎えると初めて背番号「1」を背負い、エースとして高校生活の最終年を迎えた。

自主練習では、なぜかフリーキックの練習を繰り返し内転筋を痛め、その後に断裂

翌年の選抜大会出場をかけた秋の県大会を前に事件が起きる。井川氏は練習後に各自で行う自主練習で、なぜかフリーキックの練習を繰り返していたという。

「元々、サッカーは好きだったので、監督がいなくなった隙をみてやっていた(笑)。ですが、やりすぎて内転筋を痛めてしまった。野球の練習以外で怪我をしたので、これは絶対に隠さないといけないと感じてましたね」

翌日、左足を痛めながら練習に参加。打撃投手を務める際に、スパイクを履かずに登板し、足元を滑らせた。ブチっという音と共に感じた強烈な痛み。「やってしまった、と……。力が入らなくなって、病院で検査を受けたら左足の内転筋が切れていた。これがプロに入ってからも響くことになった」。後の選手生命に関わることに。怪我を隠しながら投げたが、秋季大会は大敗を喫して甲子園を逃してしまった。

「ただ、ただ失敗してしまったと……。この1件があってからは『もう迷惑はかけられない』と。そこからトレーニングの意識が今まで以上に変わりました」、自らの不注意で甲子園出場のチャンスを逃したエースは冬の練習を乗り越え、翌1997年の春にプロのスカウトから注目されるほどの覚醒を遂げることになる。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)

橋本健吾 / Kengo Hashimoto

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

外部リンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加